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29 私はいったい何をまじまじと見つめているのでしょうか……!

 柔らかな陽光が、診療所の窓枠に四角い光の模様を描き出している。

 森の木々は一斉に萌黄色の小さな芽を吹き出し、雪解け水で水量を増した川の流れが途切れることなく春の訪れを告げていた。


 冷たさを残していた風にも確かな温もりが混じり始め、大地からは湿った土と新しい生命の香りが立ち昇っている。

 うららかな初春の昼下がりであった。


 診療所の中には、新緑の清々しい香りと共に、薬草を煮詰める独特の匂いが立ち込めている。

 カエラムは自室の机に向かい、春先にしか採取できない特殊な根をすり潰し、新しい軟膏の土台となる薬液を調合していた。

 ガラスの容器の中には、濃厚な茜色をした液体が波打っている。


 窓から差し込む春の陽射しが心地よく、彼の集中力はほんの僅かだけ緩んでいたのかもしれない。

 ――あるいは、同じ空間で乾燥させた薬草を整理しているコルネリアの穏やかな気配が、彼の警戒心を解いていたのだろうか。


 すり鉢から容器へ液体を移し替えようとしたその時、彼の手先が微かに狂った。

 指先から滑り落ちたガラスの容器が机の端にぶつかり、中身の茜色の液体が弧を描いて宙を舞う。

 彼が咄嗟に手を伸ばすよりも早く、濃厚な薬液は彼の着ていたくしゃくしゃの白衣とその内側に着込んでいた麻のシャツの胸元へ、べったりと降り注いでしまった。


「ああ……やってしまいました」


 カエラムが深い息を吐きながら自分の胸元を見下ろした直後、部屋の反対側で作業をしていたコルネリアが弾かれたように振り返った。

 彼女の視界に飛び込んできたのは、彼の衣服に急速に広がっていく茜色の染みである。

 彼女は、その薬液の成分を熟知していた。


「カエラム先生! その薬液は、一度布の繊維に入り込んで乾いてしまうと、二度と色が落ちなくなってしまいます。今すぐ、それを脱いでください!」


 几帳面で清潔好きの彼女は手元の作業を放り出し、ひどく切羽詰まった声で彼に要求した。

 普段の穏やかな彼女らしからぬ切迫した勢いに圧倒され、カエラムは言われるがまま慌てて白衣のボタンを外し、続けて汚れた麻のシャツを頭から引き抜いた。


「これで、よろしいですか……いやはや、お恥ずかしいところを」


 彼が汚れた衣服を手に持ち、申し訳なさそうに振り返った――その瞬間。

 駆け寄ろうとしていたコルネリアの足が、床に縫い付けられたように止まった。


 彼女はこれまで彼のことを書物に囲まれ薬草の匂いを纏った、線の細い学者肌の男性だと無意識のうちに思い込んでいた。

 ゆったりとした衣服に身を包み、少し猫背で歩く彼の姿からは、肉体的な逞しさなど微塵も感じられなかったからだ。


 しかし、不意に晒された彼の上半身は、彼女の想像を根底から覆すものであった。

 肩幅は広く骨太で、胸元には無駄な脂肪が一切ない、引き締まった筋肉が薄い皮膚の下に張り付いている。

 腕には太い血管が浮き上がり、動くたびにしなやかな筋繊維が隆起した。


 ――よく考えれば、当然のことである。

 彼はこの厳しい辺境の森で、毎日重い斧を振るって大量の薪を割り、川から何杯もの水を汲み上げ、時には重い樽を背負って泥地を歩き回るような過酷な生活を、たった一人で何年も続けてきたのだ。

 ただ座って本を読んでいるだけの身体であるはずがなかった。


 生命力に溢れた大人の男性の肉体を前にして、コルネリアの思考は完全に停止した。

 健康的な熱を帯びた素肌から目が離せなくなり、彼女の透き通るような白い頬から耳の先にかけて、一気に沸騰したような朱色が広がっていく。

 息が浅くなり、鼓動が不規則なリズムを刻み始めた。


(いけない、私はいったい何をまじまじと見つめているのでしょうか……!)


 激しい羞恥心に襲われ、彼女は軽い恐慌状態に陥った。

 とにかくこの場から逃げ出さなければならない。

 その一心で、彼女は彼の手にある衣服を奪い取ろうと大きく一歩を踏み出した。


 ――しかし、その焦りが命取りとなった。

 彼女は床に数滴零れ落ちていた、とろみのある茜色の薬液の存在に全く気がついていなかったのだ。


 生来の不運体質が、この最悪の瞬間に容赦なく牙を剥いた。

 革靴の裏が滑る液体の表面を捉えた瞬間、床との摩擦は完全に消滅した。

 彼女の身体は制御を失い、為す術もなく前のめりに崩れ落ちていく。


「危ない!」


 短い声とともに、カエラムが動いた。

 彼は持っていた衣服を床へ放り捨て、反射的に両腕を大きく広げて前方へ踏み込む。

 倒れ込んでくる彼女の身体を、その逞しい両腕でしっかりと受け止めた。


 勢いよく飛び込む形になったコルネリアの顔面と上半身は、カエラムの剥き出しの胸板に激突した。

 衣服という隔たりが存在しないため、彼の肌の滑らかな感触と驚くほど高い体温が、彼女の薄い衣服越しに直接伝わってくる。

 そして何より、彼女の耳のすぐそばで信じられないほど激しく、けたたましく鳴り響く心音が聞こえていた。


 さらに悪いことに、バランスを崩したコルネリアは転倒を防ごうとする人間の本能に従い、無意識のうちに両腕を前へと伸ばしてしまっていた。

 その結果、彼女の細い腕はカエラムの腰回りにすっぽりと回り込み、両手のひらが彼の広い素肌の背中へぴったりと密着してしまったのである。


 ――静寂が、部屋を支配した。

 窓の外から聞こえていたはずの小鳥のさえずりも、春風の音も、今の二人には全く届いていない。


 自分が今、どのような状態にあるのか。

 コルネリアは彼に強く抱きしめられながら、彼自身の背中に腕を回してしがみついている。

 手のひらから伝わってくる、張り詰めた背中の筋肉の感触。

 鼻腔を満たす、石鹸の香りと彼自身の微かな汗の匂い。

 すべてがあまりにも直接的すぎて、彼女の脳髄は完全に熱暴走を起こしていた。


 ――一方のカエラムもまた、絶体絶命の窮地に立たされていた。

 腕の中に飛び込んできた、柔らかく温かい女性の重み。

 顔のすぐ下にある彼女のつむじからは、甘い花の香りがふわりと立ち昇っている。

 そして何より、彼の背中を掴んでいる、小さな両手の存在である。

 素肌に直接触れるその手のひらの感触は、彼の理性の防壁をいとも容易く粉々に打ち砕きそうになっていた。


 彼自身の顔も、彼女と同じように限界まで赤く染まり上がっている。

 今すぐこの腕に力を込め、彼女を骨が軋むほど強く抱きしめ返してしまいたい。

 そんな凶暴な衝動が喉元までせり上がってくるのを、彼は奥歯を強く噛み締めることで必死に押さえ込んでいた。


 彼女の不運体質が引き起こした事故にすぎないのだ。

 ここで大人の男としての自制心を失えば、これまでの穏やかな関係がすべて崩れ去ってしまう。


「……お、お怪我は、ありませんか」


 ――永遠にも思える数秒間の沈黙の後。

 カエラムの口から紡がれたのは、僅かに震えた声だった。


 その声を聞いて、コルネリアはようやく我に返った。

 彼女は弾かれたように彼の身体から腕を離し、凄まじい勢いで後退した。

 視線は床を彷徨い、決して彼の顔を見上げようとはしない。

 彼女は床に落ちていた汚れた衣服をひったくるように拾い上げ、胸の前に抱え込んだ。


「も、申し訳ございません! 裏の川で、これを洗ってまいりますわ!」


 もはや普段の落ち着いた話し言葉すら維持できず、彼女は早口でそれだけを言い残すと、逃げるように背を向けた。

 そして重い木の扉を開け放ち、春の陽光が降り注ぐ外の世界へと転がり出るようにして走り去っていった。


 扉が閉まり、再び静まり返った診療所。

 一人残されたカエラムは、彼女の温もりと感触が鮮明に残る自身の手のひらを見つめ、ゆっくりと天を仰いだ。


「……これは、いくらなんでも心臓に悪すぎる」


 彼はそのまま膝の力が抜け、冷たい木の床にしゃがみ込んだ。

 片手で真っ赤になった顔を覆い隠し、深く長いため息を春の柔らかな空気の中へ静かに吐き出した。


 どんな難病の治療よりも、彼女が引き起こす日常の小さな不運に対処する方が、今の彼にとっては遥かに困難で――そして、甘美な試練のようだった。

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