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55 先生の服をお借りして、少し嬉しくなってしまって……

 抜けるような夏の青空が広がり、森の木々が眩しい太陽の光を受けてきらきらと輝いていた、ある良く晴れた日のこと。

 コルネリアは朝から診療所の裏手で、大きな木桶に張った森の清流の水を使って、自身とカエラムの衣服の洗濯に精を出していた。


 すべての衣類を洗い終え、風通しの良い日陰に渡した縄へとしわを伸ばして干し終えた彼女は、額に滲んだ汗を手の甲でそっと拭った。

 現在、彼女が身に纏っているのは、最後に残っていた予備の、飾りのない簡素な室内着が一着のみである。


 作業を終え、彼女が休息を取ろうと診療所のキッチンスペースへと戻り、冷たい水を一杯飲もうとした――その時。

 開け放たれた窓から、夏の強い突風が室内に吹き込んだ。

 その風が、彼女の不運体質を見事に起動させる引き金となったのだ。


 風に煽られた空の小さな木桶が棚から落ち、床を滑るように転がっていく。

 その木桶は、カエラムが普段書き物をしている重い机の脚に勢いよくぶつかった。

 その衝撃で机の上がわずかに揺れ、端に積まれていた分厚い医学書が、鈍い音を立てて床へと落下した。

 落下した医学書は見事に、床に置かれていた裁縫用の木の糸巻きを弾き飛ばし、それがコルネリアの足元へと向かって一直線に転がってきたのである。


 コルネリアは足元に転がってきた糸巻きを踏んで転ばないよう、咄嗟に後ろへと大きくステップを踏んで避けた。

 ――しかし、その回避行動こそが、不運の連鎖の最終的な着地点だった。


 彼女が足を引いた場所には、床板の木材がごくわずかにささくれ立っている箇所があった。

 そこへ彼女の室内着の裾が奇跡的な確率で深く引っかかり、彼女の身体の動きと布の張力が限界に達した瞬間――。

 布が裂ける鋭い音とともに、彼女の衣服の背中から裾にかけてが、無惨にも大きく真っ二つに裂けてしまったのである。


「ええっ……!?」


 コルネリアは自身の背中に回した手で裂けた布地を掴み、血の気を引かせて完全に硬直した。

 まるで精巧に計算されたからくり仕掛けのような、見事すぎる不運の連鎖。


 すべての衣服を洗濯して干してしまった今、彼女には今すぐ着替えることのできる服が何一つ残っていないという、絶体絶命の状況が完成してしまったのだ。


「コルネリアさん、大きな音がしましたが、どうかしま……っ」


 奥の部屋から様子を見に出てきたカエラムは、背中の布を必死に手で寄せ集めて立ち尽くしている彼女の姿を見て、瞬時に状況を悟った。


「すぐに私の予備のシャツをお貸しします」


 カエラムは慌てて自身の保管庫へと戻り、清潔な麻のシャツを一枚持ち出して彼女へと手渡した。

 コルネリアは顔を真っ赤にしながら「ありがとうございます」と受け取り、物陰に隠れて急いで彼のシャツへと袖を通した。


 やがて、着替えを終えたコルネリアがおずおずと姿を現す。

 その姿を見た瞬間――カエラムは自身の心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく跳ね上がるのを感じた。


 大柄なカエラムの身体に合わせて作られた麻のシャツは、小柄で華奢なコルネリアが着ると、まるで丈の短いワンピースのような状態になっていたのである。

 大きく開いた襟元からは、彼女の透き通るように白い首筋と華奢な鎖骨が露わになっている。

 長すぎる袖は手首のあたりで折り返されているが、それでもふんわりと余っており、彼女の動作をひどく愛らしいものに見せていた。


 そして何よりも、カエラムの理性を激しく揺さぶったのは、シャツの裾から伸びる彼女の無防備な両脚であった。

 膝の少し上までしか布がなく、動くたびに白い肌が露わになるその破壊的な姿に、カエラムは直視することを諦め、必死に視線をあらぬ方向へと逸らした。


「せ、先生。お借りいたしました……あの、少し大きすぎますでしょうか」


「……いえ。代わりの服が乾くまでの辛抱ですから、しばらくそのままでいてください」


 カエラムは冷静な大人の男としての声音をどうにか保ちながら、自身の限界を迎えそうな理性を総動員して感情に蓋をしていた。


 ――そこへ、診療所の重い木の扉が、外側から元気よく押し開かれた。


「カエラム先生、コルネリアさん! こんにちは!」


 現れたのは、森の狩人である青年――タツィオだった。

 彼は日焼けした顔に快活な笑みを浮かべ、手に持った蔓草つるくさの籠を高く掲げてみせた。


「いつも怪我の治療で世話になってるお礼に、とびきりの森の恵みを持ってきたんだ。森の奥深くにしか巣を作らないルリヴィアっていう、青い羽根の鳥の卵だぞ。栄養満点で、かまどで焼いて食べるとすっごく美味いんだ!」


 タツィオが自慢げに籠の中の大きな卵を見せようと、室内へと歩みを進めた――その時。

 彼のトパーズの瞳が、室内の円卓の傍に立っているコルネリアの姿を捉えた。


 カエラムの大きなシャツを一枚だけ身に纏い、きょとんとした表情でこちらを見つめている、とびきり無防備なコルネリア。

 健康的な青年であるタツィオの顔面は、一瞬にして林檎のように真っ赤に染まり上がった。

 彼は完全に思考を停止させ、口を半開きにしたまま硬直してしまい、手元の卵の籠を危うく床に落としかけた。


 タツィオのその明確な視線と動揺に気づいた瞬間――。

 カエラムの胸の奥で、普段は穏やかに抑え込まれている愛する者を他の雄の目に晒したくないという、強烈なまでの独占欲と庇護欲が完全に爆発した。


 彼は、もはや残像しか見えないような圧倒的な速さで動いた。

 診察台に畳んであった薄手の毛布を掴み取ると、タツィオとコルネリアの間に光の速さで割って入り、手にした毛布でコルネリアの身体を頭の先からすっぽりと隙間もなく包み込んだのである。


「コルネリアさん。冷えるといけませんから、奥の居住区画で休んでいてください」


 カエラムは毛布に包まれた彼女の肩を抱き、有無を言わさぬ手際で半ば強引に、彼女を奥の部屋の扉の向こうへと押し込んだ。

 そして、パタン、と扉を閉めるとゆっくりと振り返り、まだ顔を赤くして固まっているタツィオへと向き直った。


「タツィオ君。ルリヴィアの貴重な卵を、本当にありがとうございます。夕食の際に、ありがたくいただきますね」


 カエラムは丁寧にお礼を述べ、籠を受け取った。

 そして、丸メガネの位置を指先でそっと押し上げながら、極めて穏やかな声で言葉を続けた。


「……ところで、タツィオ君。あなたは今、この部屋で何も見ていませんね?」


 その言葉の裏にある、彼女の無防備な姿を記憶から消去しろというカエラムの絶対的な意思を察知したタツィオは、慌てて何度も激しく首を縦に振った。


「あ、ああ! もちろんだ! 俺は先生に卵を渡しに来ただけで、他にはなーんにも見てないぞ! じ、じゃあな、二人ともお元気で!」


 タツィオは踵を返し、逃げるような足取りで夏の森へと駆け出していった。

 彼が去り、診療所に再び静寂が戻ったことを確認すると、カエラムは長い溜息を吐き出して、コルネリアの待つ奥の部屋へと向かった。


 部屋の中では、毛布にすっぽりと包まれたままのコルネリアが、不思議そうに小首を傾げていた。


「先生? タツィオさんは、もうお帰りになったのですか? せっかくお礼の卵を持ってきてくださったのに……」


 状況を全く理解していない、無自覚で愛らしいその瞳。

 カエラムは彼女の前に静かに膝をつき、再び深々と溜息をこぼした。


「……ええ。彼にはきちんとお礼を伝えておきましたから、心配はいりません。ですが……」


 カエラムは手を伸ばし、毛布の隙間から覗く彼女の白い頬を、自らの手のひらでそっと優しく包み込んだ。


「他の男性の前で、あのような無防備な格好をしてはいけませんよ、コルネリアさん」


「え……?」


「ただでさえ、あなたが私の服を着ているという事実だけで、私は理性を保つのがひどく困難なのです。他の誰かにあなたのその姿を見られるなど……私の心臓が持ちませんからね」


 それは、隠しきれない深い嫉妬と、彼女を独占したいという切実な愛情が滲み出た、甘い囁きだった。

 その言葉の意味と、先ほどの彼の素早すぎる行動の理由をようやく理解し、コルネリアの顔が耳の先端まで見事な朱色に染め上げられた。


「も、申し訳ございません……先生の服をお借りして、少し嬉しくなってしまって……」


 毛布の中で身を縮め、恥ずかしそうに伏し目がちになる彼女を見て、カエラムの胸の奥でさらなる愛おしさが爆発する。

 彼は包み込んでいた彼女の頬を優しく撫でながら、どうしようもないほどに甘い微笑みを浮かべた。


「謝る必要はありません。服が乾くまで、今日はこの部屋で、私以外には誰にもその姿を見せないとお約束してくださいますか?」


「……はい。約束、いたしますわ」


 夏の午後の穏やかな光が差し込む部屋の中で、ルリヴィアの卵という森の恵みへの感謝とともに、二人だけの最高に甘い余韻がどこまでも静かに漂い続けていた。

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