35 私にとって一生の宝物になるような、素晴らしい一日でした
長く降り続いていた雨が嘘のように上がり、森の木々が透き通るような初夏の青空に向かって一斉に背伸びをするような快晴の朝。
雨水をたっぷりと吸い込んだ土からは生命力に満ちた強い香りが立ち昇り、葉の表面に残った雫が太陽の光を反射して、森全体が宝石箱のようにきらきらと眩しい輝きを放っていた。
――本日は、以前から予定していたユーズヴェンドへの買い出しの日である。
診療所の一角でコルネリアは鏡に向かい、ほんの少しだけ特別な身支度を整えていた。
彼女が伯爵令嬢であった頃から唯一持ち出せた、上質な絹で織られた緑色のリボン。
それを丁寧に髪へ結び、森の生活で少しだけ色の褪せたドレスの襟元を、しわ一つ残さないように綺麗に整える。
以前、診療所の新しい寝台を買いにユーズヴェンドへ降りた時とは、自身の胸の中で弾む感情の色が全く違っていた。
今日の外出は、お互いの気持ちを不器用ながらも確かめ合った後での――初めての二人きりのお出かけなのである。
一方のカエラムも、部屋の奥で格闘を続けていた。
彼は普段のくしゃくしゃな白衣を脱ぎ捨て、かつて王都からこの森へ逃れてきた時に着ていた、彼にとって唯一の一張羅である仕立ての良い紺色の外套と清潔な白いシャツに袖を通していた。
慣れない手つきで顎の無精髭を綺麗に剃り落とすと、隠れていた端正な顔立ちが露わになる。
――しかし、どれほど水で濡らして櫛を通そうとも、彼の髪だけは頑なに寝癖の形を保ち、相変わらず四方八方へと元気よく跳ねていた。
「先生、準備はよろしいですか――まあ」
部屋から出てきたカエラムを見て、コルネリアは驚きと感嘆の混じった声を漏らした。
髭を整え、上質な衣服を身に纏った彼の姿はいつもの冴えない村医者ではなく、王宮の書物庫にいる高貴な学者のような知的な魅力に溢れていたからだ。
カエラムもまた、艶やかなリボンで髪を結んだコルネリアの美しさに見惚れ、数秒ほど完全に言葉を失って立ち尽くしていた。
「……コルネリアさん。そのリボン、とてもよくお似合いです。緑豊かな今日の森の景色よりも、ずっと美しい」
「ありがとうございます。先生も、見違えるほど素敵ですわ」
互いに褒め合い、顔を赤らめながら診療所の扉に鍵をかけると、二人は連れ立って初夏の陽光が降り注ぐ山道を下り始めた。
森を抜け、活気に満ちたユーズヴェンドの入り口へと辿り着いた時のこと――。
雨上がりで普段以上に混雑し、行き交う人々の波を前にして、カエラムが唐突に足を止めた。
彼はまるで難解な医学書を読み解く時のような真剣な面持ちで、自らの右腕を軽く曲げてコルネリアの目の前へと差し出したのである。
「先生……?」
「……ユーズヴェンドは、いつもよりずっと人が多いですから。誰かにぶつかって、またあなたの不運な性質が引き起こされないとも限りません」
カエラムは丸メガネの奥で視線を泳がせながら、早口で言葉を紡いだ。
「ですから、その。安全のために……よろしければ、私の腕を」
それは、彼女をエスコートしたいという純粋な願望を――不運対策というもっともらしい理由で包み込んだ、彼なりの不器用すぎる提案だった。
その必死な姿がたまらなく愛おしく、コルネリアは弾けるような微笑みを浮かべた。
「はい。それでは、安全のために、先生の腕をお借りいたしますね」
コルネリアは両手を、彼の差し出された右腕へとそっと添えた。
衣服越しに伝わってくる彼の体温と、鍛えられた腕の筋肉の頼もしい硬さ。
カエラムの肩が微かに跳ねたのが分かったが、彼は決して腕を引こうとはせず、照れくさそうに口元を綻ばせて歩き始めた。
腕を組んだまま、二人は街の市場をゆっくりと巡っていく。
まずは硝子細工の工房へ立ち寄り、先日割れてしまった滴下器や、細かな調合に使うための新しい小瓶を吟味する。
光にかざして硝子の透明度や厚みを確認するカエラムの真剣な眼差し。
隣でその横顔を見上げるコルネリアは、改めて彼に対する深い尊敬の念を抱いていた。
仕事道具を揃えた後は、出産予定日が迫っている獣人の夫婦――トロンとキャロラインのための買い出しである。
二人は織物商の店へ入り、産まれてくる赤ん坊の柔らかい肌を包み込むための、上質で刺激の少ない白い布地を丁寧に選んだ。
さらに、乾物屋では産後のキャロラインの滋養回復に効くという、東方の国から輸入された珍しい干し木の実や、栄養価の高い乾物を大量に購入した。
愛する友人たちの新しい命を祝い、彼らの幸せを願って二人で贈り物を選ぶ時間。
それは、まるで自分たち自身の未来を想像するような――どこまでも甘く温かいひとときであった。
必要な買い物をすべて終え、市場の裏通りへと歩みを進めた時。
ふわりと、小麦が焼ける香ばしい匂いと、果実の甘い香りが風に乗って漂ってきた。
「これは……最近、王都から伝わってきたというクレープという菓子の屋台ですね。鉄板で薄く焼いた生地に、様々な具材を包むのだとか」
カエラムの言葉に、コルネリアは興味津々に屋台の調理風景を見つめた。
彼女の視線に気づいたカエラムは、「少し休憩にしましょうか」と提案してくれた。
二人は屋台の前に並び、それぞれ好みのものを受け取った。
コルネリアの手には薄く焼かれた熱々の生地の中に、冷たくて甘いクリームと、初夏の瑞々しい果実がたっぷりと包み込まれた、色鮮やかなクレープ。
一方、甘いものがそれほど得意ではないカエラムが選んだのは、塩気のあるハムと新鮮なレタスを挟み込み、卵と油から作られた酸味のある東方伝来の調味料――マヨネーズをたっぷりと絞った、食事のようなクレープであった。
街角の少し静かな広場の長椅子に腰掛け、二人は同時にクレープを口へと運んだ。
果実の甘酸っぱさと濃厚なクリームの調和に、コルネリアは心から幸せそうな笑みをこぼす。
「ふふ、とても美味しいです。生地がふんわりとしていて、果実の甘みが口いっぱいに広がりますわ」
隣を見ると、カエラムもまたハムとレタスの軽快な食感に満足そうに頷いていた。
しかし、不器用な彼は大きな口を開けて生地にかぶりついたせいで、口の端にマヨネーズの白いソースをべったりとつけてしまっていたのである。
「あ……先生。口元に、ソースがついてしまっていますよ」
「え? ああ、申し訳ない。どこでしょうか」
カエラムが慌てて手の甲で拭おうとするのを見て、コルネリアは彼を制するように静かに手を伸ばした。
そして、自らの清潔なハンカチを取り出すと、彼の顔へとゆっくりと近づき、口の端についたソースを丁寧に拭き取ったのである。
顔と顔が触れ合いそうなほどの至近距離。
アンバーの瞳とペリドットの瞳が、至近距離で交差する。
コルネリアから漂う甘い花の香りと、彼女の指先の柔らかさに、カエラムは呼吸の仕方を忘れたように完全に硬直してしまった。
一瞬にして彼の頬に見事な朱色が広がっていく。
「……はい、綺麗になりましたわ」
コルネリアがいたずらっぽく微笑むと、カエラムはもはや言葉を発することもできず、ただ限界まで赤くなった顔を逸らして、残りのクレープを無言のまま口に押し込むことしかできなかった。
その初々しくも甘酸っぱい反応が、コルネリアにとってはどんな甘いお菓子よりも、胸を満たす最高のご馳走だった。
買い物の最後は、薄暗く涼しい酒屋の地下室であった。
無数の木樽が並ぶ中から、カエラムは迷うことなく、ある一本の美しい細長い瓶を選び取った。
「これは、果実の甘みが非常に強く、お酒に不慣れな方でも飲みやすいと評判の白ワインです」
彼はその琥珀色の液体が入った瓶を愛おしそうに見つめ、コルネリアへと振り返った。
「以前から、ずっと考えていたのです。いつか、あなたと一緒にこの酒を飲みたいと」
その真っ直ぐな言葉に、コルネリアは胸の奥が熱くなるのを感じ、喜びを噛み締めるように静かに頷いた。
すべての買い物を終え、重くなった荷物をカエラムが両手に抱え、帰り道を歩く頃には西の空が燃えるような茜色に染まり始めていた。
ユーズヴェンドの喧騒を背にして森へと続く静かな山道。
カエラムは当然のように、荷物を持っていない方の腕を曲げ、コルネリアへと差し出した。
彼女は迷うことなくその腕に両手を添え、自身の体重を少しだけ預けるようにして身を寄せた。
「……先生。今日は、私にとって一生の宝物になるような、素晴らしい一日でした」
夕日に照らされたコルネリアが、心からの幸福に満ちた声で囁く。
カエラムは足を止めることなく、腕に添えられた彼女の手のひらの熱を感じながら、どこまでも優しい声で応えた。
「私もです。また、二人で出かけましょう。次は、秋の収穫祭の頃にでも」
長く伸びた二人の影が、オレンジ色の夕焼けに染まる土の道の上でひとつの大きな塊となって揺れている。
これから始まる、診療所の静寂の中で二人きりでグラスを傾ける時間。
その特別で甘やかな夜の訪れを心待ちにしながら、初夏の陽だまりのような温かな幸福感に包まれた二人の歩みは、いつまでも穏やかに森の奥へと続いていった。




