36 私たちの、初めての晩酌に
初夏の太陽が西の山々の稜線に隠れ、森全体が徐々に深い藍色の帳に包まれ始める頃。
街での賑やかなお出かけを終えた二人は、両手いっぱいの荷物とともに、静寂に満ちた診療所へと帰還した。
硝子細工や赤ん坊のための柔らかい布、そして地下室で選び抜いたワインの瓶などを所定の位置へと丁寧に片付けた後。
一日の歩き疲れと初夏の熱気を流すため、彼らは交代で湯浴みを済ませた。
湯上がりのカエラムは、いつもの皺の多い白衣ではなく、柔らかな綿の清潔な部屋着に身を包んでいる。
コルネリアもまた、艶やかなホワイトブロンドの髪を緩くまとめ、湯気の名残を微かに纏いながらキッチンスペースへと向かった。
開け放たれた窓から入り込む涼やかな夜風が、火照った肌の熱を心地よく奪っていく。
昼間の興奮が静かに落ち着き、診療所の中は二人きりの親密な夜の時間へとゆっくりと移行しようとしていた。
本日の食卓の主役は、カエラムが街で選んだ美しい琥珀色をした甘口の白ワインである。
コルネリアはその芳醇な果実の香りに寄り添うような、初夏らしい数品の酒肴を用意することにした。
まずは、街の市場で仕入れたばかりの、瑞々しく太いアスパラガス。
根元の硬い部分を切り落とし、さっと熱湯にくぐらせて鮮やかな緑色を引き出す。
それを一口大に切り分け、先日タツィオから贈られた手製の燻製肉とボウルで合わせる。
味の決め手となるのは、東方の知恵から着想を得た特製の調味液である。
柑橘の爽やかな絞り汁と、細かく刻んだ数種類の香草、そして少量の塩と油をしっかりと混ぜ合わせる。
それをアスパラガスと燻製肉に回しかけて全体をよく和えれば、燻製の濃厚な塩気と野菜の甘みを、柑橘の鋭い酸味がさっぱりとまとめ上げる一品が完成する。
続いて、ジェドから譲り受けた小ぶりな新じゃがを皮ごと柔らかく茹で上げ、木の棒で滑らかになるまで丁寧に潰していく。
そこに、街で購入した塩気の少ない柔らかなチーズと少量の香辛料を練り込み、濃厚なディップを作り上げた。
昼間にクレープを食べた広場の近くで買った、硬い外皮を持つパンを薄く切り、かまどの余熱で軽く炙って水分を飛ばす。
大皿の上に彩り豊かな料理を並べると、静かな診療所の中に、食欲をそそる芳香が満ちていった。
「お待たせいたしました、カエラム先生。白ワインの風味に合わせた、初夏の酒肴です」
円卓に料理が運ばれると、カエラムは少しだけ緊張した面持ちで、コルネリアの前に置かれた二つの透明なグラスへ視線を向けた。
彼は細長いワインボトルの口元に金属の開栓器を当て、コルクを引き抜こうと力を込める。
しかし、外科の縫合では神業を見せる彼の手先も、酒瓶の開栓には全く慣れていないらしく、幾度か不格好に手元を滑らせていた。
コルネリアが微笑ましく見守る中、やがて低い摩擦音とともに、無事コルクが引き抜かれた。
瓶の中に閉じ込められていた芳醇な葡萄の甘い香りが、空気に触れて一気に広がる。
カエラムは慎重な手つきで、グラスの半分ほどの位置まで琥珀色の液体を注ぎ入れた。
「……それでは、今日という素晴らしい一日に」
「ええ。私たちの、初めての晩酌に」
二つのグラスが微かに触れ合い、透明で涼やかな音が室内に響いた。
コルネリアがグラスの縁に唇を当て、冷やされた液体を喉の奥へと流し込む。
果実の凝縮された強い甘みと、その奥に潜む僅かな酸味が舌の上で複雑に絡み合い、胃の腑へと心地よい熱を落としていく。
「美味しい……お酒というものは、これほどまでに豊かな味がするものなのですね」
「あなたが気に入ってくれて良かったです。とても飲みやすいですが、度数は決して低くありませんから、ご自身の身体に合わせてゆっくりと楽しんでくださいね」
カエラムもまたグラスを傾け、続いてコルネリアの作ったアスパラガスと燻製肉の和え物を口へ運んだ。
咀嚼した瞬間に溢れ出す燻製肉の強い旨味を、柑橘の爽やかな酸味が洗い流し、そこにワインの甘みが絶妙な調和をもたらす。
炙ったパンに新じゃがの濃厚なチーズディップを乗せて食べれば、素材の素朴な甘さがアルコールの刺激を優しく包み込んでいった。
「見事な味わいです。上質なワインと、あなたの心のこもった手料理。これほど贅沢な夜を過ごすのは、私の人生において初めてのことですよ」
カエラムは心からの充足感を口にし、何度も頷きながらグラスを進めた。
夜が更けるにつれ、アルコールの熱が二人の身体をゆっくりと巡り、普段は理性の奥底に仕舞い込んでいる感情の蓋を少しずつ緩めていく。
話題は、街の織物商で選んだトロンとキャロラインの赤ん坊への贈り物から、これからの森での生活のことへと移り変わっていた。
「キャロラインさんの出産予定日はもうすぐですね。新しい命が誕生する瞬間は、いつ立ち会っても胸が熱くなります。あの子たちが健康に育つためにも、私たちはこの診療所をしっかりと守っていかなくてはなりません」
「はい。私ができることは何でもいたしますわ。先生が医療に専念できるように、生活のすべてを支えてみせますから」
コルネリアが頼もしく微笑むと、カエラムはアンバーの瞳を和らげ、少しだけ手元の空になったグラスを指の腹でなぞった。
「……コルネリアさん。今日、街へ出た時の私の格好は……おかしくはなかったでしょうか?」
不意に、カエラムが不安を口にした。
「私は、あなたのような高貴で美しい方と一緒に歩くには、あまりにも不格好で、洗練されていない男です。あなたに恥をかかせてしまわなかったかと、帰り道からずっと考えておりました」
いつもは患者の前で揺るぎない自信を見せる彼の――思いがけない弱音。
アルコールのせいか、少しだけ潤んだように見える彼の瞳を見つめ、コルネリアは愛おしさに胸の奥が甘く締め付けられるのを感じた。
彼女は円卓の上に置かれた彼の手のすぐそばへと、自らの指先をゆっくりと寄せる。
直接触れることはせずとも、その確かな体温がはっきりと伝わる距離。
「先生。あなたは今日、誰よりも頼もしく、私を安全に守ってくださいました」
ペリドットの瞳が、真っ直ぐにカエラムを捉える。
「あの一張羅のお姿も、不器用ながらも差し出してくださった右腕も。私にとっては、王都のどの貴族よりも……世界で一番、素敵な紳士でいらっしゃいましたわ」
真っ直ぐで嘘偽りのない彼女の言葉に、カエラムの顔が一気に熱を帯びた。
彼は限界まで赤くなった顔を誤魔化すように、グラスに残っていた最後の一口を一気に飲み干した。
「……あなたには、本当に敵いません。これ以上酔いが回る前に、降参することにします」
照れくさそうに――しかし、心の底からの安堵と喜びに満ちた笑みを浮かべる彼を見て、コルネリアもまた、花が綻ぶような微笑みを返した。
「また近いうちに、こうして二人でグラスを傾けましょうか。次は、庭の木々に花が咲く頃にでも」
「ええ。とても楽しみにしていますわ」
窓の外では、森の虫たちが穏やかな合唱を奏でている。
琥珀色の魔法が解きほぐした二人の心は、これまでにないほど自然に寄り添い合い、診療所を満たす空気は心地よい温もりに包まれたまま、ゆっくりと夜の底へと更けていった。




