37 私たちがついていますからね
日中に降り注いだ初夏の雨がすっかりと上がり、分厚い雲の切れ間から透き通るような月明かりが森全体を静かに照らし出していた。
雨水をたっぷりと吸い込んだ土と若葉からは、むせ返るほどに濃密な生命の香りが立ち昇り、夜の冷気に溶け込んでいく。
森の住人たちが深い眠りにつく真夜中、診療所の周囲は完全な静寂に包まれていた。
その静寂を唐突に切り裂いたのは、診療所の入り口にある重い木の扉が外側から切羽詰まった様子で何度も激しく打ち据えられる衝撃だった。
休息を取っていたカエラムとコルネリアは、その尋常ではないただならぬ気配に瞬時に目を覚ました。
二人はすぐさま身支度を整え、薄暗い廊下を小走りで抜け、入り口のかんぬきを外して扉を大きく開け放つ。
月明かりに照らし出されて立っていたのは、見知った二人のラットマンだった。
小柄な妻であるキャロラインを、夫のトロンが必死の形相で抱きかかえている。
キャロラインの膨らんだ腹部は今にも張り裂けそうなほどに硬くこわばり、彼女は顔の筋肉を限界まで歪めて波のように押し寄せる強烈な痛みに耐えていた。
「カエラム先生! コルネリアさん! 夜中に本当に申し訳ない、でも、妻の陣痛が……!」
トロンの声は極度の焦燥と恐怖で細かく震え、彼の額からはとめどなく汗が流れ落ちている。
「落ち着いてください、トロンさん。予定通りです。さあ、すぐに奥の部屋へ」
カエラムは手早くトロンを誘導し、コルネリアもまた灯りを手に持って彼らの足元を明るく照らし出した。
案内された奥の部屋は、初夏を迎える前から二人が万全の態勢で準備を整えていた、清潔な出産用の空間である。
寝台には肌触りの良い上質な布が幾重にも敷き詰められ、隣のかまどにはいつでも使用できるように大量の湯が沸かされている。
部屋の隅では痛みを和らげ、精神を落ち着かせる効果のある香草が静かに燻され、心地よい香りを漂わせていた。
トロンの手によって慎重に寝台へと横たえられたキャロラインは、身をよじって痛みに耐えながら、短く浅い呼吸を繰り返している。
「キャロラインさん、私たちがついていますからね。もう何も心配はいりませんよ」
コルネリアはすぐさま寝台の傍らに寄り添い、清潔な手拭いで彼女の額に浮かぶ大量の汗を優しく拭い取った。
カエラムはキャロラインの手首に指を当てて脈拍の速さを確かめ、同時に大きく膨らんだ腹部へと静かに手を触れ、胎児の正確な位置と陣痛の間隔を読み取っていく。
「赤ちゃんは完全に正常な位置に下がってきています。陣痛の間隔も着実に狭まっており、お産は順調に進んでいます。キャロラインさん、今はまだ無理に力を込めず、痛みの波が引いている間はできる限り身体の力を抜いて休んでください」
カエラムの落ち着いた声が、極度の緊張状態にあった室内の空気を少しずつ鎮めていく。
――しかし、痛みの波が再び彼女の身体を襲うたび、キャロラインはシーツを強く握りしめ、声にならない苦鳴を漏らした。
コルネリアはそのたびに彼女の腰のあたりに両手を当て、痛みを少しでも和らげるように絶妙な力加減でさすり続ける。
その光景を寝台の脇で見つめていたトロンは、愛する妻がこれほどの苦痛に苛まれているにもかかわらず、自分には痛みを代わってやることすらできないという強烈な無力感に苛まれていた。
人間の街から迫害され、理不尽な暴力に晒されてきた時でさえ、彼はこれほどまでに己の非力さを呪ったことはない。
彼は部屋の隅で歩き回り、自らの頭を抱え、今にもパニックに陥りそうなほどに荒い呼吸を繰り返している。
その様子を視界の端に捉えたカエラムは、キャロラインへの処置を一旦コルネリアに任せ、トロンの目の前へと静かに歩み寄った。
「トロンさん」
カエラムは彼と真っ直ぐに視線を合わせ、大きな両手で彼の震える肩をしっかりと掴んだ。
「俺は……俺はなんて無力なんだ。キャロラインがあんなに苦しんでいるのに、俺には何もしてやれない……!」
「いいえ。あなたにしかできない、最も重要な役割があります」
カエラムの毅然とした言葉に、トロンは涙で潤んだ目をわずかに見開いた。
「彼女は今、新しい命をこの世界に生み出すために、たった一人で想像を絶する恐怖と痛みと闘っています。身体の処置は私たちがすべて請け負います。ですからあなたは、彼女のすぐそばに行き、その両手で彼女の手を力強く握りしめてください。そして、彼女が絶対に一人ではないのだと、あなたが共に闘っているのだと、安心させてあげるのです。それが、夫であるあなたの立派な仕事です」
カエラムの明確な指示は、暗闇の中で迷子になっていたトロンの心に一条の光を与えた。
トロンは幾度か力強く頷き、自らの顔を両手で激しく擦って覚悟を決めると、キャロラインの寝台のすぐ横へと膝をついた。
彼は妻の汗ばんだ小さな手を自らの両手でしっかりと包み込み、彼女の耳元で何度も、何度も励ましの言葉を囁き続けた。
「キャロライン、俺がいる。ずっとそばにいるからな。もう少しの辛抱だ、俺たちの子供にもうすぐ会えるんだ」
夫の温かい手と声に包まれ、キャロラインの強張っていた顔の筋肉がわずかに緩むのが分かった。
精神的な支えを得たことで彼女の呼吸のリズムが整い、押し寄せる痛みの波を乗り越えるための確かな力が生み出されていく。
カエラムとコルネリアの間に、不要な言葉は一切交わされなかった。
カエラムが新しい布を求めれば、コルネリアが完璧な温度の湯で絞ったものを即座に手渡し、彼女が長時間の介抱で体勢を崩しかければ、カエラムがそっと彼女の肩を支えて位置を入れ替わる。
視線の動きとわずかな呼吸の気配だけで互いの意図を完全に読み取り、無駄な動作が一つも存在しない、芸術的なまでの連携。
それは、この一年という長い時間の中で共にいくつもの命と向き合い、互いへの深い信頼を積み重ねてきた二人にしか成し得ない、極めて強固な関係性の結晶だった。
獣人として人間社会から弾き出されてきた彼らが、人間の医師と人間の令嬢によって、これ以上ないほどの誠実な医療と献身を受けている。
その事実は種族という壁を完全に越え、純粋に新しい命を守り抜くというひとつの祈りとなって、小さな部屋の中を満たしていた。
痛みの波は徐々に間隔を狭め、出産が最終段階へと向かっていることを告げている。
香草の香りが漂う室内で、絶え間ない緊張と肉体的な疲労が四人の体力を削っていくが、誰一人として諦めたり集中を途切らせたりする者はいなかった。
ふと、窓の隙間から、森の木々を揺らす冷たい早朝の風が流れ込んできた。
長く過酷な真夜中が終わりを告げようとしている。
東の空がゆっくりと淡い群青色へと変わり始め、見守るように瞬いていた星々がその光を落としていく。
夜明けの光が森を優しく照らし始めるその瞬間に向けて、新しい命の誕生をかけた最後の闘いがいよいよ始まろうとしていた。




