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冤罪で追放された伯爵令嬢は、森の奥の診療所で天才医師の胃袋を掴み、愛されながら幸せなスローライフを満喫します  作者: 白月つむぎ


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54 苦労だなどと、思ったことはただの一度もありませんわ

 森の木々が天を衝くように枝葉を広げ、容赦なく降り注ぐ夏の太陽の光を分厚い緑の天蓋《てんがい》で遮っている、ある晴れた日の午後。

 診療所の裏手にある開けた場所では、高く振り上げられた斧が太い丸太を真っ二つに叩き割る、重く鋭い音が一定の間隔で響き渡っていた。


 日々の調理や医療器具の煮沸消毒、そして薬草の成分を抽出するためなど、この診療所においてかまどの火は一日たりとも欠かすことのできない生命線である。

 そのため、天候が安定している夏の間に、秋から冬にかけて消費する大量の薪を割って備蓄しておく必要があった。


「ふう……」


 カエラムは手にした重い斧を切り株の横へと下ろし、手の甲で額に浮かんだ汗を静かに拭った。


 普段の彼は、くしゃくしゃになった白衣を羽織り、肩のあたりまで伸びた翡翠色の髪に無造作な寝癖を跳ねさせている。

 しかし本日の彼は、過酷な暑さと力仕事に備え、白衣を脱いで薄手の麻のシャツ一枚になり、腕の袖を肘の上までしっかりと捲り上げていた。


 そして何よりコルネリアの目を惹きつけてやまなかったのは、彼のその髪型だった。

 薪を割る際に視界を遮らないよう、彼は肩まである翡翠色の髪を後ろで一つにまとめ、革の紐を使って首の後ろで短く結んでいたのである。


 普段は髪に隠れて見えない、彼の形の良い額や、真っ直ぐに通った鼻筋、そして無精髭の生えた鋭い顎の輪郭が、夏の強い日差しの中にくっきりと露わになっている。

 結び目から零れ落ちた数本の短い後れ毛が、汗ばんだ彼の逞しい首筋に色っぽく張り付いていた。


 少し離れた場所で、割られた薪を両手で抱えて日陰へと運ぶ作業を手伝っていたコルネリアは、薪を積み上げる手を止め、彼のその見慣れない姿にひっそりと視線を奪われていた。


 生活能力に欠けるいつもの隙だらけの姿とは違う、労働する大人の男としての無自覚な色気と、頼もしい背中。

 丸メガネの奥のアンバーの瞳が、次に割るべき丸太の木目を真剣な眼差しで見極めるたび、コルネリアの心臓が甘く跳ね上がった。


「コルネリアさん。あなたの運んでくれる薪の山が、ずいぶんと高くなってきましたね」


 不意にカエラムが振り返り、優しく目を細めて声をかけてきた。

 自身の見惚れていた視線に気づかれたのではないかと、コルネリアは少しだけ肩を揺らし、慌てて手元の木屑を払って微笑み返した。


「ええ。先生が素晴らしい手際で薪を割ってくださるので、運ぶ作業もはかどりますわ」


 気丈に答えたものの、王都の伯爵邸で日陰の花として生きてきた彼女にとって、夏の厳しい暑さの中での肉体労働は確実にその体力を奪い去っていた。

 彼女の額にも薄っすらと汗が滲み、呼吸は普段よりもわずかに浅くなっている。


 カエラムは彼女の疲労の度合いを正確に見抜き、斧を所定の位置へと片付けた。


「本日の作業はここまでにしましょう。かまど用の薪は、これで十分に確保できました。あなたも、よく頑張ってくれましたね。少し、木陰で休みましょうか」


 カエラムの労いの言葉に、コルネリアは安堵の息を吐き出して頷いた。


 彼女は診療所のキッチンスペースへと戻り、清流の水でしっかりと冷やしておいた薬草茶を二つのグラスに注ぐと、裏手にある一番大きな広葉樹の木陰へと向かった。

 そこには、太い倒木を利用して作られた簡素な長椅子があり、すでにカエラムが腰を下ろして待っていた。


 コルネリアが彼の隣に座り、冷たい薬草茶を手渡す。

 カエラムはそれを受け取ると、渇いた喉を潤すように一息に半分ほどを飲み干した。

 喉仏が上下に動くその仕草すらも、普段の彼にはない雄々しさを感じさせ、コルネリアは自身のグラスを両手で握りしめたまま、またしても密かに見とれてしまっていた。


「……冷たくて、生き返るようです。ありがとうございます」


 カエラムがグラスを膝の上に置き、隣に座る彼女へと真っ直ぐに顔を向けた。

 結ばれた髪のせいか、彼の眼差しはいつもよりも数段大人びて、深く、熱を帯びているように錯覚させられる。


「あなたはいつも、私のためにご自身の限界を超えて無理をしてくれます。王都で何不自由なく暮らしていたあなたが、こうして土に塗れ、汗を流して薪を運んでくれる。私は、あなたに苦労ばかりをかけているのではないかと、時折申し訳なく思うことがあるのです」


 カエラムの静かな、自身の不甲斐なさを恥じるような言葉。

 コルネリアは小さく首を横に振り、彼の大きな手のすぐ傍へと自身の指先を寄せた。


「苦労だなどと、思ったことはただの一度もありませんわ。私はただ、先生のお役に立ちたいのです。先生と一緒にこの診療所を守り、生活を紡いでいくことが、今の私にとって何よりも尊く、幸せなことなのですから」


 彼女の嘘偽りのない真っ直ぐな言葉に、カエラムはアンバーの瞳を和らげ、どこまでも優しい微笑みを浮かべた。


「……あなたのその言葉に、私は何度救われているか分かりませんね。本当に、私には過ぎた方です」


 彼は彼女の指先に自身の指をそっと重ね、その温もりを確かめるように微かに力を込めた。


 頭上の分厚い葉の隙間から、夏の陽光が金色の斑点となって二人の足元に落ちている。

 開けた場所を吹き抜ける風が、木陰の温度を心地よく下げ、森の木々が擦れ合う穏やかな葉擦れの音を運んできた。


 冷たいお茶で身体の熱が静まり、愛する人の隣という絶対的な安全圏に身を置いたことで、コルネリアの全身を包み込んでいた緊張の糸がふわりと解けていくのを感じた。

 それと同時に、限界まで気を張っていた疲労が心地よい睡魔となって彼女の思考をゆっくりと白く塗りつぶし始めた。


(いけませんわ……先生とのお話の途中で、眠ってしまうなんて……)


 コルネリアは重くなる瞼を必死に持ち上げようと抵抗したが、森の静かな風音と、隣から伝わってくるカエラムの高く規則正しい体温が、極上の子守唄となって彼女の意識を深い微睡みの底へと引きずり込んでいく。


 やがて、彼女の頭がゆっくりと右側へと傾き――こてん、と。

 カエラムの麻のシャツ越しに筋肉の隆起が伝わってくる、広く逞しい肩の上へと完全に落ちてしまった。


 突然、自身の肩に柔らかな重みを感じ、カエラムは少しだけ目を瞬かせた。

 横を見下ろせば、コルネリアが自身の肩に頭を預け、長いまつ毛を閉じて、すやすやと規則正しい寝息を立てている。


 慣れない肉体労働で余程疲れていたのだろう。

 彼女の無防備な寝顔は、どんな宝石よりも美しく、そしてカエラムの胸の奥を強烈な愛おしさで締め付けた。


 起こさないように、彼は自身の呼吸すらも極めて静かなものへと切り替える。

 このままの姿勢では、彼女の首が痛くなってしまうかもしれない。

 そう考えたカエラムは、極めて慎重な動作で、彼女の肩を抱き寄せるようにして自身の右腕をゆっくりと回した。


 彼女の身体をわずかに自身の方へと引き寄せ、彼女の頭が自身の胸元のより安定した位置に収まるように姿勢を調整する。

 腕の中にすっぽりと収まった彼女の身体は驚くほど華奢で、結ばれたカエラムの髪から零れた翡翠色の後れ毛が、彼女の白い額に優しく触れていた。


「……本当は、無理をして限界だったのでしょうに」


 カエラムの口から、深い慈愛に満ちた低い声が静かに漏れ出た。

 彼は彼女を抱き寄せた右腕に少しだけ力を込め、彼女の寝顔を誰の目からも隠すように、その小さな背中を自身の大きな手でしっかりと包み込んだ。


「あなたはいつも、私の前で立派に振る舞おうとしてくれますが……こういう時は、もう少しだけ、大人しく私に甘えてくれても良いのですよ」


 眠りにつく彼女の耳元で紡がれたその囁きは、普段の穏やかな口調でありながらも、一人の女性を自身の腕の中に完全に囲い込み、絶対に離さないという強い独占欲を内包していた。


 コルネリアは夢の中でその心地よい声を聞いたのか、それとも彼から伝わる安心感に包まれたからか、カエラムの胸元に顔をすり寄せるようにして小さく幸福そうな寝言を漏らした。


 夏の厳しい暑さが嘘のように、広葉樹の木陰には涼やかで甘やかな風が吹き抜けている。

 カエラムは自身の腕の中で眠る愛しい人を守るように深く抱き寄せたまま、彼女が目を覚ますまでの静かで愛おしい時間を大切に噛み締め続けていた。

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