41 なぜ唐突に家族宣言をされてしまったのかしら……?
強い日差しが森の緑を力強く照らしつける、ある晴れた日の午後。
診療所の扉が控えめに叩かれ、かつて激しい雨の中で川に転落し、カエラムとコルネリアの懸命な処置によって一命を取り留めた近隣の老婦人――マルタが姿を現した。
本日の彼女は、自身の体調不良で診察に訪れたのではなかった。
彼女の背中の後ろに隠れるようにして、一人の幼い少年が立っていたのである。
「カエラム先生、コルネリアさん。すまないね、今日はこの子のことで頼みがあって来たんだよ」
マルタが優しく背中を押して前に立たせたのは、彼女が親代わりとなって世話をしている親のいない子供の一人――ラケルだった。
陽の光を透かして輝く、綿毛のように柔らかな亜麻色の髪。
そして、怯えを含んで潤んだ、透き通るようなアメジストの瞳を持つ少年。
生来のおっとりとした気質で極度に寂しがり屋な彼は、見知らぬ診療所の空間と薬品の匂いに緊張しているのか、マルタの衣服の裾を小さな両手で強く握りしめ、苦しそうに短い咳を幾度も繰り返していた。
「初夏の気候の変わり目で、どうやら風邪を引かせてしまったみたいなんだ。夜も咳が続いて、上手く眠れないようでね」
マルタの言葉を聞き、カエラムは警戒心を抱かせないよう白衣の裾を払ってラケルの目線に合わせてゆっくりと膝をついた。
「ラケル君ですね。少しだけ、胸の音を聞かせてくれますか。痛いことは何一つしませんから、安心してくださいね」
カエラムが極めて穏やかな声で語りかける。
ラケルはアメジストの瞳でマルタを一度見上げ、彼女の優しい頷きを確認してから、恐る恐るカエラムの前へと歩み出た。
カエラムは金属の冷たさを感じさせないよう、自らの手のひらで包んで温めた聴診器を、ラケルの小さな胸へと静かに当てる。
呼吸音に深刻な異常がないことを確かめると、彼は丸メガネの奥のアンバーの瞳を優しく細めて微笑んだ。
「大丈夫ですよ。喉の軽い炎症からくる風邪のようです。苦い薬草の粉末ではなく、子供でも飲みやすいように、甘い果実の果汁をたっぷりと混ぜたシロップの薬を用意しましょう」
その言葉に、ラケルはほっとしたように強張らせていた小さな肩の力を完全に抜いた。
コルネリアもまた、シロップ状の薬を小瓶に詰めてマルタに手渡しながら、ラケルの亜麻色の髪を優しく撫でた。
「ラケル君。これを飲んでたくさん眠れば、すぐに元気になりますからね。マルタさんの言うことをよく聞いて、夜は暖かくして過ごすのですよ」
コルネリアの慈愛に満ちた声と柔らかな指先の感触に、ラケルは少しだけ頬を染め、嬉しそうに小さく頷きを返した。
マルタとラケルが何度も感謝の言葉を述べながら帰路につき、診療所には再び穏やかな初夏の静けさが戻ってきた。
二人は円卓に向かい合って座り、薬の調合の合間の短い休息を取っていた。
カエラムは窓の外の森へと続く道をじっと見つめたまま、手元にある湯呑みを指先で静かになぞり、ポツリと口を開いた。
「……ラケル君がマルタさんの服の裾を強く握りしめる姿を見ていると、ふと、自身の幼かった頃の記憶が蘇ってきました」
唐突なカエラムの言葉に、コルネリアは瞬きをして彼を見つめた。
「私は、物心つく前に父親が病で他界しております。残された母親は、私を養うために朝から晩まで働き詰めの生活を送っていました。ですから、私が目を覚ます頃にはもう母親の姿はなく、夜遅くに帰ってくるまで、家の中には常に私一人だけだったのです」
カエラムのアンバーの瞳が、過去の静寂を思い出すように少しだけ伏せられる。
「誰もいない家の中は、恐ろしいほど静かでした。私はその寂しさを紛らわせるために、亡き父が遺した難解な医学書や古い書物を、ただひたすらに読み漁っていたのです。それが、私が医療の道へ進む原点となりましたが……ラケル君のように寂しそうに大人の温もりを求める子供を見ると、当時の孤独の冷たさを昨日のことのように思い出してしまうのです」
淡々と語られる彼の言葉の裏にある、幼い少年の孤独な時間。
コルネリアは胸の奥が締め付けられるような痛みを感じ、彼に寄り添うように自らの両手を膝の上で固く組み合わせた。
「……カエラム先生。実は、私も同じなのです」
コルネリアの静かな声に、カエラムが顔を上げる。
「私は裕福な伯爵家に生まれましたから、生活に困窮することはありませんでした。ですが……先生もご存知の通り、私は幼い頃から天文学的な確率で周囲に不運な事故を引き起こす特異な性質を持っておりました」
彼女はペリドットの瞳に過去の悲哀を滲ませ、ゆっくりと自身の過去を紡いだ。
「実の両親からは気味悪がられ、使用人たちからは厄介者として遠ざけられていました。誰も私と関わりを持とうとはせず、ただ広い屋敷の片隅で、不運による被害を避けるために一人で本を読んで過ごす……それが、私の幼少期のすべてだったのです」
美しいドレスを着せられながらも、親からの無条件の愛情を与えられることなく、ただ一人で孤独に耐え続けていた過去。
全く異なる境遇でありながら、二人の根底にある寂しさの形は、痛いほどに似通っていた。
「ですが、先生」
コルネリアは伏せていた顔を上げ、花が綻ぶような――この上なく幸せに満ちた微笑みをカエラムへと向けた。
「今は全く違います。先生が私の不運な性質を少しも嫌がることなく、ただ真っ直ぐに私自身を見てくださるおかげで……カエラム先生と共にいるこの診療所での生活は、過去のどの時間よりも温かく、私にとって心から安心できるものなのです。私は今、全く孤独ではありませんわ」
それは、彼女の魂の底から溢れ出た、純粋な感謝と深い情愛の告白であった。
――しかし、そのあまりにも真っ直ぐな言葉を受け止めたカエラムの優秀な頭脳は、極度の自信のなさと相まって、思いもよらない方向へと論理を飛躍させてしまったのである。
(待てよ。彼女は幼い頃から、両親の温かい愛情を注がれることなく育ってきたと言った……対して私は、彼女よりも一回りも年上の、常に彼女を庇護する立場にある大人だ)
カエラムの思考が、猛烈な勢いで回転を始める。
(彼女が今、私に対して感じているというこの絶対的な安心感と温かさは……決して一人の男性に向けられた恋愛感情などではない。幼い頃に得られなかった無条件に守ってくれる親に対する愛情を、年上の私に重ね合わせているだけなのではないか……?)
最近、互いの距離が近づき、甘い空気を感じるたびに抱いていた「もしかして彼女も自分と同じ気持ちなのでは」という大人の男としての淡い期待が、冷や水を浴びせられたように急速にしぼんでいく。
自身の冴えない容姿と年齢の差に対する強烈な引け目が、彼の誤診を完全に決定づけた。
(そうか。私は彼女にとって、異性ではなく、保護者であり父親代わりなのだ……ならば、その真っ直ぐな家族としての信頼を、私の身勝手な男としての感情で裏切るような真似は決して許されない)
心の中で、大人の男としての淡い恋心が致命的な痛みを伴って崩れ落ちていくのを味わいながらも、カエラムは必死に理性を総動員し、顔の筋肉を引きつらせないように表情を保った。
「……ええ。そのお言葉を聞けて、私も本当に嬉しいです」
カエラムは不自然なほどに背筋を伸ばし、極めて爽やかな、まるで絵に描いたような微笑みを浮かべてコルネリアへと返答した。
「あなたの過去の寂しさを埋めることができるのであれば、本望です。これからも、私のことを本当の家族のように思い、いつまでも父親代わりとして頼ってくださいね、コルネリアさん」
「…………えっ?」
突然、斜め上から降ってきた父親代わりという言葉に、コルネリアはペリドットの瞳を限界まで丸くして完全に硬直した。
(え……? 先生は今、何とおっしゃいましたの? 私は甘い雰囲気でお話ししたつもりだったのに、なぜ唐突に家族宣言をされてしまったのかしら……?)
カエラムは自らの個人的な感情を封じ込め、立派な大人として振る舞い切ったことに一人で安堵し、満足げに何度もうなずいている。
対するコルネリアは、あまりにも見事なすれ違いを前にして、言葉を失ったまま彼を見つめ返すことしかできなかった。
せっかく互いの最も深い過去と孤独を共有し、絆がさらに一段階深まるはずだった初夏の午後――。
カエラムの持ち合わせた大いなる勘違いによって、二人の歩幅が全く別の方向へと向かってしまった、もどかしくも滑稽な静寂だけが診療所の中をどこまでも虚しく漂っていた。




