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冤罪で追放された伯爵令嬢は、森の奥の診療所で天才医師の胃袋を掴み、愛されながら幸せなスローライフを満喫します  作者: 白月つむぎ


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50 身体の芯まで、甘く温まっていくようですわ

 大気を震わせていた凄まじい雷鳴が遠く東の空へと遠ざかり、森には雨上がりの重く湿った静寂が戻り始めていた。

 診療所の屋根を激しく打ち据えていた豪雨も、今ではしっとりと濡れた木の葉から滴り落ちる規則正しい雫の音へと変わっている。


 カエラムは、自らの腕の中で小刻みに震え続けていたコルネリアの身体を、嵐が完全に過ぎ去るまで片時も離すことなく抱きしめ続けていた。

 彼の胸元に顔を埋めていたコルネリアの呼吸が、次第に一定のリズムを取り戻し、強張っていた背中の筋肉がゆっくりと解けていく。

 それを肌身で感じ取ったカエラムは、安堵の溜息を吐き出し、彼女の耳元で囁くように声をかけた。


「……コルネリアさん。もう大丈夫ですよ。空の怒りは鎮まりました。もう、恐ろしい光も音も聞こえません」


 カエラムは自身の腕の力を緩め、彼女を解放しようと、ゆっくりと身体を離しかけた。

 ――しかし、その動きを押し留めるように、コルネリアの両手が彼のくしゃくしゃになった白衣の背中をぎゅっと強く握り締めたのである。


 カエラムは驚きにアンバーの瞳を微かに見開いた。

 腕の中のコルネリアは、依然として彼の胸に顔を預けたまま、消え入りそうな――しかし、切実な響きを持った声で呟いた。


「……先生。わがままを言っても、よろしいでしょうか? もう少しだけ、このままでいさせてください。先生の、その……鼓動の音が、とても温かくて、安心いたしますの」


 それは、普段の彼女の凛とした佇まいからは想像もつかないような、甘やかな願いだった。

 長年の孤独と拒絶にさらされてきた彼女にとって、嵐の恐怖から救い上げてくれたこの温もりは、何物にも代えがたい救いとなっていたのだ。


 カエラムの胸の奥に、言葉を持たない猛烈な愛おしさが泉のように湧き上がってきた。

 彼は再び、愛しき人を自らの腕の中へと迎え入れた。

 そして、空いた片手を伸ばし、彼女の艶やかなホワイトブロンドの髪をふわりと慈しむように撫で始めた。

 彼女の髪の柔らかな質感が、彼の指先にしっとりと吸い付くように馴染む。


「ええ。いくらでも、気の済むまでこのままでいましょう。私の鼓動が、あなたの不安をすべて消し去ってくれるのなら、これほど光栄なことはありませんから」


 ランプの灯りが静かに揺れる診療所の中、二人の影が重なり合い、壁に長く投影されている。

 雷鳴の恐怖は、カエラムという圧倒的な安全圏の中で、跡形もなく溶かされていった。


 コルネリアは、彼から伝わってくる一定の鼓動と温かな体温に身を委ね、心からの幸福に満たされながら、その安らかな沈黙をしばらくの間、大切に共有し続けた。


 ――やがて、完全に落ち着きを取り戻したコルネリアが、名残惜しそうに彼の胸から顔を上げた。

 彼女のペリドットの瞳は涙の名残を微かに含んで潤んでいたが、そこにはもう過去の暗闇に怯えるような翳りは一切残っていなかった。


「……取り乱してしまって、申し訳ありませんでした、カエラム先生。おかげさまで、もうすっかり大丈夫ですわ」


「いえ。あなたが頼ってくださることが、私には何よりの喜びです。さて……嵐のせいで夕食の時間が大幅に遅れてしまいましたね。二人で支度をしましょうか」


 カエラムの提案に、コルネリアは穏やかに微笑んで頷いた。


 ――二人は並んでキッチンスペースへと向かった。


 カエラムが嵐で火の粉が飛ばないように覆っていたかまどの状態を確認し、新しい薪をくべて火を起こす。

 コルネリアが手際よく野菜を切り、昼間に用意しておいた食材を鍋に入れて、温かなスープを煮込み始めた。


 火が薪を舐める、パチパチという規則正しい音が響き、香草の清涼な香りが室内に立ち昇る。

 嵐の後の診療所はいつも以上に穏やかで、どこまでも温かな家としての色彩を濃くしていた。


 ――夕食を終えた後。

 カエラムは少しだけ居住まいを正し、隣に座るコルネリアを真っ直ぐに見つめた。


「コルネリアさん。今日は恐怖に耐えたあなたに、特別な贈り物をしたいのです。口に合うかどうかは分かりませんが、私の数少ない、母との思い出の味を再現してみようと思います」


 カエラムがそう言って取り出したのは、新鮮な卵と乳、そして少量の砂糖だった。

 彼は、自身が幼い子供だった頃、身体が弱く、働き詰めだった母親が、時折わずかな合間に作ってくれたというプリンのレシピを語り始めた。


「このお菓子は、寂しかった幼い日の私に、彼女が唯一残してくれた甘い記憶なのです」


 カエラムは、自身の過去を語りながら、慣れない手つきで調理を開始した。

 外科の手術では精密機械のように動く彼の手も、お菓子作りという未知の領域では、ひどくおぼつかない様子であった。


 砂糖を小鍋に入れて熱し、琥珀色のカラメルを作る工程では、香ばしさを通り越して焦がしてしまわないかと、極度の集中で眉間に深い皺を寄せていた。

 卵とミルクを混ぜ合わせる際も、まるで劇薬を調合するかのような真剣な眼差しで、ボウルをじっと見つめている。


 医療以外では隙の多い彼の、その一生懸命で不器用な姿をコルネリアはこれ以上ないほどに愛おしく、誇らしい気持ちで見守っていた。

 やがて、小さな陶器の器に流し込まれた生地を、かまどの上で慎重に蒸し焼きにしていく。


 しばらくの後完成したのは、少しばかり歪な手作り感の溢れるプリンだった。

 ――しかし、その表面にはカエラムの誠実さが形となったような、艶やかな琥珀色のカラメルが美しく輝いている。


「さあ、冷める前に。本当は少し冷やした方が美味しいのですが、今のあなたには、この出来立ての温かさが必要だと思いました」


 カエラムから手渡された陶器の器。

 コルネリアは木の匙を手に取り、その柔らかな生地を一口、大切に口へと運んだ。


 咀嚼した瞬間に、卵の濃厚な甘みとミルクのまろやかさが、口いっぱいにしっとりと広がった。

 そして、少しだけ苦味の効いたカラメルの風味が、甘さを優しく引き立てていく。


 それは、名医であるカエラムが、ただ一人の女性の心を癒やすために不器用ながらも心を込めて作り上げた――至上の甘美であった。


「……なんて、美味しいのでしょう。身体の芯まで、甘く温まっていくようですわ」


 コルネリアは、じわりと瞳の奥が熱くなるのを感じた。

 そこには、かつて王都で与えられた美食など足元にも及ばない、作り手の確かな体温と愛情が詰まっていた。


「あなたが気に入ってくれて良かった。母も、私の大切な人がこれを食べて微笑んでくれるのを見たら、きっと喜んでくれるでしょう」


 カエラムもまた、自身の分を一口食べ、遠い日の記憶を噛み締めるように目を細めた。


 窓の外では、嵐の後の湿った風が吹き抜け、森の木々がさらさらと静かな音を立てている。

 一人では凍えそうだった暗い嵐の夜も、こうして肩を並べ、互いの想いがこもった食事を共有することで、かけがえのない幸福な時間へと塗り替えられていく。


 診療所を包み込むオレンジ色の柔らかな灯り。

 プリンの甘い余韻と、互いの存在を深く愛おしむ温かな感情。


 激しい嵐を乗り越えた静かな夜は、どこまでも穏やかに、そして甘やかに更けていった。

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