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43 正真正銘の初恋の方なのですわ

 互いの心を通い合わせてから、数日の時が流れたある日の夕暮れ。

 初夏の太陽が森の木々の向こうへと沈みかけ、空を鮮やかな茜色から深い藍色へと染め替えていく時間帯。

 診療所の中には、これまでの穏やかな静寂に加えて、どこか甘く――そして、心地よい緊張感が漂っていた。


 コルネリアは厨房に立ち、本日の夕食の仕上げに取り掛かっていた。

 まな板の上に乗っているのは、狩人のタツィオが森の奥の清流で釣り上げ、診療所への差し入れとして届けてくれたばかりの、新鮮な白身の川魚である。

 彼女はカエラムが魚料理を好んでいることを熟知しており、彼の喜ぶ顔を想像しながら丁寧に調理を進めていた。


 川魚の表面に薄く小麦粉をまぶし、少量の油を引いた鉄鍋へと並べる。

 薪の火力を絶妙に調整すると、魚の皮が焼ける香ばしい匂いが立ち昇り始めた。


 コルネリアは、庭で育てている香りの強い葉を数種類摘み取り、細かく刻んで鍋へと加える。

 さらに、先日街の市場で手に入れた東方の柑橘を半分に切り、その瑞々しい果汁をたっぷりと回しかけた。

 酸味と香草の清涼感が魚の旨味を包み込み、食欲を強く刺激する芳醇な香りが診療所の空間を満たしていく。


「お待たせいたしました、カエラム先生。本日は、清流の魚を使った香草焼きです」


 焼き上がった魚を大きな皿の中央に盛り付け、彩りとして茹でた葉野菜を添える。

 円卓に料理を並べ、二人はいつものように向かい合って腰を下ろした。


 これまでは医師とその助手という明確な役割のもとで、日々の食事を自然に共有してきた。

 ――しかし、互いの想いを言葉にして確かめ合った今、向かい合って座るという些細な行為すらも、これまでとは全く違う意味を持ち始めている。


 視線が交差するだけで呼吸がわずかに浅くなり、食器に手を伸ばすタイミングが重なれば、互いに譲り合って言葉に詰まってしまう。

 恋を自覚した二人の間には、初々しくもぎこちない空気が流れていた。


 カエラムは木の匙と刃物を手に取り、川魚の身を崩さないように丁寧に切り分けて口へと運んだ。


「……見事な焼き加減です、コルネリアさん。香草の爽やかな香りと柑橘の鋭い酸味が、白身魚の繊細な旨味を完璧に引き立てていますね。あなたが作る料理は、日を追うごとに洗練されていきます」


 カエラムの賛辞は、今日も流れるように滑らかであった。

 彼は彼女の仕事ぶりや料理の腕前を正当に評価し、言葉にして伝えることに関しては昔から何一つ不自由していない。

 コルネリアもまた、彼の偽りのない称賛の言葉を受け取り、嬉しそうに目元を和らげた。


 ――しかし、食事の手を少し休めたカエラムが、ふと彼女の顔を真っ直ぐに見つめた時。

 彼は何かを言い淀むように視線を僅かに泳がせ、円卓の上で自身の指先を微かに動かした。

 何か行動を起こそうとして踏みとどまっているような、迷いの仕草だった。


「……先生? 何か、お入り用ですか」


 コルネリアが不思議そうに小首を傾げると、カエラムは少しだけ困ったように息を吐き出し、自らの片手を円卓の上へと滑らせた。

 そして、テーブルの上に乗せられていた彼女の左手の上に、自身の大きく温かい右手を慎重に重ね合わせたのである。


 突然の接触に、コルネリアの肩が小さく跳ねる。


「……申し訳ありません。あなたを驚かせるつもりはなかったのですが」


 カエラムは彼女の手を握る力加減すら迷っている様子で、ひどく不器用に言葉を紡いだ。


「あなたの料理の腕前や、日々の細やかな気遣いを称賛する言葉であれば、私はいくらでも口にすることができます。ですが……いざ、こうして互いの想いを通い合わせた後、どのようにあなたに触れ、恋人としてどのような甘やかな言葉をかければよいのか……全く分からないのです」


 カエラムの口から語られたのは、飾ることのない自身の余裕のなさの告白だった。


「患者の身体の不調を読み取ることには長けていても、愛する人との距離の縮め方については、医学書にも載っていませんからね。私は本当に、この手の事柄には不慣れなようで……あなたを前にすると、ひどく臆病になってしまいます」


 自身の経験の乏しさを恥じるように伏せられたアンバーの瞳。

 そのあまりにも真摯で、不器用な彼の姿を見て、コルネリアの胸の奥に愛おしさが泉のように湧き上がってきた。


 彼女は重ねられた彼の手の下で自身の指先を動かし、彼の大きな手を優しく、包み込むように握り返した。


「……先生。私の方こそ、どのように振る舞えばよいのか分からず、ずっと戸惑っておりましたのよ」


 コルネリアの穏やかな声に、カエラムが顔を上げる。


「王都にいた頃、私には王太子殿下という婚約者がおりました。ですが、先生もご推察の通り、あれは両親が家柄のために取り決めた政治的な結びつきであり、そこに個人の感情は一切存在しておりませんでした。お互いに必要以上の距離を置き、甘やかな会話や愛情を交わすようなことは、ただの一度としてなかったのです」


 ペリドットの瞳が、過去の冷たい記憶を通り抜け、目の前にいるただ一人の恋人を真っ直ぐに捉える。


「それに、幼い頃からの不運な性質のせいで、周囲からは常に遠ざけられてきましたから……誰かに特別な感情を向けることも、向けられることもなく生きてまいりました。ですから、私には恋の駆け引きも、気の利いた振る舞いも、何も分からないのです」


 彼女は重ね合わせた彼の手の温もりを確かめるように、少しだけ力を込めた。


「誰かを心から慕い、その方に想いを寄せるという経験は……私にとって、これが初めてなのです。カエラム先生が、私の、正真正銘の初恋の方なのですわ」


 その言葉が診療所の空気に溶け込んだ瞬間――カエラムは息を呑んで完全に動きを止めた。

 彼女がどれほどの孤独を抱え、どれほど純粋に自分へと想いを寄せてくれているのか。

 その初恋という言葉の持つ圧倒的な重みに、彼の胸の奥で言葉を持たない激しい感情の波が打ち寄せていた。


 カエラムは握り合っていた手を一度解き、今度は彼の方から、彼女の白く細い手を両手で大切に包み込んだ。

 彼の指先はもう迷うことなく、確かな力強さを持って彼女の熱を受け止めている。


「……あなたのその尊い初めての想いを、私が受け取ることができたのですね。これほど光栄なことはありません。私は、あなたのその想いに応えるためにも、これからの人生のすべてを懸けてあなたを大切にすると誓います」


 カエラムの低く静かな誓いの言葉に、コルネリアの視界が微かに潤んだ。

 彼女は喜びを噛み締めるように、何度も深く頷く。


「お互いに不慣れなのですから、無理に背伸びをする必要はありませんね。私たちの歩幅で、少しずつ、二人だけの関係を築いていきましょう」


「はい、カエラム先生。どうかこれからも、末永くよろしくお願いいたしますわ」


 互いの不器用さを認め合い、それでも共に歩むことを選んだ二人の間には、もはや気まずい緊張感は欠片も残っていなかった。

 円卓の上のランプの灯りが、二人の重なった手を温かいオレンジ色に照らし出している。


 窓の外から聞こえてくる初夏の虫たちの声と、清流で獲れた魚の香ばしい匂い。

 それらに包まれながら、お互いの存在を何よりも愛おしく感じる夕食の時間は、夜の静寂の中でどこまでも穏やかに更けていった。

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