56 どうか、安心してくださいな
西の空が燃えるような茜色から、夜の訪れを告げる深い藍色へとゆっくりと沈みゆく頃。
森の木々の間を吹き抜ける風は、昼間の厳しい熱気をわずかに冷まし、心地よい涼やかさを診療所の中へと運んできていた。
清流の傍に渡した縄に干してあったコルネリアの衣服は、夏の強い日差しと風のおかげですっかりと乾ききっていた。
彼女は奥の居住区画で、借りていたカエラムの大きな麻のシャツを脱ぎ、見慣れた自身の清楚なドレスへと着替えを済ませていた。
円卓の傍で薬の調合記録を整理していたカエラムは、いつも通りの装いで部屋から出てきた彼女の姿を見て安堵の息を吐き出した。
自身の理性を激しく揺さぶり、狩人の青年の顔を林檎のように赤く染め上げたあの無防備すぎる姿が、ようやく彼女の身体から取り払われたのだ。
これでようやく、平静な心で彼女と向き合うことができる。
――しかしそれとは裏腹に、彼の胸の奥底のほんのわずかな片隅で、彼だけを包み込んでいたはずの自身の衣服が彼女の肌から離れてしまったことに対する、微かな名残惜しさがくすぶっていたのもまた事実であった。
「すっかり服が乾きました。先生、お貸しいただき本当にありがとうございました」
「いえ。元はと言えば、開けた窓から風を入れすぎてしまった私の不注意でもありますから。無事に乾いて何よりです」
カエラムは手元の羽ペンを置き、穏やかな微笑みを浮かべて立ち上がった。
「さて、すっかり夕食の時間ですね。タツィオ君が置いていってくれたルリヴィアの卵と、マルタさんからいただいた夏野菜を使って、二人で食事の支度にとりかかりましょうか」
「はい! あの大きな卵、どのようにお料理いたしましょう?」
二人は並んでキッチンスペースへと向かい、かまどの前に立った。
コルネリアが籠から取り出したルリヴィアの卵は、彼女の両手でようやく包み込めるほどの巨大なものであった。
青みがかった美しい殻を慎重に割り、大きなすり鉢の中へと中身を落とす。
姿を現したのは普通の鶏卵の数倍はあろうかという圧倒的な量と、濃いオレンジ色をした、生命力に満ちた弾力のある黄身だった。
「これほど立派な卵であれば、たっぷりと具材を包み込むことができますね。少し趣向を凝らした料理にしてみましょう」
カエラムの提案で、二人の見事な連携作業が始まった。
コルネリアがマルタからもらった赤く熟したトマトを湯剥きし、丁寧に裏ごしをして滑らかな酸味のある果汁を作る。
カエラムは手際よくタマネギを細かく刻み、保存してあった燻製肉の塊を小さな角切りにしていく。
かまどの火力を上げ、熱した鉄鍋に少量の油を引くと、タマネギと燻製肉を炒め合わせた。
タマネギの甘い香りと燻製肉の香ばしい脂が溶け出したところへ、昼間の残りの冷や飯を投入し、全体に味を馴染ませていく。
仕上げに、コルネリアが作ったトマトの果汁をたっぷりと回しかけ、水分が飛ぶまで炒め上げれば、酸味と旨味が凝縮された赤い炒め飯の完成である。
そして、ここからがルリヴィアの卵の出番であった。
別の平らな鉄鍋にたっぷりのバターを溶かし、よく溶きほぐした巨大な卵液を一気に流し込む。
火が通り過ぎないよう、カエラムが絶妙な手首の動きで鍋を揺らし、半熟の柔らかな状態を保ったまま、中央に先ほどの赤い炒め飯を山盛りに乗せた。
木のへらを使い、卵で具材を左右から優しく包み込んでそのまま大きな大皿へと転がすように移し替える。
かまどの柔らかな灯りに照らされて現れたのは、大皿の端から端までを占拠するような――見事な特大のオムライスだった。
「わあ……! なんて見事なのでしょう。まるで、絵本の中に出てくる魔法のお料理のようですわ」
コルネリアが感嘆の声を上げ、目を輝かせる。
付け合わせには残りの夏野菜の旨味が溶け出した温かいスープを添えて、二人は円卓へと向かい合った。
「さあ、冷めないうちにいただきましょう。これほど大きいと、二人で切り分けながら食べるのが良さそうですね」
カエラムが中央から真っ二つに匙を入れると、柔らかな卵の隙間から、赤い炒め飯と燻製肉の湯気が立ち昇り、食欲を強く刺激する芳醇な香りが室内に広がった。
それぞれの取り皿に取り分け、熱々のオムライスを口へと運ぶ。
「……美味しいですわ! 卵が驚くほど濃厚で、お口の中でふわりと溶けていきます」
「ええ。燻製肉の強い塩気を、トマトの酸味と卵のまろやかさが見事に包み込んでくれていますね。あなたのトマトの下ごしらえが完璧だったおかげですよ」
森の奥でしか手に入らない貴重な卵と、愛情たっぷりに育てられた夏野菜。
最高の食材を使い、二人で肩を並べて作り上げた夕食の味わいは、どのような高級な料理よりも深く、彼らの心と身体を満たしていった。
食事の間、二人の間には穏やかな会話と、互いの存在を慈しむような温かな視線が絶えず交差していた。
やがて食事が終わり、満足感とともに空になった食器を片付ける時間が訪れた。
コルネリアが洗い物を終え、清潔な布で円卓の表面の汚れを丁寧に拭き取っていた――その時。
背後から、静かな足音が近づいてきた。
次の瞬間、コルネリアの背中に、高く規則正しい体温を持った広い胸板がぴたりと密着した。
「……先生?」
驚いて振り返ろうとしたコルネリアの身体を阻むように、カエラムの長く逞しい両腕が、彼女の華奢な腰を背後から逃げ場をなくすようにしっかりと抱きすくめた。
そのまま彼の少しだけ寝癖のついた翡翠色の髪が彼女の首筋に触れ、カエラムの真っ直ぐな鼻筋と額が、彼女の右の肩口へとこつんと、自身の体重をすべて預けるように乗せられた。
普段の彼であれば、決して見せることのない姿勢。
常に彼女を優しく見守る立場であった彼が、自身の大切な宝物を誰の目からも隠そうとするように――彼女の背中に深く顔を埋め、ただひたすらにその体温を吸収しようとしている。
「どうされたのですか……? お怪我の治療や薪割りで、お疲れが出たのでしょうか」
コルネリアは拭き掃除をする手を止め、自身の腰に回された彼の大きな腕に、そっと自身の手を重ねて問いかけた。
肩口に顔を埋めたままのカエラムから、ひどく甘く――そして、どこか切実な響きを持った声が漏れ出た。
「……まだ、治まらないのです」
彼の熱い吐息が首筋にかかり、コルネリアの肩が微かに跳ねる。
「昼間、あなたのあの姿を他の男に見られてしまった時の、胸の奥がひどく焼け焦げるような動揺が……未だに、静まってくれません」
カエラムの腕に、微かに強い力が込められる。
それは、理性や建前をすべて放棄した、ただ彼女を独占したいという剥き出しの感情の吐露だった。
「あなたは……私の想像を遥かに超えて、愛らしすぎる……他の誰の目にも触れさせず、このまま一生、私だけの腕の中に閉じ込めておきたい衝動に駆られるほどに」
首筋にすり寄るようにして紡がれるその言葉に、コルネリアの全身の血液が一気に沸騰したかのような熱を持った。
普段の圧倒的な頼もしさと、いざという時の完璧な庇護。
その裏側に隠されていた、こんなにも不器用で――どうしようもなく甘やかな独占欲。
自分という存在が、この冷静で優秀な名医の心をここまで狂おしく乱しているという事実に、コルネリアの胸の奥で、限界を超えるほどの愛おしさが爆発した。
コルネリアは自らの腰に回された彼の手を優しく撫でながら、ゆっくりと、彼に抱きしめられた姿勢のまま身体を半分だけ後ろへと振り返らせた。
肩口に顔を埋めていたカエラムが、わずかに顔を上げる。
至近距離で交差する、熱を帯びたアンバーの瞳と、潤んだペリドットの瞳。
コルネリアは何も言わず、空いている両手を真っ直ぐに伸ばし、彼の少し跳ねた翡翠色の髪を両手で優しく包み込んだ。
そして、自らの顔を彼へと近づけ――。
彼の少し熱を持った頬へと、自らの唇を慈しむように深く押し当てた。
突然の、彼女からの口づけ。
カエラムの身体が微かに硬直するのを肌で感じながら、コルネリアはゆっくりと唇を離し、目の前で驚きに目を見開く愛しい人へ向けて、この世のすべての幸福を溶かし込んだようなとびきり甘い微笑みを向けた。
「……私はどこへも行きませんし、誰のものにもなりませんわ」
彼女の白い指先が、彼の頬を愛おしそうに撫でる。
「私のすべては、一番初めに私を見つけ出し、救い上げてくださった……カエラム先生、あなただけのものですから。どうか、安心してくださいな」
彼女からの甘い宣言と、頬に残る温かな感触。
カエラムの瞳の奥にあった揺らぎが完全に溶け去り、そこにはもう、彼女への底知れぬ情愛だけが満ち溢れていた。
「……あなたには、本当に敵いませんね」
カエラムは深く甘い溜息を吐き出すと、今度は彼女の身体を正面から強く抱き寄せ、彼女のホワイトブロンドの髪に自身の頬を深く埋めた。
夏の夜の静寂の中、ルリヴィアの卵がもたらした満ち足りた食事の余韻は、互いの体温を深く求め合う二人の、どこまでも甘く幸福な時間へと静かに溶け込んでいった。




