32 先生も……私と同じ気持ちでいてくださっているの?
春の陽気が森の奥深くにまで浸透し、木々の緑が日を追うごとに色濃く逞しく成長していく季節。
雪解けの時期の慌ただしさは少しばかり落ち着きを取り戻し、診療所の中には柔らかな風と、薬草が乾燥していく特有の穏やかな香りが満ちていた。
その日の昼下がり、診療所の入り口の木の扉が、外側から遠慮がちに叩かれた。
ちょうどカエラムは奥の部屋で新しい薬液の調合に集中しており、手が離せない状態であった。
そのため、入り口に近い場所で薬草の葉を仕分けていたコルネリアが立ち上がり、扉の取っ手へ手をかけた。
扉の向こうに立っていたのは、一人の若い男であった。
日に焼けた肌に、深い紺色をした無造作な短い髪。
そして、強い生命力を感じさせるトパーズの瞳。
彼は森の入り口付近の集落に住む、若くして非常に腕の立つ狩人――タツィオだった。
カエラムとは以前からの顔なじみであったが、コルネリアがこの診療所に身を寄せるようになってからはタイミングが合わず、今回が初めての来訪である。
タツィオは右腕の衣服を痛々しく破いており、そこから赤い血が滲み出していた。
左手には、治療代の代わりとして持参したであろう、獣の肉を香木で燻した日持ちのする手製の燻製肉の塊を提げている。
「カエラム先生、いるか? ちょっと森の奥で猪を追ってたら、鋭い木の枝に腕を持っていかれちまって……」
タツィオはいつものように気安く声をかけながら扉を潜り、そして――その場に縫い付けられたように完全に硬直した。
彼を出迎えたのは、むさ苦しい無精髭の医者ではなく、森の景色には到底似つかわしくない気品に満ちた美しい女性だった。
春の陽光を受けて、きらきらと輝くホワイトブロンドの髪が微かに揺れる。
慈愛に満ちたペリドットの瞳が、驚きから心配の色へと瞬時に変わり、彼の流血する右腕を真っ直ぐに見つめてきた。
「まあ、ひどいお怪我ですね。カエラム先生は今、奥で手が離せない状態ですので、まずは私が傷の処置をいたします。さあ、こちらの寝台へ座ってください」
コルネリアの透き通るような声に促され、タツィオは完全に思考を停止したまま、ぎこちない足取りで寝台へと腰を下ろした。
コルネリアはすぐさま清潔な水と布を用意し、彼の隣へと身をかがめた。
傷口は深いものの、幸いにも太い血管は逸れている。
彼女は手慣れた動作で傷口の汚れを洗い流し、痛みを取り除くための薬草の軟膏をたっぷりと塗り込んでいく。
その間、タツィオのトパーズの瞳は、目の前で自分の腕を優しく包み込んでいるコルネリアの横顔に完全に釘付けになっていた。
丁寧に包帯を巻いていく彼女の白く細い指先から、ほんのりと甘い花の香りが漂ってくる。
傷口の痛みを気遣うように、時折彼女が息を吹きかけるたび、タツィオの顔面は火のついたように真っ赤に染まり上がっていった。
過酷な森での狩りだけが生活のすべてであった純朴な青年は、このわずかな手当の時間で生まれて初めての強烈な恋に落ちてしまったのである。
「これで大丈夫です。数日は無理をして右腕を使わないようにしてくださいね」
コルネリアが包帯の結び目を整え、柔らかな微笑みを向けた――その時。
奥の部屋での調合を終えたカエラムが、白衣の袖を捲り上げながら顔を出した。
「ああ、タツィオ君。怪我をしたと声が聞こえましたが……コルネリアさんが処置をしてくれたのですね」
「……あ、ああ。先生、こんにちは。これ、治療代の燻製肉。脂が乗ってて美味いから、食ってくれ」
タツィオはカエラムへと燻製肉の塊を渡し、寝台から勢いよく立ち上がった。
彼は深く息を吸い込み、決意に満ちたトパーズの瞳で、真っ直ぐにコルネリアの正面へと向き直った。
「コルネリアさん、と言ったか……俺は、あんたに一目惚れしました! 俺の嫁になってください!」
狭い診療所の中に、若き青年の純情で嘘偽りのない、凄まじく真っ直ぐな求婚の言葉が響き渡った。
「小さな村の暮らしだけど、俺はこの辺りじゃ一番の狩人だ。若くて体力もあるし、絶対にひもじい思いはさせません! 一生、大切にします!」
その瞬間――横で成り行きを見守っていたカエラムの心臓は、激しい衝撃を受けて完全に停止しかけた。
相手は健康的な肉体と若さに溢れ、自分の力で生活を切り拓いていく頼もしい青年である。
それに引き換え、自分はどうだろうか。
一回りも年上の、愛想もなく、過去の過ちに囚われて森に引きこもっていただけの冴えない男だ。
彼女の幸せな未来を客観的に考えるのであれば、自分のような男の隣にいるよりも、あの若く逞しい彼と共に生きた方が遥かに明るい人生を送れるのではないか――。
しかし、その理性の裏側で、彼自身の本能が猛烈に反発し、暴れ狂っていた。
(絶対に、嫌だ)
彼女を手放すことなど、到底考えられない。
他の誰かの隣で彼女が微笑む姿を想像しただけで、胸の奥を抉られるような耐え難い苦痛が押し寄せてくる。
強烈なまでの独占欲と、大人の男としての自制心が激しく衝突し――カエラムは完全に言葉を失い、口を微かに開けたままフリーズしてしまった。
静寂が下りた診療所の中。
突然の求婚に少しだけ目を丸くしていたコルネリアであったが、やがて彼女のペリドットの瞳に、揺るぎない確固たる意志の光が宿った。
彼女はタツィオに対して少しだけ困ったように――しかし、どこまでも幸せそうな微笑みを浮かべて口を開いた。
「真っ直ぐなお気持ちを伝えてくださり、大変光栄です。けれど、私にとって一番幸せな居場所は、カエラム先生の隣だけだと決まっているのです。だから、ごめんなさいね」
一切の迷いも、取り繕いもない。
ただ純粋に、自らの心の在り処を宣言するような即答であった。
その明確な断りの言葉を聞いたタツィオは、一瞬だけ残念そうに肩を落としたものの、すぐにトパーズの瞳を輝かせてカラッと笑い飛ばした。
「うわー、見事に振られちまった! でも、あんたが先生の隣にいるのが一番幸せだって言うなら、俺に出番はねえや! 先生、こんないい人を泣かせたら、俺が絶対に奪いに来るからな!」
タツィオはカエラムに向かって爽やかに宣言すると、そのまま振り返ることなく扉を開け放ち、春の森へと軽快な足取りで帰っていった。
入り口の扉が閉まり、診療所の中に再び二人きりの静寂が戻ってきた。
カエラムは、限界まで張り詰めていた緊張の糸が完全に切れたように、深い息を吐き出して手元の机に両手をついた。
「……彼のような、若く真っ直ぐで逞しい青年の言葉に……あなたが頷いてしまうのではないかと、心底恐ろしかった」
それは、いつも彼女を庇護する大人として振る舞っていた彼から零れ落ちた――初めての不器用な本音だった。
「あなたの未来の幸せを考えれば、私が聞き分けの良い大人として、彼の背中を押すべきだと思いながらも……絶対に、あなたにここからいなくなってほしくないと思ってしまった。私は、ひどく我儘な男です」
机に手をつき、顔を伏せたまま自らの醜い独占欲を吐露するカエラム。
その必死で切実な言葉の響きを聞いた瞬間――コルネリアの胸の奥で、甘く熱い感情が一気に溢れ出した。
彼はいつも、雇い主として、そして年上の保護者として自分に接してくれていた。
しかし、彼が今見せているのは、一人の男性としての嫉妬と、彼女を絶対に失いたくないという強烈な執着心である。
(もしかして、先生も……私と同じ気持ちでいてくださっているの?)
その確信に近い思いに、コルネリアの透き通るような白い頬が、春の花よりも鮮やかな朱色に染まっていく。
彼女は一歩だけカエラムに近づき、伏せられた彼の背中へと優しい声で語りかけた。
「私は、どこへも行きませんよ。私の居場所は、ここ以外にはないのですから」
それは、タツィオに向けた言葉よりもさらに深く、彼女の生涯を懸けた決意表明であった。
その言葉の温かさに触れ、カエラムはようやく顔を上げ、丸メガネの奥のアンバーの瞳を彼女へと向けた。
彼の顔にも、隠しきれない照れくささと、心の底からの深い安堵の笑みが浮かんでいる。
ゆっくりと――しかし、確実に。
お互いの胸の奥に秘められていた想いが、言葉という形を持って静かに重なり合い始めていた。
窓の外から吹き込む春深き森の風が、二人の間に漂う空気をどこまでも温かく色づかせていく。
不器用な二人の歩みが、ついに決定的な一つの終着点へと向けて確かな前進を遂げた瞬間であった。




