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39 長旅の前に、身体の芯から温まるお料理をどうぞ

 深い森の木々の隙間から、初夏の瑞々しい朝日が真っ直ぐに差し込む。

 過酷な出産の夜から数日が経過し、母子ともに長旅に耐えうるだけの体力を十分に回復させた――退院の朝であった。


 奥の部屋の寝台では、コルネリアが手縫いで仕立てた絹の産着に包まれ、新しい命が静かな寝息を立てていた。

 産着の胸元に施された三人のラットマンの刺繍に守られるようにして眠る赤ちゃんは、まだ視力の定まらない目を時折細く開き、未知の世界を確かめるように、驚くほど小さな指先で宙をゆっくりと掴む仕草を見せる。

 口元には種族の特徴である灰色の細い髭がわずかに生え揃っており、健やかな呼吸に合わせて微かに揺れている。


 母親であるキャロラインの匂いを感じ取っているのか、赤ちゃんが不意に、この世のすべての悲しみを浄化するような無垢で愛らしい微笑みを浮かべた。

 その奇跡のような光景を寝台の傍らで見守っていたカエラムとコルネリアは、声を出せばこの神聖な空気が壊れてしまうのではないかと恐れるように、ただ静かに、深い安堵と慈愛の入り混じった視線を交わし合った。


 ――やがて、旅立ちの身支度を整え始めたトロンとキャロラインのために、コルネリアは厨房に立ち、森から人間の街へ戻るための体力をつける最後のご馳走の仕上げに取り掛かっていた。


 本日の料理は、初夏の彩り野菜と若鶏の肉をふんだんに使った、濃厚なクリーム煮込みだ。

 主役となるのは、根本まで柔らかく甘みの詰まった旬のアスパラガスと、鮮やかな緑色をした瑞々しいエンドウ豆。

 そして、火を通すことで驚くほどの甘さを引き出される新玉ねぎである。


 コルネリアは一口大に切り分けた若鶏の肉を、臭みを消すための香草とともに軽く炒め、そこにたっぷりの初夏野菜を投入する。

 さらに、産後の弱った身体の滋養回復に絶大な効果をもたらす東方の薬草を隠し味として忍ばせ、砕いた数種類の木の実を加えて豊かなコクを生み出していく。


 最後に新鮮なミルクを加えてじっくりと煮立たせれば、野菜の自然な甘みと若鶏の旨味、そして木の実の香ばしさが一体となった――栄養満点のクリーム煮込みが完成した。


「さあ、お待たせいたしました。長旅の前に、身体の芯から温まるお料理をどうぞ」


 円卓に大皿が運ばれると、芳醇な香りが室内に広がり、トロンとキャロラインの顔に明るい笑みが浮かんだ。

 彼らは差し出された木の匙を手に取り、熱々のクリーム煮込みを口へと運ぶ。

 とろみのある汁が野菜の甘みとともに胃の腑へと落ちていき、疲労した身体の隅々にまで新しい活力を与えていくのが分かった。


「本当に美味しいです。コルネリアさんの作る料理を食べると、身体の奥底から力が湧いてくるようです」


「ええ。これなら、街までの道のりも赤ちゃんを抱いてしっかりと歩き通せます。何から何まで、本当にありがとうございます」


 トロンとキャロラインが深い感謝を口にするのを聞き、コルネリアは自身の取り分を口に運びながら、嬉しそうに微笑んだ。


「お二人のその元気なご様子を見ることができて、私の方こそ感謝の気持ちでいっぱいです。これからは、新しいご家族の三人で、力を合わせて生きていかれるのですね」


「はい。この子に恥じないよう、俺も父親として立派に働きます。人間たちからどれだけ石を投げられようと、もう絶対に俯いたりはしません」


 トロンの言葉には、かつてこの診療所に運び込まれてきた時に抱えていたような、種族としての劣等感や暗い絶望の影は微塵もなかった。

 己の腕の中に守るべき絶対的な存在を抱いた父親の、強く、揺るぎない覚悟の光が宿っていた。


 ――食事が終わり、いよいよ出発の時が訪れた。

 入り口の扉の前で、トロンは背負い袋の紐を強く握り締め、意を決したようにカエラムとコルネリアの正面へと向き直った。


 そして彼は、懐の奥深くから、古く清潔な麻布に何重にも包まれた小さな塊を取り出したのである。


「カエラム先生、コルネリアさん。これは、俺たち家族からのお礼の品です」


 トロンが震える手で麻布を解くと、そこには、初夏の朝の光を受けて眩いほどの輝きを放つ、親指ほどの大きさの美しい天然石が姿を現した。

 まるで夜空の星々をそのまま閉じ込めたかのように、深い藍色の結晶の中に無数の細かな金の粒子が散りばめられている。


「これは……星のかけらですか」


 カエラムが驚きの声を上げた。

 それは、人間の王都の市場においては、城が一つ買えるほどの天文学的な高値で取引される強大な魔力を秘めた幻の宝石だった。


「はい。俺たち獣人の間では、深い洞窟の奥底でごく稀に見つかるこの石を、家族の健康と安全を守る守護石として代々受け継ぐ風習があるのです。これは、俺の死んだ父親から託された、我が家の家宝です」


 トロンは星のかけらを両手で包み込むように持ち、真っ直ぐにカエラムを見つめた。


「俺たちには、高価な金貨も宝石もありません。ですが、妻と子供の命を救い、人間であるあなた方が俺たちを本物の家族として扱ってくれたことへの感謝を示すには、これをお渡しする以外にないのです。どうか、受け取ってください」


 そのあまりにも重く、切実な感謝の念に、カエラムは一度は断りの言葉を口にしかけた。

 彼にとって、医療の対価としてこれほどまでに希少な品を受け取ることは、本意ではなかったからだ。


 しかし、トロンの決して引くことのない真剣な瞳と、隣で深く頷くキャロラインの姿を見て、カエラムは丸メガネの奥の瞳を静かに伏せ、その石を両手でうやうやしく受け取った。


「……分かりました。あなた方のその尊いお心、確かに頂戴いたします。この美しい石は、我々が守るべきこの診療所の宝として、いつまでも大切に飾らせていただきます」


 カエラムは星のかけらを自らの胸元へと抱き寄せ、静かに言葉を続けた。


「ですが、トロンさん、キャロラインさん。私にとっての何よりの報酬は、あなた方が今日、この扉を笑顔でくぐり抜けていくことなのです。どうか、健やかに生きてください」


 カエラムのどこまでも誠実な医師としての言葉に、ラットマンの夫婦は再び大粒の涙を流し、何度も深く頭を下げた。


「さあ、道中に冷えないよう、赤ちゃんのための予備の布と、焼き菓子を包んでおきました。気をつけて帰ってくださいね」


 コルネリアが背負い袋の隙間に手荷物を詰め込み、赤ちゃんを抱くキャロラインの肩を優しく撫でた。

 重い木の扉が開かれ、初夏の眩しい光と、鳥たちの祝福するようなさえずりが診療所の中に流れ込んでくる。


 トロンが赤ちゃんを抱くキャロラインの腰をしっかりと支え、三人は太陽の光が降り注ぐ緑豊かな森へと、確かな足取りで歩み出した。

 カエラムとコルネリアは並んで扉の前に立ち、木々の向こう側に彼らの背中が完全に見えなくなるまで、いつまでも大きく手を振り続けていた。


 やがて、獣人の家族の姿が森の奥へと消え、診療所の周囲に再び穏やかな静寂が戻ってきた。

 患者がいなくなり、少しだけ広く、そして静かになってしまった空間。

 しかし、二人の心の中には、確かな喪失感よりも遥かに大きな、新しい命から与えられた温かな熱が満ち溢れていた。


「……行ってしまいましたね。少しだけ、寂しくなりますわ」


 コルネリアが空になった寝台の方へ視線を向け、名残惜しそうに呟く。

 カエラムは彼女の隣で、トロンから託された星のかけらを優しい手つきで撫でながら、未来へ向かって穏やかに微笑んだ。


「ええ。ですが、彼らは必ずまたここへやって来ますよ。次はきっと、あの赤ちゃんが自らの足で、元気に歩けるようになった頃にでも」


「ふふ、そうですね。その時を楽しみに、私たちもこの場所を守り続けていきましょう」


 差し込む朝の光に照らされながら、二人は言葉を交わし合う。


 命を迎え入れ、そして無事に送り出した辺境の診療所。

 種族を越えた絆の証である星のかけらに見守られながら、カエラムとコルネリアの二人が紡ぐ穏やかな日々は、初夏の眩しい森の景色とともに、どこまでも優しく――そして、満ち足りた時間の中へと続いていった。

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