表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
42/49

42 私は、父親を求めているのではありません

 空を重く覆う雲から、絶え間なく雨の雫が落ち続ける初夏の一日。

 森の木々はたっぷりと水分を吸い込んで静まり返り、山道はぬかるんで歩くことも困難な状態になっていた。


 このような悪天候の中、よほどの緊急事態でもない限り森の奥の診療所まで足を運ぶ患者はいない。

 昼を過ぎた頃、カエラムは早々に診療所の入り口に本日の休診を知らせる木札を掛け、休息の時間を宣言した。


「コルネリアさん、足元から冷えませんか? 肩にかける布を持ってきましょう」


 カエラムが、いつもより一段と丁寧な――そして、どこか過保護な響きを持つ声で話しかけてくる。

 前日の午後、彼自身の極度な自信のなさから父親代わりという盛大な誤診を下して以来、彼は己の個人的な感情を完全に封印し、清々しいほどに善良な保護者として振る舞い続けていた。


 何かにつけてコルネリアの体調を気遣い、重いものを持たせず、歩く時も一定の距離を保って決して触れようとはしない。

 その極端に節度ある態度は、彼なりの誠実さの表れであると理解できても、コルネリアにとってはひどくもどかしく、内心で何度目かの深い溜息をこぼさずにはいられなかった。


 ――この不自然な空気をどうにかして変えなくてはならない。

 そう決意したコルネリアは、気分を切り替えるために厨房へと向かい、棚から小麦粉と砂糖を取り出してお菓子作りの準備を始めた。


 今日は、二種類の異なる味わいのクッキーを焼くことにした。

 一つは自分用の、甘みを強くした生地に、砕いた胡桃と細かく刻んだ黒いチョコレートをたっぷりと練り込んだドロップクッキー。

 天板に無造作に落として焼き上げることで、外側は硬く、内側は少しだけ柔らかな食感が残る仕上がりになる。


 もう一つは、甘いものがそれほど得意ではないカエラムのために用意した、大人の味わいのクッキーである。

 砂糖を極力減らした生地に、細かくすりおろした硬質なチーズとわずかな塩、そして香りを引き立てるための黒胡椒を練り込んで薄く伸ばし、小さな四角形に切り分けていく。


 かまどの火力を調整し、天板を二段にして焼き始めると、間もなくして診療所の中に焼けた小麦と溶けたチーズ、そして甘いチョコレートの幸福な香りが混ざり合って漂い始めた。


「素晴らしい香りですね。あなたが厨房に立ってくれるおかげで、この診療所はいつも豊かな温かさに満ちています」


 背後から聞こえてきたカエラムの称賛の言葉。

 ――しかし、その声色もまた、よくできた娘を誇らしく見守る父親のような、どこまでも慈愛に満ちた穏やかなものであった。


 焼き上がった二種類のクッキーを大皿に盛り付け、コルネリアは飲み物の準備に取り掛かった。

 昨日、診察のお礼に老婦人マルタから贈られた、東方の国から伝わったという珍しい緑茶の茶葉である。

 コルネリアは沸騰した湯を一度別の器に移して少しだけ温度を下げてから、茶葉を入れた急須へと静かに注いだ。


 ゆっくりと時間をかけて抽出された液体を、二つの湯呑みへと注ぎ分ける。

 これまで飲んできた薬草茶の鋭い苦味や、紅茶の華やかさとは全く異なる、雨に濡れた若草のように深く澄んだ、心が静まるような特有の香りが立ち昇った。


「さあ、お茶の準備が整いました。少しお休みになられませんか」


 円卓にクッキーと湯呑みを並べ、二人は向かい合って腰を下ろした。

 カエラムは自身の前に置かれたチーズのクッキーを手に取り、一口かじる。

 焼けたチーズの香ばしさと程よい塩気、そして黒胡椒の微かな刺激が彼の味覚を心地よく満たしていく。

 温かい緑茶を湯呑みからすすると、東方特有の爽やかな渋みが口の中をさっぱりと洗い流してくれた。


「……とても美味しいです。私の好みをこれほど見事に理解し、形にしてくれるあなたの細やかな気遣いには、いつも感服するばかりです」


 カエラムは湯呑みを両手で包み込みながら、真っ直ぐにコルネリアを見つめた。

 そして彼は、前日の誤診をさらに決定づけるような、決定的な言葉を口にしたのである。


「あなたが過去にどれほど孤独な時間を過ごしてきたとしても、今のあなたには、こうして素晴らしい生活を営むだけの力があります。私は、これからのあなたの人生を、家族として、一番近くで見守っていけることを心から誇りに思いますよ」


 それは、彼が自身の淡い恋心を完全に諦め、彼女の保護者として生きる覚悟を決めた誠実で悲しい宣言だった。

 しかし、その言葉を聞いたコルネリアは、手元の湯呑みを円卓の上へ少しだけ強い音を立てて置いた。


「……カエラム先生」


 コルネリアは椅子から立ち上がり、円卓を挟んでカエラムのすぐ目の前へと身を乗り出した。

 二人の顔の距離が、呼吸が互いの肌に触れるほどに急激に縮まる。

 カエラムは突然の接近に驚き、丸メガネの奥のアンバーの瞳を大きく見開いて硬直した。


 コルネリアは決して視線を逸らすことなく、至近距離から彼の瞳の奥の奥までを真っ直ぐに射抜くように見つめ、一切の揺るぎない確固たる意志を持って語り始めた。


「昨日の先生の父親代わりというお言葉。そのままに受け流そうかとも思いましたが……やはり、このまま誤解されたままでは、私があまりにも悲しすぎます」


「え……誤解、とは……?」


「先生は、ご自身の医療技術に関しては紛れもない天才でいらっしゃいますが、ご自身に向けられた感情を読み解くことに関しては、ひどく不器用でいらっしゃいますね」


 コルネリアは少しだけ困ったように――しかし、どこまでも深く温かい情愛を込めた微笑みを浮かべた。


「私は昨日、先生と共にいるこの生活が、過去のどの時間よりも温かく、安心できるとお伝えしました。ですが、それは決して、幼い頃に得られなかった親の庇護を、先生に求めているという意味ではございません」


 彼女のペリドットの瞳が、カエラムの視線を逃さないように強く捕らえ続ける。


「ただの家族であれば、あなたの声を聞くたびに、これほど胸の奥が騒いだりいたしません。不意に手が触れただけで、顔が熱くなることもありませんわ」


 コルネリアの真っ直ぐな言葉の刃が、カエラムが必死に構築していた保護者としての理性を、一枚ずつ丁寧に剥がしていく。


「私は、父親を求めているのではありません。私自身の意思で……あなたという、一人の男性の隣に、これからもずっと寄り添っていたいと願っているのですよ」


 その偽りのない、純粋な告白を聞いた瞬間――。

 カエラムの中で強固に張り巡らされていた不自然な自己防衛の壁が、音もなく崩れ去っていった。


 彼女は、父親として自分を見ているわけではなかった。

 冴えない医者であり、一回りも年上の自分を、一人の男性として慕い、愛してくれている。


 己の年齢や容姿に対する強烈な自信のなさから、都合の良い理屈を並べて彼女の想いから目を逸らしていたのは、他でもないカエラム自身だったのだ。

 カエラムは完全に言葉を失い、大きく息を吸い込んだまま、自らの愚かさと、それ以上に胸の奥底から込み上げてくる途方もない喜びに打ち震えていた。


 彼はゆっくりと視線を落とし、自らの両手で顔を覆うと、深く、長い溜息を吐き出した。


「……私は、とんでもない思い上がりをしていました」


 顔を覆う指の隙間から漏れた声は、これまでの余裕など欠片もない、自身の弱さを曝け出した一人の不器用な男性としての響きを持っていた。


「自身の年齢と、冴えない容姿。あなたのような高貴で美しい方に、好意を向けられるはずがないと……勝手に決めつけ、傷つかないための逃げ道を作っていただけでした。これほどまでに明確な症状を見落とし、あなたに悲しい思いをさせてしまうとは……私は本当に、愚かな医者です」


 カエラムは顔を覆っていた手を下ろし、再びコルネリアと真っ直ぐに視線を合わせた。

 そのアンバーの瞳には、もはや父親としての義務感も、保護者としての節度も存在しない。

 あるのはただ、長い間抑え込んできた彼女への深い愛情と、一人の男性としての確かな熱量だけであった。


「……訂正させてください。私は、あなたの父親などには決してなれません。これからは……あなたの隣を歩む、ただ一人の男として、この身を捧げてもよろしいでしょうか」


 自らの誤診を認め、すべての不安を捨て去った彼の真っ直ぐな言葉に、コルネリアの白い頬が見事な朱色に染め上がっていく。

 彼女は胸の奥が甘く満たされていくのを感じながら、花が咲くような至上の微笑みでゆっくりと頷いた。


「はい……喜んで、カエラム先生」


 窓の外では、森の木々を潤す初夏の雨が、絶え間なく優しい音を立てて降り続いている。


 もどかしいすれ違いの時間は完全に終わりを告げた。

 ほんのりと苦い緑茶の香りと、甘く香ばしい二つのクッキーの味わい。

 その対照的な余韻が溶け合う円卓の上で、ようやく互いの本当の温度を知った二人の時間は、雨の日の湿気すらも忘れるほどに、どこまでも甘く――そして、深い幸福感に包まれたまま流れていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ