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46 二人でのお出かけが今からとても楽しみですわ

 季節は本格的な夏の始まりを告げようとしていた。

 森を吹き抜ける風には明らかな熱が混じり始め、木々の葉は太陽の光を浴びて目を見張るほどに濃い緑色へと染まり上がっている。


 かまどに火をくべ、医療器具を煮沸消毒するための準備をコルネリアが進めていた昼下がり。

 診療所の重い木の扉が、外側から力強く押し開かれた。


「いやはや、また油断して怪我を作ってしまったよ!」


 大きな声と共に姿を現したのは、近隣の街や村を巡って商売をしている屈強な行商人の女性――ウラカだった。

 彼女は自身の背丈ほどもある巨大な背負い袋を床に下ろすと、苦痛に顔を歪めながら右足を引きずり、カエラムに促されるまま窓際の長椅子へと腰を下ろした。


「ウラカさん、今回はどうされたのですか? 冬の終わりにいらした時は、雪の下の泥で足を滑らせていましたが」


 カエラムは手早く煮沸済みの清潔な布を用意し、彼女の右足の裾を慎重に捲り上げた。


「今回は南の海岸近くの村まで足を伸ばしたのさ。珍しい海産物を仕入れようと岩場を歩いていた時に、波を被った滑る岩に足を取られてね。転んだ拍子に、鋭い岩の角で脚を切ってしまったというわけさ」


 ウラカの右脚のふくらはぎには、鋭利な刃物で引き裂かれたような深い裂傷が刻まれていた。

 出血はすでに止まっているものの、傷口には海岸の砂や細かな汚れが付着しており、このまま放置すれば深刻な炎症を引き起こすことは誰の目にも明らかであった。


「すぐに傷口を洗浄し、縫合の処置を行います。コルネリアさん、消毒のための強い蒸留酒と、あちらの棚にある縫合用の針と糸を」


「はい、カエラム先生。患部の痛みを和らげるための薬草の汁も、すでに抽出してございます」


 カエラムが指示を出し終えるよりも早く、コルネリアは必要なものをすべて完璧な順序で小さな盆の上に並べ、彼の横へと差し出していた。


 カエラムは蒸留酒を含ませた布で傷口の汚れを丁寧に拭き取り、細い針を使って裂けた皮膚を的確に縫い合わせていく。

 コルネリアはその手元を決して邪魔することなく、彼が次の器具を必要とする刹那の動きを読み取り、流れるような動作で手渡していく。


 ――二人の間には、不要な言葉でのやり取りは一切存在しなかった。

 ただ、器具を受け渡す際に視線が交差するほんの一瞬だけ、互いへの深い親愛と絶対的な信頼を示すような、極めて穏やかで甘やかな微笑みが交わされている。


 処置の補助を終え、コルネリアがカエラムの額に浮かんだ汗を清潔な布で自然な動作で拭き取る姿には、もはや医師と助手という業務上の枠組みを超えた、人生の伴侶としての確かな親密さが漂っていた。


「……なるほどね」


 痛みを堪えて処置を受けていたウラカが、二人の様子を観察しながら面白そうに唇の端を吊り上げた。


「冬の終わりにここへ来た時とは、ずいぶんと診療所の空気が変わったじゃないか。あの時はまだ、お互いにどこか探り合っているような、もどかしい距離感があったはずだけれどね」


 長年、過酷な行商の旅で無数の人間を観察し続けてきた商人の眼力は、二人の関係性の変化を極めて正確に見抜いていた。


「私が持ってきた異国の甘い菓子を食べて、あんたたちがどんな進展を見せたのかは知らないが……今のこの温かい空気、私はとても好きだよ。二人とも、本当に良い顔をするようになった」


 ウラカからの直球の指摘と粋な冷やかしの言葉に、コルネリアはペリドットの瞳をわずかに泳がせ、ほっぺたに明確な熱を集めた。

 カエラムもまた照れ隠しのように小さく咳払いをし、丸メガネの縁を指先で押し上げる。


「……ウラカさんの観察眼には、全く隙がありませんね。おかげさまで、我々は良い関係を築けております」


 カエラムが縫合を終え、薬草を塗り込んだ包帯を患部にしっかりと巻きつけて処置を完了させた。


「さすがはカエラム先生だ。痛みが嘘のように引いていくよ」


 ウラカは長椅子から立ち上がり、足の具合を確かめるように軽く足踏みをしてから、背負い袋の奥へと腕を突っ込んだ。


「さて、今日の治療代と、二人の素晴らしい変化への祝儀だ。これを受け取っておくれ」


 ウラカが取り出したのは、これまで受け取ってきた甘い菓子や果物ではなく、細長い布に包まれた棒状の道具だった。

 彼女が布を解くと、中から姿を現したのは、非常に精巧な作りをした一本の釣り竿であった。

 滑らかに磨き上げられたしなやかな木材に、金属製の巻き取り機が取り付けられており、仕掛けの糸から先端の針に至るまで美しい職人技が光っている。


「南の海岸の漁師から直接仕入れた、海釣り専用の特別な道具さ。森の清流で釣る魚も十分に美味いが、たまには波の音を聞きながら海の魚を釣り上げるのも格別の喜びがあるぞ。カエラム先生と嬢ちゃんで、二人きりでゆっくりと潮風でも浴びてきな!」


 それは診療所に籠もりがちな二人へ向けた、遠出への粋な提案であった。

 目の前に置かれた美しい釣り竿を見て、コルネリアは息を呑み、その瞳に驚きと強烈な好奇心の光を宿した。


「海……書物の中で読んだことはございますが、私は今まで一度も、本物の海という場所を見たことがありませんわ」


 彼女が生まれ育ったゼサリア・オル王国の王都は、大陸の深い内陸部に位置していた。

 さらに伯爵家の令嬢として厳しい規律に縛られ、王太子の婚約者という政治的な役割のみを与えられていた彼女は、遠方の領地や海岸線を訪れるような自由を与えられたことなど、ただの一度もなかったのである。


「そうかい。なら、なおさら行くべきだ。あのどこまでも続く真っ青な水面と、潮の香りは、一度見れば絶対に心が洗われるからね。休みの日にでも、先生に連れて行ってもらうといい」


 ウラカは豪快な笑い声を残し、再び重い荷物を背負って、夏の強い日差しが降り注ぐ森の道へと意気揚々と出発していった。

 入り口で彼女を見送った後、カエラムとコルネリアは円卓に戻り、残された海釣り用の竿を並んで見つめていた。


「海とは、一体どのような場所なのですか? 森の清流のように、底の石が見えるのでしょうか」


 コルネリアが釣り竿の滑らかな表面に指先で触れながら、未知の世界に対する期待を隠しきれない様子で問いかける。

 その純粋な好奇心に触れ、カエラムは彼女に新しい世界を見せてあげられることの喜びを胸の奥で静かに噛み締めていた。


「川とは全く違います。どこまでも続く青い水が、空との境界線を引くように平らに広がっているのです。水には強い塩気が含まれており、波が岩に砕ける音が静かな森とはまた違う心地よい音楽のように響く場所ですよ」


 カエラムが過去の記憶を頼りに静かに語ると、コルネリアは目を閉じ、まだ見ぬその広大な景色を頭の中に描き出すようにして深く息を吸い込んだ。


 これまでの彼女の人生は、不運という鎖と、家柄という重圧に縛られた極めて狭い世界の中にしかなかった。

 しかし今、彼女の隣には、あらゆる束縛から彼女を解放し未知の美しい景色を共に歩んでくれる――ただ一人の愛する人が存在している。


「……次の休診日は、少しだけ早起きをして、二人で南の海岸へ行ってみましょうか。ウラカさんの言葉通り、たまには潮風を浴びるのも悪くありませんからね」


 カエラムの言葉を聞いた途端、コルネリアは弾かれたように目を開き、至上の喜びを顔いっぱいに咲かせて何度も深く頷いた。


「はい、カエラム先生! 私、二人でのお出かけが今からとても楽しみですわ」


 夏の始まりを告げる熱を帯びた風が、窓を揺らして診療所の中を通り抜けていく。


 円卓に置かれた真新しい釣り竿と、海という未知の場所への期待。

 森の緑に囲まれた小さな診療所から、どこまでも青く広がる水平線へ。


 互いの想いを確かめ合い本当の自由と愛を手に入れた二人の時間は、新しい季節の波音を予感しながら、これまで以上に鮮やかで希望に満ちた色彩を放ち始めていた。

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