33 また私の不運がご迷惑を……!
春も終わりに近づき、森が一年で最も鮮やかな深緑に包まれる季節。
木々の葉は太陽の光をたっぷりと吸収して厚みを増し、森全体が生命の歓喜に満ちたむせ返るような青葉の香りを放っている。
雪解け水で潤っていた大地には柔らかな下草が絨毯のように広がり、木漏れ日が落とす光と影の模様が、風に揺れるたびに万華鏡のように形を変えていた。
――本日は、これから本格的な夏を迎える前に、森の奥深くへ特定の薬草を採取しに行く日だった。
朝の柔らかな光が差し込む診療所の中で、カエラムは外出の準備を整えようと奮闘していた。
しかし、生来の不器用さはそう簡単に直るものではない。
採取した薬草を入れるための大きな籠を背負おうとするものの、革の肩紐が複雑に絡まり合い解けなくなってしまっている。
さらには、飲料水を入れた木製の水筒の蓋を斜めに閉めてしまい、あわや中身を床にぶち撒けそうになって一人で密かに焦燥していた。
「カエラム先生。そちらは、私にお任せくださいませ」
見かねたコルネリアが、くすりと楽しげな笑みをこぼしながら彼のもとへ歩み寄った。
彼女は絡まった革紐を細く長い指先で解きほぐし、カエラムの広い背中へとぴったりと合わせて長さを調整していく。
水筒の蓋も一度外して真っ直ぐに締め直し、彼の腰の帯へしっかりと固定した。
ほんの少し前であれば、これほど至近距離で世話を焼かれることに、カエラムは年上の男としての気恥ずかしさを感じて身を引いていたかもしれない。
しかし、あの若き狩人からの求婚騒動を経て、お互いの胸の奥にある想いを静かに確かめ合った今――。
二人の間に漂う空気は、以前よりも決定的に甘く、そして心地よい熱を帯びていた。
カエラムは自身の背後で立ち働くコルネリアの気配を避けようとはせず、ただひたすらに目尻を下げ、その温かな献身を幸福感とともに受け入れている。
「ありがとうございます、コルネリアさん。相変わらず、私はこういう細かな作業が絶望的に苦手なようです」
「ふふ、先生には高度な医療技術がありますから、これくらいの不器用さは私がすべて補ってみせますわ」
コルネリアは誇らしげに微笑むと、今度はキッチンスペースへと向かった。
本日の薬草採取は広範囲を歩き回るため、森の中での昼食が必要となる。
彼女は籠の中から、先日タツィオが持ち込んだ立派な燻製肉の塊を取り出した。
さらに、数日前に街から来た患者がお礼として置いていった、外皮が非常に硬く焼き上げられた細長いパンをまな板の上に乗せる。
小刀を使ってパンに深い切れ込みを入れると、薄く切り分けた燻製肉をかまどの火で軽く炙っていく。
肉の表面から上質な脂が溶け出し、香木のスモーキーな香りが室内に立ち込めた。
パンの切れ込みに、森で採れた瑞々しい緑の葉野菜と、鮮やかな赤い色をしたトマトをたっぷりと挟み込み、その中央に炙りたての燻製肉を並べていく。
あっという間に、見た目にも美しい燻製肉と彩り野菜のサンドイッチが完成した。
「さあ、お弁当の準備も完璧です。出発いたしましょう」
コルネリアが紙で包んだサンドイッチを自らの鞄に収めると、二人は並んで診療所の扉を開け、初夏の気配が混じる森へと足を踏み出した。
木漏れ日が降り注ぐ獣道を、二人はゆっくりとした歩幅で進んでいく。
並んで歩く道中、足元のわずかな段差や傾斜によって、二人の肩や腕が時折微かに触れ合う。
衣服越しに伝わってくるその微かな摩擦と体温に、二人はその都度、鼓動が不規則なリズムを刻むのを感じていた。
以前のカエラムであれば、保護者としての理性を保つために、慌てて歩幅を変えて不自然な距離を取っていたことだろう。
――しかし今の彼は、頬をほんのりと赤く染めながらも、決して彼女から離れようとはせず、その温もりを確かな喜びとして噛み締めている。
森の奥で目当ての薬草を順調に採取し、太陽が真上から森を照らしつける時刻になった頃。
二人は少し開けた日当たりの良い場所を見つけ、苔生した倒木の上に並んで腰を下ろした。
コルネリアが紙を開くと、燻製肉の香ばしい匂いがふわりと広がり、カエラムの空腹を心地よく刺激する。
彼が手渡されたサンドイッチを口に運ぶと、硬いパンの外皮が心地よい抵抗感を示し、その直後に内側の柔らかな生地の甘みが広がった。
噛み締めるほどに溢れ出す燻製肉の濃厚な旨味と塩気。
それを、新鮮な野菜の瑞々しさがさっぱりと中和し、見事な調和を生み出している。
「……とても美味しいです。硬いパンと燻製肉が、これほどまでに相性が良いとは思いませんでした」
「良かったです。森の中でいただくと、なんだか特別な味がいたしますね」
並んでサンドイッチを頬張りながら、二人は柔らかな笑みを交わし合う。
高級な食材や洗練されたソースなど存在しない。
しかし、隣に座る互いの存在と、この甘やかな空気感こそが、どんな料理にも勝る最高の隠し味となっていた。
昼食を終え、再び薬草を探して斜面を歩き始めた時のこと。
コルネリアの不運体質が、このタイミングで唐突に牙を剥いた。
先ほどまで何事もなかったはずの平坦な場所で、彼女の革靴の紐が奇跡的な確率でほどけ、自らの足に絡みつく。
さらに、落ち葉の下に隠れていた不自然に突き出た木の根に、つま先を見事に捕らえられてしまった。
重力に抗う術を失い、彼女の身体がバランスを崩して大きく斜面の下へと傾いていく――。
「きゃっ……!」
短い悲鳴とともに視界が反転しかけたその瞬間――背後から力強い腕が伸びてきた。
カエラムが彼女の腰をしっかりと抱きとめ、自らの胸板へと引き寄せたのである。
二人の身体が密着し、コルネリアの背中にカエラムの頼もしい胸の鼓動がダイレクトに伝わる。
間一髪で転倒を免れたものの、あまりの至近距離に、森の静寂が二人の激しい心音によって完全に塗り替えられてしまった。
「危なかった……お怪我はありませんか、コルネリアさん」
カエラムの声が、耳のすぐそばで低く響く。
コルネリアは顔を真っ赤に染め上げながら、がばっと彼の腕から離れ、姿勢を正した。
「も、申し訳ございません。また私の不運がご迷惑を……!」
彼女が自身の靴紐を結び直し、申し訳なさそうに視線を落とした――その時。
カエラムの大きな手が、彼女の視界の端へとゆっくりと伸びてきた。
そして彼は、少しだけ震える指先で、コルネリアの白く小さな右手をそっと包み込んだ。
「え……先生?」
突然の出来事に、コルネリアはペリドットの瞳を瞬かせる。
見上げると、カエラムは自身の顔が限界まで赤くなっているのをごまかすように、明後日の方向へと視線を逸らしていた。
「……ここは、足場が悪いですし。何より、あなたのその不運がいつ発動するかわかりませんから」
彼は言葉を区切り、ほんの少しだけコルネリアの手を握る力を強めた。
「安全のために……診療所に戻るまでは、こうして手を繋いでいませんか?」
それは、大人の男としての体面を保つための――不器用で精一杯の口実だった。
その不器用すぎる嘘の奥にある彼の本音に気づき、コルネリアの胸の奥は、これまで感じたことのないほどの甘い熱で満たされていった。
彼女は包み込まれた手から伝わる心地よい体温に身を委ね、花が綻ぶような――この上なく幸せそうな微笑みを浮かべた。
「……はい、先生。喜んで」
コルネリアは自らの指を彼の指の間にそっと滑り込ませ、絡め合わせるようにしてしっかりと握り返した。
カエラムもまた、深い安堵を湛えた笑みをこぼす。
春の柔らかな木漏れ日が、繋がれた二人の手を優しく照らし出している。
彼らは決してその手を離すことなく、お互いの歩幅をゆっくりと合わせながら森の小道を歩き始めた。
吹き抜ける風が若葉を揺らす中、二人の間に流れる時間は、春の陽だまりのようにどこまでも温かく、そして甘く満ち足りたものへと変わっていた。




