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30 もう少しだけ……このままでいても、よろしいでしょうか?

 太陽が西の山々の稜線りょうせんの向こう側へと完全に姿を消し、森全体が深く静かな藍色の闇に包み込まれる頃。

 本日のすべての診療と家事を終えた診療所の中には、一日の終わりを告げる穏やかな休息の時間が訪れていた。

 部屋の隅にある暖炉では赤々とした炎が静かに揺らめき、室内を心地よい温度で満たしている。


 コルネリアはキッチンスペースに立ち、夕食に使った木の器を丁寧に拭き上げてから、戸棚へとしまった。

 そして、新緑の季節に合わせて調合した、心を落ち着かせる効果のある香草の茶を二つの湯呑みに注ぐ。

 淡い緑色をした液体からは、春の森を思わせる爽やかな香りがふわりと立ち昇っていた。

 彼女は二つの湯呑みをお盆に乗せ、部屋の中央にある木製の円卓へと運んだ。


 向かいの席では、カエラムが分厚い薬草学の書物を広げ、活字の羅列に静かに視線を落としている。

 コルネリアが彼の定位置に湯呑みを置くと、彼はふうっと一つ息を吐き出して書物を閉じ、労いの言葉とともに柔らかな微笑みを向けた。


 コルネリアも自らの席に腰を下ろし、温かい湯呑みを両手で包み込む。

 ふと視線を上げると、窓枠のそばに置かれた小さな硝子の瓶が目に入った。

 そこには数日前に彼女が森の入り口で摘んできた、淡い黄色の野花が一輪、ひっそりと生けられている。


「……先生。あそこにある、淡い黄色の花」


 静寂を縫うように、コルネリアの透き通るような声が室内に響いた。

 カエラムがアンバーの瞳を瞬かせ、彼女の視線の先へと顔を向ける。


「私が崖から落ちて先生に助けられ、初めてこの診療所のベッドで目を覚ました夜も……窓の外で、あの一輪と同じ花が夜風に揺れていたのを覚えていますわ」


 懐かしむような、それでいてどこか遠くを見るような彼女の呟きに、カエラムは手元の湯呑みを見つめ直した。


「そうでしたか……あの日から、ちょうど一年という月日が流れたのですね」


 森を吹き抜ける風の温度、若葉が芽吹く土の匂い、そして窓辺を彩る植物の姿が、あの日から確かに一周りした季節の重みを二人に教えていた。

 コルネリアは湯呑みを両手で包み込みながら、遠い過去の情景を思い返す。


 身に覚えのない横領の罪を着せられ、すべてを奪われたあの日。

 不運体質によって王子たちの罪を証明するはずだった裏帳簿は、メイドが零した紅茶によって黒い紙くずと化してしまった。


 誰にも信じてもらえず、着の身着のままで王都を追放された彼女は、鬱蒼うっそうと生い茂る不気味な森の中を、ただあてもなく彷徨っていた。


「あの夜は、本当にすべてが終わったのだと思っていました。暗い森の中で、頭上の枝から突然大きな鳥が飛び立って……それに驚いた私が、苔生こけむした丸太を完全に踏み抜いてしまったのですよね」


 彼女の言葉に、カエラムも苦笑いを浮かべて頷いた。


「ええ。崖の下で倒れているあなたを見つけた時は、本当に肝が冷えましたよ。左腕の尺骨しゃっこつは完全に折れ曲がり、左のふくらはぎは岩肌で深く切り裂かれていた。あの凄まじい出血と怪我を負いながら、よく命を繋ぎ止めていたものです」


「それは、先生が完璧な処置をしてくださったからですわ……でも、せっかく私の命を救ってくださったのに、目を覚ました私が見たのは、餓死寸前でベッドの端に突っ伏す先生のお姿でしたけれど」


 コルネリアがくすくすと笑い声を漏らすと、カエラムは照れ隠しのように無精髭の生えた顎をさすり、視線を泳がせた。


「いやはや、あの時はお恥ずかしいところをお見せしました。あなたの治療に集中するあまり、自分が三日も四日も食事をとっていないことを完全に忘却しておりまして……まさか、大怪我を負ったばかりの患者に、魔法でかまどの火を起こさせ、干し肉のスープを作ってもらうことになるとは夢にも思いませんでしたよ」


 今でこそ笑い話になっているが、出会ったばかりの二人の状況はまさにどん底だった。


 すべてを失い、身体を激しく損壊して絶望していた少女。

 そして、過去の過ちから逃げるように森に引きこもり、日々の食事すら忘れて緩やかな死に向かっていた孤独な男。


 ――しかし、あの凄惨な出会いの夜が、互いの欠けていた部分を完全に補い合う、奇跡のような日々の始まりでもあったのだ。


「先生。王国を追放されて、あんなにも痛い思いをして崖から落ちた時は、自分の不運を恨みましたし、この世の終わりだと思いましたわ」


 コルネリアは顔を上げ、ペリドットの瞳で真っ直ぐにカエラムを見つめた。

 その表情には、かつての悲壮感や、理不尽な世界に対する怒りは微塵も残っていなかった。


「……でも、今のこの温かい暮らしを思えば、あの理不尽な追放も、紅茶で帳簿が汚れてしまった不運も、鳥に驚いて崖から落ちたことさえも……すべては、先生に出会うための必然だったのですね。そう思えば、私は世界中の誰よりも、最高に運が良かったのだと心から笑えますわ」


 ふわりと、春の花が一斉に綻ぶような、この上なく幸せそうな笑顔が彼女の顔に広がった。

 過去のすべての不幸や絶望を今の幸福のための対価として完全に肯定し、この慎ましい森の生活を愛おしむ彼女の強さと、純粋な心。


 そのあまりにも無垢で愛らしい言葉と笑顔に、カエラムの胸の奥で、言語化できないほどの強烈な愛おしさが限界を突破した。

 彼女の存在そのものが、自分の人生における最大の救済であり、奇跡であるという事実。

 その重みが、彼の理性の防壁をいとも容易く乗り越えていった。


 思考が行動を制止するよりも早く、カエラムの大きな右手が吸い寄せられるようにゆっくりと宙を移動していた。

 そして大切な宝物を扱うような優しい手つきで、コルネリアの柔らかなホワイトブロンドの髪へと触れた。


 滑らかな髪の感触が、彼の無骨な指先から伝わってくる。

 彼は自らの内に溢れる慈しみの感情をそのまま伝えるように、彼女の頭をゆっくりとなでた。


 ――診療所の中の時間が、完全に停止した。


 突然の出来事にコルネリアは瞳を真ん丸に見開き、瞬きすら忘れて固まっている。

 彼女の頭上にあるカエラムの手のひらからは、驚くほど高い体温が伝わってきていた。


 次の瞬間――カエラムの脳内を、これまでの人生で培ってきた常識と理性が激しく打ち据えた。


(私は今、何を……何をしているのだ!?)


 彼女の雇い主であり、保護者のような立場にある自分が、感情の赴くままにこのような親密すぎる接触をしてしまうなど、絶対にあってはならないことだ。

 顔面が一気に沸騰したような熱を帯びるのを感じながら、カエラムは猛烈な羞恥心に襲われ、咄嗟にその手を引っ込めようとした。


「も、申し訳ありません、私はその、つい……」


 言い訳をしながら手を離そうとした――その時だった。


「あ……」


 コルネリアの両手が素早く伸び、逃げようとしたカエラムの右腕をきゅっと掴み取った。

 カエラムの動きが、完全に封じられる。

 彼女の小さな手は、彼の腕の布地をしっかりと握りしめ、決して離そうとはしなかった。

 コルネリアは透き通るような白い頬をうっすらと朱色に染めながら、上目遣いで彼をじっと見つめている。


「……先生。それ、とても落ち着きます」


 彼女は彼の手のひらを自らの頭の上へと引き留めるように、少しだけ身を乗り出した。

 ホワイトブロンドの髪が、微かに揺れる。


「もう少しだけ……このままでいても、よろしいでしょうか?」


 甘えたような、しかし嘘偽りのない切実な願いを込めた囁き。

 カエラムの心臓は、もはや肋骨を激しく打ち据えるほどの勢いで跳ね上がり、呼吸の仕方を忘れてしまったかのようだった。


 自分の腕を掴む彼女の指先の力強さと、目の前にある無防備な彼女の温もり。

 それを前にして、彼にこれ以上抗う術など残されていなかった。


 カエラムは一つ深い息を吐き出し、完全に観念したように、再び震える指先で彼女の髪を梳き始めた。

 今度は先ほどよりも少しだけ力を込め、彼女が望む通り、その存在のすべてを慈しむようになでる。

 コルネリアは安心しきったように小さく息を吐き、彼の手のひらの熱に身を委ねて目を細めた。


 窓の外では、春の夜風が木々の若葉を優しく揺らしている。

 共に過ごした時間を糧に、二人の関係は春の芽吹きのようにゆっくりと――しかし、決して後戻りすることのない確かな歩みで前進していた。


 夜の静寂が診療所を包み込む中、カエラムの手のひらから伝わる熱と、コルネリアの安らかな吐息だけが、二人の満ち足りた世界をどこまでも甘く、優しく彩り続けていた。

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