40 お探しのものは、こちらにございますわ
深い森に初夏の強い日差しが降り注ぐ午後。
診療所の周囲を囲む高い木々がその光を優しく遮り、開け放たれた窓辺には、涼やかな風と共に柔らかな木漏れ日が揺らめいていた。
ラットマンの家族が新しい命と共にこの場所から旅立って数日が経過し、診療所にはかつての穏やかな静寂が戻ってきている。
患者の来訪もない休息の時間、コルネリアは厨房の前に立ち、自身のささやかな楽しみのための準備を進めていた。
彼女の手元にあるのは先日街へ買い出しへ行った際に購入してきた、南方の国から輸入された上質な紅茶の茶葉である。
普段カエラムが愛飲し、また患者にも振る舞っている薬草茶は身体の不調を整える確かな効能があるものの、香りや味に独特の苦味が混ざる。
時には、かつて伯爵令嬢として王都で暮らしていた頃のように、ただ純粋に香りを楽しむための茶を淹れたくなる日もあった。
コルネリアは小さな陶器のポットに熱湯を注いで全体をしっかりと温め、中身を一度捨ててから、丁寧に計量した茶葉を底へと沈めた。
そこへ、完全に沸騰した熱湯を勢いよく注ぎ入れる。
蓋をして静かに待つこと数分。
注ぎ口から漏れ出した微かな蒸気と共に、華やかで、どこか蜜のような甘さを帯びた芳醇な香りが診療所の空間を満たしていく。
彼女が静かに蓋を開けると、澄んだ赤い液体が美しい輝きを放っていた。
――その時、居住区画へ続く廊下の奥からひどくおぼつかない足音が聞こえてきた。
コルネリアが視線を向けると、壁に手をつきながらすり足で歩いてくるカエラムの姿があった。
彼の顔には、常に目元を覆っているはずの丸メガネが存在しない。
洗顔の際にでも外して、そのまま置き忘れてしまったのだろう。
視界を補助する道具を失った彼は、極度の近視によって周囲の景色が完全にぼやけており、自らの居場所すら正確に把握できていないようだった。
手探りで前に進もうとするカエラムの足元には、数日前に薬草を仕分けた際に出た不要な枝を入れた小さな木箱が置かれている。
彼はそれに全く気づいておらず、今にもつま先を引っ掛けて転倒しそうな位置にまで近づいていた。
「先生、危ないですわ!」
コルネリアは焦りを滲ませた声で呼びかけながら、すぐさま彼のもとへ駆け寄った。
彼女はカエラムの前に立ち塞がり、障害物を避けるようにして彼の二の腕を両手でしっかりと支えた。
突然腕を掴まれたカエラムは驚いたように肩を跳ねさせたが、耳元に届いた声の主が誰であるかを認識し、安堵の息を吐き出した。
「コルネリアさんですか……顔を洗った後、どこかにメガネを置いてしまって。探しに行こうにも、足元がおぼつかなくて難儀していたのです」
そう言いながら、カエラムは声の聞こえる方へ――つまりコルネリアの顔がある位置へと、無意識のうちに自身の顔を近づけた。
ぼやけた視界の中で、少しでも彼女の輪郭をはっきりと捉えようとする本能的な行動だった。
――しかし、それは彼女にとって、予期せぬほどの至近距離への接近を意味していた。
丸メガネという遮蔽物が取り払われたカエラムの素顔は、普段の冴えない印象とはあまりにもかけ離れていた。
無造作な翡翠色の髪の隙間から覗くのは、長い睫毛に縁取られた端正な目鼻立ち。
そして、いつもはレンズ越しに見ているアンバーの瞳が、今は一切の隔たりなく極めてクリアな色彩を持って彼女を真っ直ぐに捉えている。
あまりにも近くで交差する視線。
カエラムの穏やかな呼吸が、コルネリアの額の髪を微かに揺らす。
彼女はとっさに視線を逸らすことすらできず、ただその立ち尽くした。
一方のカエラムもまた、視覚が制限されているからこそ他の感覚が普段以上に鋭敏になっていた。
彼の二の腕を支えてくれている彼女の指先から、心配と気遣いに満ちた温かな体温が衣服越しに伝わってくる。
すぐ目の前からは、先ほど彼女が淹れていた紅茶の華やかな香りと、彼女自身が纏う清らかな花の匂いが混ざり合い、静かに鼻腔をくすぐっていく。
目が見えなくても、彼女がいかに自分の不注意を案じ、真っ直ぐな誠実さで寄り添ってくれているかが痛いほどに伝わってくる。
その揺るぎない優しさに触れ、カエラムの胸の奥底で言葉を持たない深い愛情が静かに膨れ上がっていった。
互いの体温と気配を至近距離で感じ合い、小さな空間に濃密な沈黙が落ちる。
やがて、コルネリアの視線がカエラムの顔から少しだけ下へと彷徨った。
そして彼女は、思わず小さく息を漏らした。
カエラムが着ている白衣の胸ポケット。
そこから彼が探している丸メガネの金属製のつるが、ほんのわずかに顔を覗かせていたのである。
自身で無意識のうちにポケットにしまい込み、そのまま忘れてしまったのだろう。
――極めて彼らしい、不器用な顛末だった。
「……先生。お探しのものは、こちらにございますわ」
コルネリアは自身の動揺を悟られないよう、できる限り平坦な声を保ちながら片手を彼の胸元へとゆっくりと伸ばした。
彼女の細い指先が、カエラムの胸ポケットの縁に触れる。
布一枚を隔てたすぐ下で、カエラムの心臓が普段よりも明らかに強く拍動しているのが、彼女の指の腹にダイレクトに伝わってきた。
自らの高鳴る鼓動を彼女に知られてしまったことに気づき、カエラムは不自然に視線を宙へと彷徨わせ、喉仏を小さく上下させた。
彼がどれほど冷静を装おうとも、胸の奥底で鳴り響く音だけは隠すことができない。
――その事実が、コルネリアの心の奥に甘く心地よい痺れをもたらす。
彼女もまた、まばたきの回数が異常に多くなっている自身に気づきながら、震えそうになる指先にわずかな力を込めて、ポケットから丸メガネを引き抜いた。
「はい。どうぞ」
「……お恥ずかしい限りです。どうやら私は、自身の身体の一部すら管理できないようです」
カエラムは逃げるようにメガネを受け取ると、すぐさま耳にかけ、いつもの位置へと押し込んだ。
再びレンズ越しの視界に戻ったものの、彼は自身の不注意と、先ほどまで彼女の気配を間近に感じていた余韻を持て余し、どこか落ち着かない様子で白衣の裾を直した。
「ちょうど、紅茶を淹れたところなのです。少し、休憩になさいませんか?」
コルネリアの提案は、気まずい空気を持て余していたカエラムにとって、絶好の助け舟であった。
彼は深く頷き、円卓の椅子へと静かに腰を下ろした。
コルネリアが二つの白い陶器のカップに紅茶を注ぎ、テーブルの中央へ置く。
カエラムはカップの縁に口をつけ、芳醇な香りをゆっくりと堪能するように一口飲んだ。
薬草茶とは全く違う、渋みが少なく洗練された甘みを持つ味わいが、緊張していた彼の神経を優しく解きほぐしていく。
「素晴らしい香りですね。あなたがいつもより少しだけ念入りに茶器を準備していた理由が分かりました」
「お口に合いましたか? 王都にいた頃から、この茶葉の香りがとても好きで……たまには、こうしてゆっくり味わう時間も良いかと思いまして」
「ええ。とても美味しいです」
カエラムはカップを皿に戻し、レンズ越しに彼女の顔を真っ直ぐに見つめた。
先ほどの至近距離での動揺はすっかり鳴りを潜め、そこにはいつもの穏やかな包容力が戻っていた。
「私の知らないあなたの好きなものを、こうして共有できる時間は……とても贅沢で、良いものですね。また時間がある時に、一緒に飲みましょう」
その穏やかな声の響きに、コルネリアは深く安堵しながら静かに頷いた。
初夏の風が窓辺の木々を揺らし、木漏れ日が円卓の上で柔らかく形を変えていく。
視界が不鮮明な中だからこそ感じ取れた、互いの確かな熱。
その余韻を華やかな紅茶の香りに溶かしながら、二人の間の時間はこれまで以上に親密で、満ち足りた静けさの中をゆっくりと流れていった。
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