49 心の底から愛おしいのです
深い森の木々が夏の強い日差しを遮り、診療所の中に涼やかな影を落としていた昼下がり。
空は青く澄み渡っていたものの、遠くの山際には真綿を幾重にも重ねたような巨大な入道雲が湧き上がり、周囲の空気には微かな湿り気と重苦しい熱が混ざり始めていた。
静かな午後を過ごしていたカエラムとコルネリアのもとへ、入り口の重い木の扉が外側から押し開かれ、一人の青年が姿を現した。
日に焼けた肌に、無造作に切り揃えられた深い紺色の髪。
そして、強い生命力を感じさせるトパーズの瞳を持つ狩人の青年――タツィオだった。
彼は以前、この診療所でコルネリアに一目惚れをして真っ直ぐな求婚の言葉を投げかけ、そして彼女の揺るぎないカエラムへの想いを知って爽やかに身を引いていった、どこまでも気さくで頼もしい男である。
「カエラム先生、コルネリアさん。こんにちは。また少し、お世話になりに来たよ」
タツィオは快活な声で挨拶をしながらも、その顔には微かな苦痛の色が浮かんでいた。
彼の右腕の衣服は鋭く裂け、そこから赤い血が筋となって流れ落ちている。
「タツィオ君、随分と深い傷ですね。また獣を深追いしたのですか?」
カエラムはすぐさま椅子から立ち上がり、彼を窓際の寝台へと誘導した。
「いや、今回は獣のせいじゃないんだ。森の奥に仕掛けておいた罠の点検をしていたら、張力が限界に達していた太い蔦が弾け飛んで、運悪く腕を薙ぎ払われちまってね。俺としたことが、完全に油断していたよ」
タツィオが自嘲気味に笑いながら寝台に腰を下ろすと、コルネリアが完璧な手際で洗浄用の清潔な水と布、そして傷口を縫合するための器具一式を小さな盆に乗せて運んできた。
カエラムはタツィオの腕の汚れを水で丁寧に洗い流し、傷の深さを確認する。
幸いにも血管や筋肉の深部までは達しておらず、表面の皮膚を縫い合わせれば問題のない怪我であった。
細い針を皮膚に通し、的確で無駄のない動きで傷口を塞いでいく。
その間、コルネリアは彼が必要とする器具を言われるよりも早く手渡し、傷口から滲む血を清潔な布で押さえるという、極めて息の合った補助を行っていた。
二人の間には、もはや言葉を介さずとも次に何をすべきか理解し合う、絶対的な信頼関係が構築されていた。
「よし、主要な箇所の縫合は終わりました。コルネリアさん、奥の部屋の棚の二段目にある、消炎効果のある青い瓶を取ってきていただけますか? 私は、処置の仕上げに使う包帯が不足しているので、一緒に奥で探してきます」
カエラムの言葉に、コルネリアは静かに頷いた。
二人は並んで診察室を後にし、廊下の先にある薬品や備品の保管庫へと向かった。
保管庫の中に入ると、コルネリアは目的の青い瓶をすぐに見つけ出し、手際よく手に取った。
「先生、お薬はございましたわ。私は先に診察室へ戻り、タツィオさんの腕の洗浄の続きをしておりますね」
「分かりました。私はもう少し奥の棚にある、幅の広い包帯を探してから戻ります」
カエラムが棚の奥を確認している間に、コルネリアは青い瓶を手に、足早にタツィオの待つ診察室へと引き返していった。
――それから数十秒後。
目的の包帯を見つけ出したカエラムが、診察室へ戻ろうと廊下を歩いていた時のこと。
診察室の入り口の扉は開け放たれており、中からタツィオがコルネリアに話しかける、少し落としたトーンの声が聞こえてきた。
「なあ、コルネリアさん。あんたたちが今、すごく良い雰囲気になっているのは、俺の目から見てもはっきりと分かる。俺も将来、あんたみたいに良い嫁さんを見つけたいと思っているから、今後の参考に教えてくれないか?」
タツィオのトパーズの瞳が、真剣な光を帯びてコルネリアを見つめた。
廊下の壁の裏側で足を止めたカエラムは、自らの心臓が肋骨を強く叩き始めるのを感じた。
診察室へ入るタイミングを失い、彼は息を殺して彼女の答えを待つことしかできなかった。
「あんたは、先生のどういうところがそんなに好きなんだ?」
突然の直球すぎる質問。
しかし、コルネリアの返答に迷いは一切なかった。
彼女の穏やかで、深い慈愛に満ちた声が診療所に響く。
「……そうですね。カエラム先生は、日々の生活における注意力がひどく欠落していて、時折大きな怪我をしてしまわないかと心配になるほど、ひどく危なっかしい方です」
彼女の率直な評価に、タツィオが短く息を漏らして笑う。
――しかし、コルネリアの続く言葉は、一切の迷いのない、純粋な情愛の結晶だった。
「ですが……私の不運体質を前にして、誰もが見向きもせず私を遠ざけたあの時。先生だけは真っ直ぐに私を見て、その温かい手で暗闇から私を救い上げてくださいました。ご自身もひどく不器用でいらっしゃるのに、他人の傷を放っておけない、どこまでも優しい方です」
彼女の言葉は、飾ることも偽ることもない、彼女の魂からの真実であった。
「……私は、先生のその不器用で、どこまでも温かいところが、心の底から愛おしいのです」
壁の裏側でその告白をすべて聞いてしまったカエラムは、あまりの衝撃と喜びに目の前が白くかすんでいた。
彼は自らの口元を片手で強く覆い、荒くなりそうな呼吸を必死に抑え込む。
頬に尋常ではない熱が集まり、自身の胸の奥で彼女に対する果てしない愛情が激流のように渦巻いていた。
――一方のタツィオは、彼女の言葉を聞いて大きく肩をすくめ、降伏を示すように両手を軽く上げた。
「ごちそうさま……いやはや、こりゃあ、俺には一生勝てないわけだ。先生は本当に、果報者だよ」
カエラムは自らの呼吸と表情をどうにか平静な状態へと戻し、包帯の束を手に取ってから、何事もなかったかのように診察室へと姿を現した。
タツィオの腕に軟膏を塗り、包帯をしっかりと巻き終えると、彼は満足げに立ち上がって自身の腕を軽く回した。
「ありがとう、先生。これでまた明日から森を走れるよ。それじゃあ、俺はそろそろ帰る」
入り口の扉へ向かったタツィオは、外の空気を胸いっぱいに吸い込み、空を見上げてその表情を鋭く引き締めた。
「空の匂いが変わった。近いうちに、かなり大きな夏の嵐が来るぞ。先生たちも、風と雷には十分に気をつけてな」
警告の言葉を残し、タツィオは森の奥へと続く獣道を足早に帰っていった。
――彼の予言は、その日の夕刻になって恐ろしいほどの正確さで的中した。
急激に気温が下がり、空の青さを巨大な漆黒の雨雲が完全に食い尽くした。
風は森の木々を根元からへし折らんばかりの勢いで吹き荒れ、やがて大粒の雨が診療所の屋根を激しく打ち据え始めた。
カエラムとコルネリアはすべての窓の木戸を固く閉ざし、かまどに覆いをして火の粉が飛ばないように処置をしてから、嵐が過ぎ去るのを待っていた。
――その時。
閉ざされた木戸の隙間から、診療所の内部の視界を真っ白に染め上げるほどの強烈な閃光が走った。
直後、大気を震わせ、大地の底から突き上げるような凄まじい轟音が二人の鼓膜を容赦なく叩き据えた。
森のすぐ近くに雷が落ちたのだ。
その暴力的な音の塊が響き渡った瞬間――コルネリアの身体が弾かれたように硬直した。
彼女は血の気を失った蒼白な顔でその場にしゃがみ込み、両手で自身の耳を強く塞ぎ、極度の恐怖に全身を激しく震わせ始めた。
彼女が恐れているのは、単なる大きな音ではない。
彼女はかつて王都の伯爵邸にいた頃、不運体質を理由に、嵐のたびに暗く冷たい部屋へ閉じ込められてきた。
不運な娘がいると屋敷に雷が落ちるという迷信を信じた父や母は、彼女が事故を引き起こさないよう、ただ一人で嵐が過ぎるのを待つことを強いたのである。
逃げ場のない密室で聞く雷鳴は、彼女にとって自分は誰にも望まれていないという拒絶の象徴そのものだった。
再び閃光が走り、地鳴りのような雷鳴が轟く。
コルネリアは床にうずくまり、呼吸を浅く乱しながら過去の暗闇の幻影に完全に呑み込まれようとしていた。
「コルネリアさん!」
カエラムは迷うことなく床に膝をつき、しゃがみ込んでいる彼女の身体を自身の太く逞しい両腕で力強く抱き寄せた。
恐怖で強張った彼女の小さな背中を包み込み、彼女の顔を自身の胸の奥へと深く埋めさせる。
突然の確かな体温と、衣服越しに伝わる力強い抱擁に、コルネリアは小さく息を呑んだ。
「大丈夫です。私がここにいますよ」
カエラムの低く落ち着いた声が、彼女の耳元で紡がれる。
彼の大きな手が彼女の震える背中をゆっくりと撫で下ろし、その規則正しい動作が、彼女の極限まで張り詰めていた神経を少しずつ解きほぐしていく。
また一つ、空を裂くような音が響く。
しかし、耳を塞ぐ彼女のすぐ傍には、荒れ狂う嵐の音をかき消すほどに生命力に満ちた音が響いていた。
彼女の頬が触れているカエラムの胸の奥底から伝わってくる、確かな心臓の鼓動。
その一定のリズムを刻む温かな音は、彼女がこの世界で決して一人ではないという事実を何よりも雄弁に物語っていた。
「……先生」
コルネリアは震える手を伸ばし、自らを包み込んでくれているカエラムの衣服の背中を強く握り返した。
カエラムは彼女の髪に自身の頬を寄せ、彼女をあらゆる恐怖から守り抜くという絶対的な決意を込めて、抱きしめる腕の力をさらに強めた。
外の世界では、森の木々が強風に煽られ、容赦のない雨と雷鳴が吹き荒れている。
――しかし、閉ざされた小さな診療所の中。
カエラムの腕の中という絶対的な安全圏において、彼女を脅かすものはもはや何一つ存在しなかった。
昼間に彼女がタツィオに語った、純粋で真っ直ぐな愛情。
そして今、彼女の過去の傷跡ごとすべてを包み込む、彼の深く揺るぎない庇護の熱。
夏の嵐が通り過ぎるまでの長い時間、二人は互いの体温と鼓動だけを唯一の道標とするように深く身を寄せ合い、その絆をかつてないほどに強く――そして、確かなものへと結び直していった。




