53 抑制など、なさらなくて結構ですわ
深い森の木々が夏の強烈な太陽の光を遮り、診療所の中に涼やかな緑色の影を落としていた、ある穏やかな昼下がりのこと。
診察室の薬品棚の整理と、午前中に収穫した薬草の記録を終えたカエラムは、凝り固まった肩を軽く回しながら居住区画にあるキッチンスペースへと歩みを進めた。
――ふと、彼の耳に心地よい音が届いた。
それは、機嫌の良さそうな鼻歌だった。
音の出処であるかまどの前には、爽やかな水色の夏のドレスの上に真新しい清潔なエプロンをきゅっと結んだ、コルネリアの姿があった。
彼女は片手に木製のへらを持ち、鉄鍋の中身をゆっくりと掻き混ぜながら、軽快な旋律を口ずさんでいる。
そのホワイトブロンドの美しい髪が、彼女の身体の動きに合わせて背中でふわり、ふわりと優雅に揺れていた。
その光景を視界に捉えた瞬間、カエラムは廊下でぴたりと足を止め、胸の奥を強い力で鷲掴みにされたような強烈な愛おしさに襲われた。
かつて王都の伯爵邸にいた頃の彼女は、自らの不運体質によって誰かを傷つけてしまわないよう、常に周囲を警戒し、息を潜めるようにして生きていたはずだ。
貴族の令嬢として厳しい作法に縛られ、感情を表に出すことすら許されなかった彼女が、今こうしてかまどの前で無防備に鼻歌を歌いながら愛する人のために食事を作っている。
彼女がこの診療所という場所で、いかに心からの安心と自由を手に入れたのか――。
その事実が、彼女の飾らない愛らしい後ろ姿から痛いほどに伝わってきて、カエラムはただ静かに、その尊い光景に見惚れることしかできなかった。
「あ……カエラム先生。お仕事、終わられましたのね」
気配に気づいたコルネリアが振り返り、花が綻ぶような満面の笑みを向けた。
その屈託のない笑顔に、カエラムは自身の心臓が激しく跳ねるのを感じながら、穏やかな表情を取り繕って頷いた。
「ええ。ちょうど片付けが終わったところです。とても良い匂いがしますが、本日の昼食はもう出来上がりそうですか?」
「はい、完璧な仕上がりですわ! マルタさんからいただいた夏野菜を、たっぷりとお料理いたしました。先生、円卓でお待ちくださいな」
コルネリアが弾むような足取りで料理を運び、円卓の上に二つのお皿が並べられた。
一つは、真っ赤な色彩が目に鮮やかな冷製スープだった。
マルタの畑で赤く熟しきったトマトを森の清流から汲んできたばかりの冷たい水で芯まで冷やし、細かく刻んだ香草と少量の油、そして塩だけで味を整えたものである。
そしてもう一つは、黄金に輝く立派なトウモロコシだった。
こちらはかまどの直火で表面をじっくりと炙り、東方伝来の醤油を薄く塗り重ねて香ばしく焼き上げられている。
醤油が焦げた甘じょっぱい匂いが、夏の暑さで減退しがちな食欲を強く刺激してきた。
「素晴らしい出来栄えですね。それでは、さっそくいただきましょう」
向かい合って席につき、まずは冷たいトマトのスープを木の匙で口へと運ぶ。
トマトの自然な甘みと目が覚めるような爽やかな酸味が、清流の冷気とともに喉の奥へと滑り落ちていく。
香草の清涼感が後味をすっきりとさせ、夏の火照った身体を内側から心地よく癒やしてくれた。
「……とても美味しいです。見事な味わいですね」
「ふふっ、良かったですわ。次は、こちらのトウモロコシをいただきましょう」
コルネリアは嬉しそうに頷き、大皿に乗せられた焼きトウモロコシへと視線を向けた。
しかし、彼女はすぐには手を伸ばさず、少しだけ戸惑ったように小首を横に傾けた。
ペリドットの瞳を瞬かせ、手元のトウモロコシと、向かいに座るカエラムの顔を交互に見つめている。
「どうしましたか、コルネリアさん?」
「あの……お恥ずかしいのですが。私、王都の屋敷では、お食事はすべて使用人が一口の大きさに切り分けてお皿に乗せてくれていたものですから……このように、芯のついたお野菜を、自らの手で持って食べるという経験が、ただの一度もないのです……これは、どのようにしていただくのが正解なのでしょうか?」
ほんのりと頬に熱を集めながら、上目遣いで助けを求めてくる彼女の姿に、カエラムは思わず口元を緩めた。
高貴な身分ゆえの、愛すべき世間知らず。
彼は自らの分のトウモロコシを両手で持ち上げ、彼女に見せるようにゆっくりと手本を示した。
「何も難しいことはありませんよ。こうして両端をしっかりと手で握り、あとは直接、端の列から順番に歯を立ててかじりつくだけです。やってみてください」
カエラムの言葉に、コルネリアは真剣な表情で頷いた。
彼女は両手を伸ばし、トウモロコシの端と端を落とさないようにぎゅっと大事そうに握りしめた。
そして、カエラムの動作を真似るように少しだけ首を傾け、小さな唇をいっぱいに開けてトウモロコシの粒へと一生懸命にかぶりついた。
ぷつり、と瑞々しい粒が弾け、トウモロコシの強烈な甘みと、醤油の香ばしい風味が彼女の口の中に広がる。
「……っ! 甘くて、とても美味しいですわ!」
コルネリアは驚きにペリドットの瞳を真ん丸に見開き、感嘆の声を上げた。
余程その味が気に入ったのだろう。
彼女は嬉しそうに目を細め、両手でしっかりとトウモロコシを握りしめたまま、隣の列の粒へと向かって再び小さな口を開けた。
口を動かして一生懸命に咀嚼するたびに、彼女の白い頬が柔らかく上下に動く。
慣れない食べ方に苦戦しつつも、一粒も残すまいと真剣な眼差しでトウモロコシと向き合うその姿は、まるで森の中で見つけた美味しい木の実を両手で抱え込んで無我夢中で頬張る、純真無垢な小動物そのものであった。
普段は背筋を伸ばし、誰よりも上品で優雅な振る舞いを崩さない彼女が、自分の前でだけ見せるとびきり無防備で、愛おしさに溢れた姿。
そのあまりにも破壊的な可愛らしさを真正面から浴びせられ、カエラムの胸の奥で、何かが決定的に音を立てて崩れ去った。
――限界であった。
これ以上、大人しく向かいの席に座って彼女を眺めていることなど、到底不可能だった。
カエラムは自身のトウモロコシを皿に置き、無言のまま椅子から立ち上がった。
そして、円卓を回り込み、トウモロコシに夢中になっているコルネリアのすぐ隣の空席へと腰を下ろした。
突然自身のすぐ横にカエラムが移動してきたことに驚き、コルネリアは食べる手を止めて不思議そうに彼を見上げた。
「先生……? どうかされましたの?」
彼女の柔らかな唇の端には、先ほどかぶりついた際についてしまったのだろう、醤油の茶色いタレがほんの小さな雫となってこびりついていた。
「……あなたは本当に、私をどうしたいのでしょうか」
カエラムの口から漏れたのは、普段の穏やかな声とは全く異なる、大人の男としての隠しきれない熱と、深い情愛に満ちた低い掠れ声だった。
彼は右手を伸ばし、彼女の口元についたその小さな汚れを自身の親指の腹でそっと優しく拭い取った。
突然の甘い接触に、コルネリアの肩が小さく跳ね、透き通るような白い頬が朱色に染まり上がる。
状況を把握できずに潤んだ瞳を瞬かせる彼女の頬を、カエラムの大きく温かい両手が逃げ道を塞ぐようにゆっくりと包み込んだ。
「カエラム先生……?」
コルネリアが微かに震える声で彼の名前を呼んだ――次の瞬間。
カエラムは自身の顔を深く傾け、彼女の熱を持った柔らかな頬へと、自らの唇を静かに押し当てた。
それは、彼女という存在のすべてを渇望し、自身の愛情の深さを直接肌に刻み込むような、熱を帯びた長くて深い口づけだった。
カエラムの唇から伝わってくる愛おしさに、コルネリアの全身から力が抜け、彼女は両手に持っていたトウモロコシを皿の上へと手放し、されるがままにそっと自身の瞳を閉じた。
――やがて、ゆっくりと唇が離される。
至近距離で交差する視線。
カエラムの瞳には、一切の理性を手放した、ただ彼女だけを求める強烈な熱情が渦巻いていた。
「……申し訳ありません。あなたがあまりにも可愛らしすぎて……もう、自身を抑制することができませんでした」
言い訳など何一つない、ただの男としての完全な降伏宣言。
その低く甘い囁きを聞いて、コルネリアはとろんと潤ませた瞳を細め、自身の頬を包み込んでいる彼の手のひらへと、すり寄るようにして身を預けた。
「抑制など、なさらなくて結構ですわ……私も、先生に触れていただきたくて、仕方がなかったのですから」
夏野菜の香ばしい匂いと、互いの甘い吐息が混ざり合う、小さな診療所。
蝉時雨が遠く聞こえる夏の午後の静寂の中で、二人の間に流れる時間はこれまでにないほど濃密で、心臓が溶けてしまいそうなほどの甘やかな熱に満たされていった。




