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34 先生、お酒を嗜まれるのですか?

 空を分厚い雲が覆い尽くし、森全体が絶え間なく降り続く雨の帳に包まれる季節がやってきた。

 初夏特有の生ぬるい空気と、大地から立ち昇る強い湿気が入り混じり、診療所の中はまるで水底にいるかのような重くしっとりとした空気に満ちている。


 そんな雨季の朝は、カエラムにとって大いなる受難の時間の始まりでもあった。

 空気中の水分をたっぷりと吸い込んだ彼の翡翠色の髪は、普段の寝癖とは比較にならないほど芸術的なうねりを生み出し、四方八方へと自由奔放に跳ね上がっている。


「先生、今日は一段と大変なことになっておりますわね」


 丸メガネの奥で困り果てているカエラムを見て、コルネリアはくすりと上品な笑みをこぼし、木製の櫛を手に取って彼の背後へと回った。

 彼女の細い指先が、カエラムの髪の絡まりを丁寧に解きほぐしていく。

 窓の外の薄暗い雨景色とは対照的に、二人の間に流れる時間はどこまでも穏やかで甘やかな熱を帯びていた。


 髪を整え終え、二人で温かい薬草茶を飲んでいた時のこと――。

 診療所の分厚い木の扉が、控えめな力で叩かれた。

 カエラムが扉を開けると、そこには雨避けの分厚い外套をすっぽりと被った老人が立っていた。


 昨年の酷暑の中、亡き妻のために花を摘もうとして熱中症で倒れてしまった老人――ジェドである。


「ジェドさん。このような雨の中、どうされたのですか?」


「カエラム先生、コルネリアさん。雨の中、泥だらけの足で上がり込んでしまい本当に申し訳ありません。実は、この数日のひどい湿気と冷えのせいで、昔の古傷がひどく痛み出しまして……」


 ジェドは申し訳なさそうに顔をしかめながら、自身の右膝と腰のあたりを擦った。

 ――しかし、その瞳には、かつてこの診療所に運び込まれてきた時に宿っていたような、自身の存在価値を否定する暗い絶望の色は一切なかった。

 痛みの中にも、確かな生きる気力が満ちている。


 カエラムはすぐさま彼を寝台へと案内し、患部の状態を丁寧に確認した。

 雨季の冷えによる神経の圧迫と、血流の悪化。

 カエラムは手際よく薬棚から生姜に似た強い発熱作用を持つ根菜と薬草を取り出し、すり鉢で細かく練り合わせていく。


 完成した薬効成分の強い軟膏を布に厚く塗り広げ、ジェドの痛む関節へと貼り付けた。

 じわじわと患部の奥深くまで浸透していく温かい刺激に、ジェドは安堵の表情を浮かべて大きく肩の力を抜いた。


「ああ、芯から温まっていきます……本当に、お二人には何から何まで助けられてばかりです」


 ジェドは穏やかな笑みを浮かべ、少しだけ照れくさそうに言葉を続けた。


「あの夏の日、私はもう誰の役にも立たない老いぼれだと絶望しておりました。ですが……お二人のお言葉に救われ、今は庭の小さな畑で土を弄るのが、日々の何よりの楽しみになっております。私のような者でも、種を撒き、水をやれば、植物は立派に育ってくれる。それが今は、嬉しくてたまらないのです」


 前を向いて生きるジェドの言葉に、コルネリアの胸の奥がじんわりと温かくなる。

 彼に温かい白湯を飲ませてあげようと、コルネリアが水差しを取るために数歩後ろへ下がった――その瞬間。

 彼女の生来の不運体質が、思いがけない形で発動したのである。


 本当に、ほんのわずかな不注意だった。

 彼女のドレスの裾が、床板の僅かなささくれに奇跡的な確率で引っかかり、足元のバランスが完全に崩れてしまったのだ。


 よろめいた彼女の腰が、薬瓶が並ぶ木製の机の角に強くぶつかる。

 その衝撃で、机の端に置かれていた細かな外科手術や薬の調合に欠かせない――極めて精密な硝子製の滴下器が転がり落ちた。

 硝子の砕け散る鋭い音が、静かな診療所の室内に響き渡る。


「っ……も、申し訳ございません! 先生の、大切な仕事道具を……!」


 自らの不運と不注意を呪い、コルネリアは血の気を引かせて床に散らばった硝子の破片を見つめた。

 しかし、カエラムは慌てる様子もなく、すぐさま彼女の手首を掴んで破片から遠ざけた。


「怪我はありませんか? コルネリアさん。破片には触れないでください」


 自身の大切な道具が壊れたことなど気にも留めず、真っ先に彼女の身を案じるカエラム。

 彼に怪我がないことを確認されると、コルネリアは情けなさにペリドットの瞳を潤ませた。


「怪我はありませんが……本当に、ごめんなさい。すぐに片付けます」


 深くうつむく彼女を見て、カエラムは丸メガネの奥のアンバーの瞳を和らげ、どこまでも優しい微笑みを浮かべた。


「気になさらないでください。あの硝子の滴下器は、長年の使用でもう目盛りがすっかり削れて読めなくなっていたのです。近々、新しいものを探しに街の市場へ買い出しに行かなければと考えていたところでしたから、ちょうど良いきっかけになりました」


 彼は言葉を区切り、ほんの少しだけ彼女の手首を握る力を強めた。


「……一人で行くのは心細いですし。もしよろしければ、次によく晴れた日、一緒に街まで買い出しに付き合っていただけませんか?」


 それは、彼女の失敗を責めるどころか、二人で出かけるための前向きな約束へと変えてしまう彼の誠実な優しさだった。

 コルネリアは胸の奥をぎゅっと掴まれたような愛おしさを感じながら、安堵の涙を拭って何度も頷いた。


 処置を終え、痛みがすっかり引いたジェドが帰り支度を整えた時のこと。

 彼は外套の下から、大切そうに抱えていた麻袋を取り出し、机の上へと置いた。


「これは、私が庭の畑で手塩にかけて育て、今朝初めて収穫したものです。形は不格好ですが……お二人に食べていただきたくて、持参いたしました。どうか、受け取ってください」


 麻袋の中から顔を出したのは、雨の水分をたっぷりと吸い込んだ瑞々しい春キャベツと、土の香りを纏った小ぶりな新じゃがだった。

 ジェドの再生の証拠とも言える、生命力に満ちた初夏の贈り物。

 二人はそれを何よりも尊い宝物のように受け取り、深い感謝とともに彼を見送った。


 ――その日の夕食の支度。

 コルネリアは、ジェドからいただいたばかりの野菜と、以前タツィオからもらって大切に保管していた手製の燻製肉を使って腕を振るうことにした。


 彼女は春キャベツを丁寧に細かく刻み、そこに少量の塩と、東方の知恵である酢を加えてしっかりと揉み込んでいく。

 これは、本来であれば時間をかけて発酵させる東方の保存食――ザワークラウトを、手早く再現した特製の酢漬けであった。


 さらに、皮の薄い新じゃがを丸ごと柔らかく茹で上げ、その横に、香ばしく炙った厚切りの燻製肉と、酸味を利かせた春キャベツの酢漬けをたっぷりと添えていく。

 大皿の上に、初夏の恵みが鮮やかに並んだ、栄養満点の一皿が完成した。


「さあ、カエラム先生。ジェドさんの初収穫のお野菜を使った、本日の特別料理です」


 円卓に向かい合って座り、カエラムは早速、燻製肉と春キャベツを一緒に口へと運んだ。

 強い塩気とスモーキーな香りが特徴の燻製肉の脂を、酢で揉み込まれた春キャベツの鋭い酸味と爽やかな歯ごたえが見事に中和し、信じられないほどの調和を生み出している。

 さらに、新じゃがのホクホクとした自然な甘みが、口の中の味わいをどこまでも優しくまとめ上げていた。


「……素晴らしい美味しさです。この見事な酸味と燻製の深い香りを味わっていると……」


 カエラムは咀嚼を終え、ふと言葉を漏らした。


「よく冷えた、上質なワインが欲しくなりますね」


 その呟きを聞いて、コルネリアは驚いたようにペリドットの瞳を丸くした。


「先生、お酒を嗜まれるのですか?」


 カエラムは少しだけ目を瞬かせ、やがて照れ隠しのように首の後ろを掻いた。


「ええ、まあ……たまに、ほんの少し嗜む程度には。最近はずっと遠ざかっておりましたが」


 彼は机の上で組んでいた指を少しだけ解き、真っ直ぐにコルネリアを見つめた。


「……今度の街への買い出しの時、一緒に一本、ワインを選んできましょうか。あなたが無理なく美味しく飲めるような、甘口のものを」


 二人きりで出かける約束。

 そして、夜の静寂の中で一緒にお酒を嗜むという、これまでよりもさらに踏み込んだ大人の約束。

 その言葉の意味を理解し、コルネリアの白い頬が一瞬にして見事な朱色へと染まり上がった。


「……はい。とても、楽しみにしておりますわ」


 絶え間なく屋根を打つ初夏の雨音が、まるで外界からこの空間だけを切り取って守ってくれているように優しく響き続けている。


 失敗から生まれた新しい約束と、ジェドの思いが詰まった瑞々しい野菜の味わい。

 これからの日々に待ち受ける楽しみを共有しながら、二人の食卓は、雨の日の湿気すらも忘れさせるほどに温かさに包まれていた。

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