3 本当に、お優しい方なのですね
奇妙な共同生活が始まって、数日が経過した。
春の木漏れ日が差し込む診療所の朝は、小鳥のさえずりと共に静かに訪れる。
コルネリアの左腕の骨折は順調に回復へと向かっていたが、完全に骨が繋がるまでは分厚い添え木と布で固定されており、動かすことは許されていない。
「おはようございます、コルネリアさん。左足の傷の具合を見せてください。包帯を取り替えましょう」
寝癖のついた翡翠色の髪を揺らしながら、カエラムが清潔な布と薬壺を持ってベッドへと近づいてきた。
その言葉に、コルネリアは弾かれたように身を起こした。
「おはようございます。ですが、足の包帯くらい自分で巻けますから、布をお貸しくださいませ!」
伯爵令嬢として、これ以上恩人に手根をかけるわけにはいかないという矜持と、他人に足を委ねることへのわずかな羞恥心。
そして何より、ただでさえ忙しい彼に迷惑をかけたくないという申し訳なさから、コルネリアは慌てて右手を伸ばした。
しかし、実際に真新しい布を受け取ってみたものの、いざ巻こうとすると手が止まる。
左腕が使えない状態では、布の端を押さえながら患部に適度な圧力をかけて巻き上げるという動作がどうやっても不可能なのだ。
歯で布の端を噛んで引っ張ろうとするなど、令嬢らしからぬ不格好な悪戦苦闘を数分間繰り広げた結果、包帯はだらしなく緩み、患部を覆うことすらできていなかった。
「……無理をして傷口が開いては、元も子もありませんよ。失礼します」
カエラムは呆れるでもなく、静かで落ち着いた声と共にコルネリアの右手からそっと布を抜き取った。
そしてベッドの傍らに膝をつくと、迷いのない正確な手つきで、古い包帯を解いていく。
淀みない動作で軟膏が塗られ、新しい布が絶妙な力加減で巻き上げられていく。
不器用な自分に対する情けなさと、彼の見返りを求めない優しさに、コルネリアはただ小さく頭を下げることしかできなかった。
「ありがとうございます……ご迷惑ばかりおかけして、本当に申し訳ありません」
「迷惑だなんて思ったことは一度もありませんよ。それに、ここ数日で診療所の中が見違えるように綺麗になったのは、あなたの指示のおかげですから」
カエラムが立ち上がりながら、穏やかなアンバーの瞳を細める。
確かに、コルネリアが口頭で的確な指示を出し、カエラムがそれに従って動くことで、足の踏み場もなかった部屋は驚くほど清潔に保たれるようになっていた。
「そうだ、食料の在庫を確認しておきましょう。私が動ける範囲で見てみますね」
少しでも役に立ちたいと、コルネリアはゆっくりと立ち上がり、部屋の隅にある小さな戸棚へと向かった。
扉を開けると、そこには先日村人から譲り受けた日持ちのする缶詰がいくつか並んでいるだけだった。
残りの数を把握しようと、コルネリアが右手を伸ばして缶詰を前列へ引き寄せようとした――その時。
バキッ。
乾いた硬い音が鳴ったかと思うと、コルネリアの目の前で、戸棚の中板を支えていた木製の留め具が唐突にへし折れた。
腐っていたわけでも、強い力をかけたわけでもない。
ただ、彼女が触れようとした瞬間に、奇跡的なまでの絶妙な耐久性の限界を迎えたのだ。
斜めに傾いた棚板の上を、三つの缶詰が勢いよく転がり落ちる。
「あっ、お待ちになって!」
コルネリアの制止も虚しく、二つの缶詰は床に落ちて鈍い音を立てた。
そして残る一つは、まるで意思を持っているかのような美しい軌道を描き、部屋の隅にある決して動かせないほど重厚な薬草用キャビネットの、そのわずかな床との隙間へと見事に転がり込んでいった。
静寂が下りた部屋の中で、コルネリアは深くため息をついた。
「……相変わらず、私の不運体質は健在のようですね」
「怪我がなくて何よりです。戸棚は後で私が修理しておきますよ」
カエラムは床に落ちた二つの缶詰を拾い上げながら、苦笑を浮かべた。
「しかし、これではあと数日も持ちませんね。そろそろ買い出しに行かなければ」
「街まで行かれるのですか?」
「いえ、この森を抜けた先に、国から見放された者たちが集まる貧民区があるのです。日用品や食料の取引も行われているので、そこへ行ってきます。コルネリアさんはお留守番をお願いできますか?」
「承知いたしました。もし急患がいらしたら、清潔な布で圧迫止血だけして、安静にさせておきます」
「頼もしいですね。では、行ってきます」
相変わらずシワの目立つ白衣を羽織り、カエラムはのんびりとした足取りで森へと出かけていった。
一人残されたコルネリアが、右手だけで読める医学書をめくりながら留守番をしていると――やがて控えめに扉を叩く音が響いた。
ゆっくりと扉を開けると、そこに立っていたのは、つぎはぎだらけの粗末な服を着た小さな男の子だった。
年齢は七つか八つほどだろうか。
その小さな膝はひどく擦りむけており、赤い血がふくらはぎを伝って流れている。
「あれ、先生はいないの?」
男の子は大きな空色の瞳を瞬かせながら、見知らぬコルネリアを見上げて首を傾げた。
「先生は今、買い出しに出かけておりますの。私は助手のコルネリアと申します。怪我をされているようですから、中へ入ってくださいな」
コルネリアは優しく微笑みかけ、彼を部屋の中の椅子へと案内した。
男の子はニコと名乗った。
カエラムが向かった貧民区に住む子供の一人で、森を走り回って遊んでいる最中に木の根に足を取られて派手に転んでしまったらしい。
「少しだけしみますけれど、我慢してくださいね」
コルネリアはカエラムの治療を思い出しながら、度数の強い酒を浸した布で、傷口の泥と血を丁寧に拭き取っていく。
ニコは痛みに顔をしかめながらも、泣き声を上げることはなかった。
右手の指先を使って痛みを和らげるように薬効のある軟膏を塗り込み、清潔な布でしっかりと覆って固定する。
「はい、これで大丈夫ですよ。数日は無理をして走らないようにしてくださいね」
「ありがとう、コルネリアお姉ちゃん! お姉ちゃん、先生の新しい助手なんだね」
「ええ。まあ、今は私も患者のような身ですけれどね」
苦笑するコルネリアを見て、ニコはどこか誇らしげな笑みを浮かべた。
「お姉ちゃん、先生のところにいて正解だよ。先生はね、すっごい人なんだから!」
「ええ、そのようですね。医療の腕は素晴らしいと、私も感じております」
「それだけじゃないんだよ」
ニコは身を乗り出し、秘密の物語を語るように声を潜めた。
「先生は、料理とか掃除とかは全然ダメで、時々森の中で寝てたりするけど……でも、絶対に俺たち貧民街の人間を見捨てないんだ。お金がなくて他の医者に追い出された人も、先生は全部治してくれたんだよ」
その言葉に、コルネリアは静かに目を見開いた。
「それにね、この間なんか、王都から立派な馬車に乗った偉いお貴族様が来たんだ。金貨がたくさん入った袋を見せて、王宮に戻ってこいって言ってたんだけど、先生は『今診ている患者がいるので、お引き取りください』って、ピシャリと扉を閉めちゃったんだよ! すっごくかっこよかったんだから!」
無邪気な子供の言葉は、飾られていない分だけ真実の重みを持っていた。
コルネリアの脳裏に、元婚約者であるレイナールド王子の顔が浮かぶ。
権力と財宝に執着し、私利私欲のために平気で他者を陥れる人間たち。
王都には、そんな貴族たちが溢れかえっていた。
――しかし、目の前にいるニコが語るカエラムの姿は、彼らとは対極にあるものだった。
富や名声には目もくれず、ただ目の前で苦しむ命を救うためだけにこの薄暗い森の底に留まり続けている。
どんなに生活能力が欠如していても、彼の精神は誰よりも気高く、美しい。
(カエラム先生は……本当に、お優しい方なのですね)
胸の奥にじんわりと温かいものが広がるのを感じながら、コルネリアはニコの頭を優しく撫でた。
それからしばらくして、診療所の扉が重い音を立てて開いた。
入り口に立っていたのは、両腕で抱えきれないほどの食料品や日用品が入った大きな紙袋を抱えたカエラムだった。
その顔は荷物に埋もれてほとんど見えていない。
「ただいま戻りまし……あっ」
足元の段差に気づかなかったのか、カエラムの身体が大きくバランスを崩した。
何とか転倒は免れたものの、抱えていた紙袋の一つが見事に破れ、中から大量の丸い野菜や、謎の保存食が床の上を転がっていく。
「ああっ、先生! 僕が拾うよ!」
ニコが慌てて駆け寄る中、カエラムはぼんやりとした表情のまま、転がっていく野菜を呆然と見送っていた。
その見事なまでの不器用さと、先ほどニコから聞いた気高い信念との激しい落差に、コルネリアはたまらず吹き出してしまった。
「ふふっ……あははっ! 先生、買いすぎですよ!」
森に追放されてから初めて、彼女の口から心からの笑い声がこぼれ落ちる。
呆れや嘆きではなく、純粋な温もりに満ちたその笑い声は、日差しの差し込む小さな診療所の中へ柔らかく溶けていった。




