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47 これが……海、なのですね

 夏鳥のさえずりが森の静寂を優しく破る、快晴の朝。

 寝台で静かに目を覚ましたカエラムは、身を起こすよりも先に枕元に置かれた小さな布製の包みへと右手を伸ばした。


 それは、春の訪れとともに自身の誕生日にコルネリアから贈られた、手縫いのメガネケースだった。

 厚手の丈夫な布を基調とし、端切れの革を組み合わせて補強されたそのケースには、彼女の真っ直ぐな愛情が隅々にまで宿っている。


 カエラムの指先が、布の表面に施された細やかな刺繍の凹凸をゆっくりとなぞる。

 そこには、丸メガネをかけ、寝癖を跳ねさせた彼自身の似顔絵がかたどられていた。

 この刺繍を施すために、彼女が幾度も自身の指先に針を刺し、微かな痛みを伴いながら完成させてくれたのだという記憶が、毎朝彼に底知れぬ温かさと活力を与えてくれる。


 カエラムはケースの中から大切に丸メガネを取り出し、耳にかける。

 不鮮明だった視界が極めてクリアなものへと切り替わり、彼の一日が静かに幕を開けた。


 居住区画を出て円卓のある部屋へ向かうと、そこにはすでに旅支度を整えたコルネリアの姿があった。

 本日の彼女は、強くなる夏の日差しを避けるためのつばの広い麦わら帽子を被り、風通しの良い薄手で涼やかな青色のドレスを身に纏っている。


 普段の仕事着である簡素な麻の衣服とは異なる、避暑地に向かう令嬢のような上品な装いが、彼女の透き通るような白い肌をいっそう引き立てていた。

 そして、半袖のドレスから伸びる細い左手首には、カエラムが彼女の誕生日に贈ったプラチナのブレスレットがつけられていた。

 朝の陽光を反射して気高い輝きを放つプラチナの鎖と、彼女の瞳と同じ色を持つ美しいペリドットの宝石。


 カエラムが胸ポケットに仕舞った手作りのメガネケースと、彼女の左手首で輝くブレスレット。

 互いの純粋な真心が形となった贈り物が、今や極めて自然な形で二人の日常に溶け込んでいる。

 その事実を無言のうちに確認し合い、二人は満ち足りた微笑みを交わして診療所の扉を開いた。


 ウラカから貰った釣り竿と、収穫物を入れるための空の籠、そして昼食用の軽い軽食を持って、二人は南の海岸へと続く森の道を歩む。


 ――数時間後。

 視界を遮っていた背の高い木々が途切れ、強い風が吹き抜けた瞬間、コルネリアは足をとめて大きく息を呑んだ。


 彼女の眼前に広がっていたのは、大陸の奥深くで育った彼女がこれまで想像することすらできなかった、圧倒的なスケールを持つ広大な水の世界だった。

 空の青さをすべて溶かし込んだような、どこまでも続く水平線。

 白い砂浜に打ち寄せられては砕け散り、白い泡となって消えていく波の群れ。

 そして、森の若草の匂いとは全く異なる強烈で新鮮な潮の香りが、初夏の強い風に乗って彼女の全身を包み込んだ。


「これが……海、なのですね。水が空の果てまで続いていて、なんて広くて、美しいのでしょう」


 コルネリアは帽子を手で押さえながら、水面から反射する眩い光に目を細めた。

 カエラムは彼女の隣に立ち、初めて見る世界に感動を覚えている彼女の横顔を、どこまでも愛おしそうに見つめていた。


「ええ。内陸の王都では、決して見ることのできない景色です。さあ、せっかくですから、波打ち際まで行ってみましょう」


 カエラムが手を差し出すと、コルネリアは迷うことなくその手を握り返した。

 熱を持った細かい砂を踏みしめながら、二人は波が寄せては返す水際まで歩みを進める。

 足元に押し寄せた波が、彼女の革靴の先を濡らした。


「わあ……水が、驚くほど冷たいですわ!」


 寄せてくる波の冷たい感触に、コルネリアが子供のように歓声を上げる。

 王太子妃としての重圧から解放され、真の自由を手に入れた彼女の無邪気な笑顔は、背後に広がる夏の海よりも遥かに眩しく、カエラムの胸を強く打った。


 海辺の景色を堪能した後、二人は本格的な収穫作業に取り掛かった。

 カエラムは波の穏やかな岩場へ移動し、ウラカから受け取った釣り竿に仕掛けと餌を丁寧に結びつける。

 釣り糸を大きく弧を描くように海へ投げ入れると、彼は自身の体幹を安定させ、水面の僅かな変化を見逃さないよう極度の集中状態に入った。


 普段は生活能力に欠ける彼だが、対象物を観察し、微細な変化を指先で感じ取るという行為は、医師としての精密な作業に非常に似ている。

 わずかな時間の後、釣り竿の先端が強く引き込まれた。

 カエラムは迷うことなく金属の巻き取り機を回転させ、海面から勢いよく暴れる獲物を引き抜いた。


「これは、見事な大きさですね」


 岩場の上に釣り上げられたのは、丸々と太ったスズキだった。

 カエラムの手際の良さに、少し離れた場所から見ていたコルネリアが拍手を送る。


「素晴らしいですわ、カエラム先生! 私も負けてはいられませんね」


 コルネリアは籠を持ち、波が引いた後の湿った砂浜へと移動した。

 彼女は小さな木の板を使い、砂の表面に空いた小さな穴を目印にして砂を掘り返していく。

 すると、手のひらほどの深さの場所から、美しい模様を持ったアサリが次々と姿を現した。


 さらに岩場へと足を伸ばし、波が穏やかな潮溜まりの隙間に群生している、黒くて長細いムール貝も丁寧にもぎ取って籠へと集めていく。

 夢中になって貝を拾っていたその時、ふいに足元の岩に大きめの波が打ち寄せた。


 彼女の不運体質がごく軽度な形で発動し、避ける間もなく波の飛沫をまともに受け、青いドレスの裾から膝下にかけてが見事にずぶ濡れになってしまった。


「ああ……すっかり濡れてしまいましたわ」


「コルネリアさん、海を相手に無茶はいけませんよ。風邪を引いてしまいます」


 カエラムが苦笑しながら駆け寄り、ハンカチを差し出す。

 自身の不注意による失敗であったが、コルネリアは全く落ち込むことなく、濡れたドレスの裾を絞りながら楽しそうに笑い声を上げた。

 完璧ではない出来事すらも、二人で共有すればかけがえのない幸福な記憶へと変わっていく。


 ――太陽が傾き、空と海が美しい橙色に染まり始めた頃。

 籠の中にはカエラムが釣り上げた二匹の大きなスズキと、コルネリアが砂浜と岩場から集めたちょうど両手から溢れるほどのアサリとムール貝が満たされていた。


「これだけ立派で新鮮な海産物が揃うとは、ウラカさんに感謝しなければなりませんね。これらは、香草をたっぷりと使い、白ワインで蒸し焼きにするのが一番美味しいでしょう」


 カエラムが獲物を見極めながら、夕食の献立を提案する。


「白ワインの蒸し焼き……とても美味しそうですわ。ですが先生、あいにく診療所には、祝いの席で開けるような上等な白ワインしか残っておりませんよ?」


「ええ、分かっています」


 カエラムは荷物をまとめながら、穏やかな瞳でコルネリアを見つめた。


「今朝、診療所を出る前に庭を確認したのですが、いつの間にかノウゼンカズラの蔓にたくさんの蕾がつき、すでにいくつか鮮やかなオレンジ色の花を咲かせ始めていました。この暑さであれば、今夜にはさらに見事な花を咲かせることでしょう」


 彼は彼女の空いている右手を自身の左手でそっと包み込み、ゆっくりと歩き出した。


「あの情熱的なノウゼンカズラの花を眺めながら、今日二人で採った新鮮な海の幸をかまどで料理し、特別な白ワインの栓を抜く……これ以上の、完璧な祝いの席があるでしょうか?」


 その甘い提案に、コルネリアの胸の奥で心地よい高揚感が弾けた。

 二人で過ごす初めての海で得た、新鮮な食材と忘れられない景色。

 そして、診療所で待っている鮮やかな花と、甘美な夜の約束。


 押し寄せる波の音を背後に聞きながら、固く手を繋いで森へと続く道を歩む二人の足取りはこれから訪れる幸福な夜の始まりを予感し、どこまでも軽やかに弾んでいた。

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