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45 先生の頭に、お花が……

 季節がさらに歩みを進め、森の木々が最も濃い緑の影を大地に落とす初夏の終わり。

 雲一つない高く澄み切った青空からは、容赦のない強い日差しが降り注ぎ、森の奥深くからは本格的な夏の到来を告げる力強いセミの鳴き声が、絶え間なく響き渡っていた。


 患者の訪れる予定がない、よく晴れた穏やかな午後。

 コルネリアは診療所の裏手にある井戸のそばに立ち、冬から春にかけて使用していた分厚い布類や寝台のシーツなどを、一気に洗い上げる大洗濯を決行していた。


 何度も清流を往復して大きな木桶に冷たい水をたっぷりと張り、植物の灰から作った洗浄用の粉を溶かし込む。

 そこに重い布を沈め、自らの両腕の力で何度も押し洗いを繰り返す。

 容赦のない夏の日差しを浴びながらの重労働により、彼女の額には大粒の汗が浮かび、ホワイトブロンドの髪がわずかに湿りを帯びて頬に張り付いていた。


「コルネリアさん、一人で無理をしないでください。力仕事は私がすべて請け負いますよ」


 そこへ、診療所の中からカエラムが意気揚々と姿を現した。

 彼は白衣を脱いで動きやすい麻のシャツ姿になり、両腕の袖を肘の上までしっかりと捲り上げている。

 いつも自身を支えてくれる彼女の負担を少しでも減らそうという、彼なりの誠実な気遣いであった。


「ありがとうございます、カエラム先生。それでは、この洗い終わったシーツの入った木桶を、あちらの陽当たりの良い干し場まで運んでいただけますか? 水を含んで、ひどく重くなっていますから気をつけてくださいね」


「任せてください。これでも、体力にはそれなりの自信があるのですよ」


 カエラムは頼もしく頷き、濡れたシーツが山のように積まれた大きな木桶の両端をしっかりと掴み、腰を落として一気に持ち上げた。

 ――しかし、コルネリアの胸の奥には、わずかな不安の影がよぎっていた。


 彼が力仕事に長けていることは疑いようのない事実である。

 だが問題なのは、大きな木桶を胸の高さまで持ち上げたことで、彼の足元の視界が完全に遮られてしまっていることであった。


 さらに彼は診察室での精密な作業から一歩離れると、途端に周囲の環境に対する警戒心や注意力が抜け落ちてしまうという、極めて頼りない性質を抱えているのである。


 ――その不安は、数秒後に見事なまでに的中することとなる。


 木桶の重さ自体は問題なくとも、視界を奪われたカエラムの歩みは明らかに不自然であった。

 どうにか手探りで進もうと足を踏み出したその時、診療所の裏口の床板のわずかな段差に彼のつま先が見事に引っかかった。


「あっ……!」


 カエラムの口から短い声が漏れ、彼の長身が木桶もろとも前方へと大きく傾いていく。


「先生、危ないですわ!」


 その光景を視界に捉えたコルネリアは、彼を助けようと即座に駆け出した。

 だが、この緊迫した状況下で彼女が生まれ持つ不運体質が、最も避けるべき最悪のタイミングで発動してしまったのである――。


 急いで足を踏み出したコルネリアのドレスの裾が、近くに置かれていた木製の椅子の脚に、まるで計算されたかのような正確さで絡みついた。

 足を完全にすくわれたコルネリアは、助けるために伸ばした両手を宙に浮かせたまま、体勢を崩して倒れゆくカエラムの広い背中へ向かって、凄まじい勢いで衝突してしまったのである。


 二人の身体が重なり合うようにして、木の床板の上へと派手に倒れ込む。

 その強烈な衝撃で、カエラムが抱えていた木桶が手から抜け落ち、床の上で大きく跳ねた。

 中に溜まっていた水と濡れたシーツが勢いよく飛び出し、周囲の床一面を水浸しにしていく。


 惨劇はそれだけでは終わらなかった。

 木桶が床に衝突した反動がすぐ横の壁に伝わり、その振動によって棚の一番上に置かれていた大きな籠のバランスが崩れたのである。


 籠の中に入っていたのは、数日前から天日干しにして乾燥させていた、カモミールによく似た白い香草の花々だった。

 傾いた籠の縁から、無数の白い花が滝のようにこぼれ落ちる。

 それはまるで夏の強い日差しの中に突然現れた吹雪のように、水浸しになった床と、倒れ込んだ二人の頭上へと一面に降り注いでいった。


 激しい衝突と、大量の水の飛沫。

 そして、視界を白く埋め尽くす花びらの雨。


 すべての連鎖反応が終わり、診療所の裏口には夏のセミの鳴き声だけが虚しく響き渡る数秒の沈黙が訪れた。


「……先生、お怪我はありませんか?」


 コルネリアは痛む膝を擦りながら、恐る恐る顔を上げた。

 彼女の目の前には、上半身を起こして床の上に座り込んだカエラムの姿があった。


 彼の麻のシャツは飛び散った水で見事に濡れ透け、トレードマークである丸メガネは斜めに大きくずり落ちている。

 さらに、彼の特徴的な翡翠色の髪のてっぺんには乾燥した白い香草の花がひとつ、まるで飾りのように乗せられていた。


 身体が鍛えられているからこそ余計に際立つ、あまりにも間抜けで冴えないその姿。

 自身の不注意から引き起こしてしまった大惨事であるにもかかわらず、コルネリアはその光景の滑稽さに耐えきれず、吹き出すように短く息を漏らし、やがて両手で口元を覆って肩を震わせ始めた。


「……笑い事ではありませんよ、コルネリアさん。私は今、人生で最も無様な姿を晒しているのですから」


 カエラムは呆然とした表情のまま、ずれた丸メガネを指先で直した。

 しかし、床一面に散らばった白い花と水たまり、そして、自身と同じようにドレスを濡らして笑い転げている彼女の姿を見ているうちに、彼自身の胸の奥からもどうしようもないおかしさが込み上げてきた。


「ふふっ……申し訳ございません。ですが、先生の頭に、お花が……」


「あなたこそ、見事な追撃でしたよ。私が倒れる背中へ、あのような完璧な軌道で飛び込んでくるとは」


 カエラムが頭の上の花を払い落とし、力なく笑い声を漏らす。

 その声につられるようにして、コルネリアの笑い声も大きくなる。


 誰かを責めるような暗い感情は一切なく、ただ二人の不器用さと間の悪さが生み出した奇跡的な惨状を前にして、彼らは水浸しの床に座り込んだまましばらくの間声を上げて笑い合い続けた。


 ひとしきり笑って息を整えた後、二人は立ち上がり、すぐさま協力して事態の収拾に取り掛かった。

 カエラムは長い柄のついた布を取り出し、自身の不注意を挽回するように、床に広がった水を器用な手つきで一箇所へと拭き集めていく。


 一方のコルネリアは、濡れていない綺麗な花びらを丁寧に拾い集め、泥水を含んでしまったシーツを再び洗い直すために清流へと運んだ。


「先生は本当に、診察室から出ると途端に隙が多くなりますわね。お力が強い分、被害が大きくて大変ですわ」


「返す言葉もありません。ですが、あなたのその不運な性質も、今日のは見事な芸術点でしたよ」


 互いの欠点を取り上げて軽口を叩き合いながらも、二人の作業の手は決して止まらない。

 流れるような見事な連携によって、散乱していた香草は回収され、床の水気も完全に拭き取られた。


 洗い直したシーツを陽当たりの良い場所へと干し終える頃には、二人の額には再び心地よい労働の汗が浮かんでいた。

 すべての後片付けを終え、二人は風通しの良い窓辺の長椅子に並んで腰を下ろした。


 コルネリアの用意した冷たい水に氷と新鮮なミントの葉をたっぷりと浮かべた飲み物が、二つのグラスに注がれている。

 グラスの表面には細かな水滴がびっしりとつき、中の氷が涼やかな音を立てた。


 二人は同時にグラスを口に運び、冷たい液体を喉の奥へと流し込む。

 ミントの爽快な清涼感と氷の冷たさが、力仕事と夏の暑さで火照り切った身体の熱を心地よく静かに奪っていった。


「……美味しいですね。生き返るようです」


 カエラムは空になったグラスを膝の上に置き、窓の外で風に揺れる真っ白なシーツを見つめた。


「こうして振り返ってみると、私は本当に生活における注意力が欠けています。あなたがいなければ、私の日常は早々に破綻して、水浸しの床で立ち往生していたことでしょう」


「何を仰いますの。私の方こそ、先生の医療技術と助けがなければ、毎日どこかしらに怪我をして傷だらけの生活を送っておりますわ。私の不運を笑って受け入れてくださるのは、世界中で先生ただお一人です」


 コルネリアもまた、グラスの縁を指先でなぞりながら心からの安堵を含んだ声で応えた。


 生活における注意力が抜け落ちている不器用な医師と、天文学的な確率で事故を引き起こす不運な令嬢。

 一人ではどこか欠落し、完全ではない二人。

 しかし、こうして並んで座り、互いの足りない部分を補い合い、共に笑い飛ばすことができる今――彼らの日常は他の誰よりも豊かで、完璧な調和を保っていた。


 窓の外からは、再び力強いセミの鳴き声が聞こえてくる。

 眩しい夏の日差しが森の木々を照らし出す中、冷たいミント水の爽やかな余韻と、互いの存在を深く慈しむ温かな感情に満たされながら、二人の不完全で愛おしい日常はどこまでも穏やかに流れていった。

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