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31 春を丸ごといただく、本日のご馳走ですわ

 陽射しが日を追うごとに力強さを増し、森の木々が淡い萌黄色から生命力に満ちた深緑へとその色彩を移り変えようとしている季節。

 分厚い雪に覆われていた大地の名残は完全に消え去り、足元には色鮮やかな春の野花が競い合うように咲き乱れている。

 冬の間に蓄えられた土の養分があらゆる植物を勢いよく成長させていく、春も半ばを過ぎたうららかな昼下がりであった。


 窓を開け放ち、心地よい春風を室内に取り込んでいた診療所の扉が、どこか重々しい動きで開かれた。

 そこに立っていたのは、以前赤い針虫の毒から命を救った――農夫のイザークである。

 土に汚れた分厚い作業着を纏う彼はいつもの快活で力強い姿とは異なり、自身の腰を両手で庇いながら、顔を苦痛に歪めていた。


「イザークさん。どうされたのですか、そのお姿は?」


 カエラムがすぐさま立ち上がり、彼の肩を支えて窓際の寝台へと誘導する。

 イザークは一歩進むごとに、ひどく苦しそうな唸り声を漏らしていた。


「いやあ、先生、面目ねえです。春の本格的な耕作が始まって、つい張り切りすぎてしまいましてね。雪解け水をたっぷり吸った春の土は重く、昨日、巨大な石を無理に退けようとした瞬間に、腰の筋肉が石のように固まって動かなくなっちまったんですだ」


 カエラムはイザークをうつ伏せに寝かせ、衣服を捲り上げてその腰の筋肉の状態を慎重に指先で確かめていく。

 冬の間に休ませていた身体を急激に酷使したことによる、激しい筋繊維の強張りと炎症。

 カエラムの指先が患部に触れるたび、イザークの背中がびくりと跳ね上がった。


「これは、相当に無理をされましたね。激しい炎症が起きています。まずはこの熱を鎮め、筋肉の異常な緊張を解かなくてはなりません」


 カエラムはすぐさま薬棚へ向かい、鎮痛と血行促進の効果を持つ数種類の薬草をすり鉢で練り合わせた。

 完成した緑色の軟膏を清潔な布に厚く塗り広げ、それをイザークの腰へとじわじわと成分が浸透するように貼り付けていく。


 さらに、その上から丈夫な麻の帯を幾重にも巻きつけ、不安定になっている腰回りの骨格と筋肉をしっかりと固定した。

 的確な処置を終えて数分が経過すると、イザークの荒かった呼吸は少しずつ穏やかなものへと変わっていった。


「ああ……不思議だ。あんなに熱を持って痛んでいた腰が、すうっと軽くなっていくのが分かりますだ。強張っていた筋肉が、解けていくようだ」


 イザークは苦痛に満ちていた顔の筋肉を緩め、心からの安堵の表情を浮かべた。

 彼はゆっくりとした動作で寝台から降りると、足元に置いていた大きな麻袋を抱え上げ、机の上へと丁寧に置いた。


「これは、腰を治してもらったお礼と、いつも村の者たちがお世話になっている気持ちですだ。今朝、一番に山へ入って掘り出してきたばかりの春の初物ですよ」


 イザークが袋の口を開くと、中からは山の土の香りを存分に纏った立派な泥付きのたけのこがいくつも顔を出した。

 さらに、その脇には春の息吹をそのまま凝縮したような瑞々しいふきのとうや、ぜんまいなどの山の恵みがたっぷりと詰め込まれている。


「たけのこに、ふきのとうに山菜……なんて生命力に溢れた、素晴らしい贈り物でしょう」


 コルネリアは袋の中の山の幸を見て、ペリドットの瞳をこれ以上ないほどにきらきらと輝かせた。

 イザークは、二人の喜ぶ姿を見て満足そうに頷くと、腰を労りながらゆっくりとした足取りで診療所を後にした。


 イザークを笑顔で見送った後、コルネリアはすぐさま自身の袖を捲り上げた。

 彼女の脳内には、かつて王都の書庫で見つけた古い書物に記されていた、異国の調理法が鮮明に蘇っていた。

 それは遥か東方の国で愛されている、春の苦味を美味しくいただくための、金色の衣を纏わせる料理の記録である。


「カエラム先生、今日の夕食はどうか期待していてくださいませ。このふきのとうと山菜を、東方の国のてんぷらという料理に仕上げますわ。それに、以前別の患者様からいただいたお米が残っておりますから、たけのこはお米と一緒に炊き上げましょう」


 コルネリアは弾むような足取りでキッチンスペースへと向かい、調理に取り掛かった。

 山の恵みは、下処理に手がかかる。

 彼女はまず、たけのこの皮を剥き、診療所のかまどの灰を使って独特のエグみを抜くためにじっくりと茹で上げる作業から始めた。


 ふきのとうと山菜も、土を丁寧に洗い落とし、水気を完全に拭き取っておく。

 たけのこの下茹でが終わると、半分を贅沢に細かく刻み、東方から伝わったお米と一緒に土鍋へと入れた。

 そこへ、出汁の出る干し魚の粉末と塩、そして微かな香草を加え、かまどの火にかけていく。


 続いて、ふきのとうと山菜の調理である。

 彼女は小麦粉を極めて冷たい水で軽く合わせ、粘りが出ないように慎重に混ぜ合わせていく。

 これが、衣を美味しく仕上げる東方の知恵であった。


 大きな鉄の鍋にたっぷりの油を満たし、火にかけて温度を上げていく。

 油が十分に熱せられたところで、薄い衣を纏わせたふきのとうを、一つ、また一つと、熱い油の海へと滑り込ませた。


 衣の中の水分が熱によって激しく弾き出され、油の表面で細かな泡が踊る。

 春の山菜特有の、あの少しほろ苦く、それでいてこの上なく爽やかな香りが、香ばしい油の匂いと共に診療所中を満たしていく。


 隣のかまどでは、土鍋の蓋の隙間から、お米がふっくらと炊き上がる芳醇な蒸気が勢いよく噴き出し、たけのこの甘い香りが部屋の隅々まで行き渡っている。


 カエラムは書物に向かうことを完全に諦め、すっかりその魅力的な匂いに翻弄されるまま円卓へと歩み寄った。


「……これは、なんという素晴らしい芳香でしょう。春の山の全ての生命力が、この小さな部屋に凝縮されたかのようです」


 コルネリアは、完璧な色合いに揚げられた天ぷらを大皿に山高く盛り付け、炊き上がったばかりのたけのこご飯を、木の器へとふんわりと装った。

 艶やかなお米の粒の間からたけのこが顔を出し、見事な湯気を立ち昇らせている。


「さあ、冷めないうちに召し上がってください。春を丸ごといただく、本日のご馳走ですわ」


 二人は向かい合い、手を合わせてから食事を始めた。

 カエラムはまず、金色の衣を纏ったふきのとうの天ぷらを口に運んだ。

 歯を立てた瞬間に、さくっという感触とともに衣が口の中で崩れ、中からふきのとうの濃厚な香りと、春特有の心地よい苦味が溢れ出した。


「……信じられないほど、美味しいです。この独特の苦味が、油のまろやかな甘みと混ざり合って、冬の間に眠っていた身体の奥底から、力強い活力が呼び覚まされるようです」


 続いて、彼はたけのこご飯を口にした。

 東方のお米特有の強い粘りと甘み、そして、歯を押し返すようなたけのこの瑞々しい食感。

 噛みしめるたびに、山の土のエネルギーと出汁の深い旨味が、身体の芯へと染み渡っていく。


 カエラムはもはや言葉を発することも忘れ、無言のまま何度も頷きながら、夢中になってその春の味覚を堪能した。


 コルネリアもまた、自らが作り上げた東方の料理の出来栄えに、心からの舌鼓を打っていた。

 王都の洗練されたソースや複雑なスパイスを使った料理とは全く異なる、素材が持つ本来の生命力を極限まで引き出した、力強くも繊細な味わい。

 それは、厳しい冬を土の中でじっと耐え忍び、自らの力で春の光へと芽を出した植物たちからの、最高の祝福のようであった。


「春というのは、これほどまでに豊かで、生命力に満ちた味がするものなのですね……あなたがここに来てから、私の単調だった食卓は、まるで魔法にかけられたかのように彩り豊かなものになりました」


 カエラムは完全に空になった器を眺めながら、心からの満足感を込めて語りかけた。

 彼のその言葉と、穏やかに細められたアンバーの瞳を見て、コルネリアの胸の奥には揚げたての天ぷらの熱にも負けない、温かな充足感がじんわりと広がっていく。


 窓の外では、春半ばのぬるい夜風が静かに森の梢を揺らしている。

 診療所の中に流れる時間は、春の陽だまりのようにどこまでも温かく、二人の間に漂うほっこりとした幸福感は夜の闇を優しく照らし出していた。


 たけのこの甘い余韻と、ふきのとうの爽やかな苦味。

 本格的な暖かさを迎えた新しい季節を、二人は五感のすべてを使って深く噛み締めながら、これから訪れる緑豊かな日々を共に歩んでいく喜びを静かに分かち合うのだった。

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