2 私でも、誰かの役に立てる場所があるのですね
火が通り、小鍋の中から温かな湯気とともに芳醇な香りが立ち上り始めた。
干し肉から溶け出した塩分と旨味、そして豆の素朴な甘さが混ざり合い、長年換気されていない埃っぽい診療所の空気を抗いがたいほど食欲をそそる匂いへと塗り替えていく。
「……カエラム先生。煮込めましたよ。お皿と匙はありますか?」
ベッドの上に身を起こしたままのコルネリアが声をかけると、かまどの前に座り込んでいたカエラムは、弾かれたように顔を上げた。
そのアンバーの瞳は、鍋から立ち上る湯気を食い入るように見つめている。
「お皿、ですね。ええと、たしかこの辺りに……ありました。少し埃を被っていますが」
「それをそのまま使おうとしないでくださいませ。布で綺麗に拭いてから、こちらへ」
コルネリアは呆れ混じりに指示を出し、動く右手だけを使って慎重にスープを取り分けた。
カエラムは受け取った木皿を両手で大切そうに包み込むと、椅子に座るのももどかしい様子で、立ったまま匙を口へと運んだ。
――途端に、彼の焦点の合っていなかった瞳が大きく見開かれる。
「……美味しい。ひどく、美味しいです。身体の隅々にまで、熱と命が染み渡っていくようです……」
普段のぼんやりとした口調はそのままに、しかし込められた感情は切実だった。
三日以上も食事を絶っていた彼の身体にとって、その簡素なスープは命を繋ぐ何よりの劇薬だったのだろう。
熱さを気にする素振りも見せず、彼は無心で匙を動かし続けている。
その様子に少しだけ安堵の息を吐き、コルネリアも自身の皿に口をつけた。
温かい液体が喉を通り、胃の腑へと落ちていく。
伯爵令嬢として、王城や屋敷で数え切れないほどの豪奢な晩餐を味わってきた彼女の舌からすれば、それは味付けも具材も貧相なただの野戦食に過ぎない。
しかし、不当な罪を着せられ、王都から追放されて森を彷徨い歩いていた彼女にとっても、それは何日かぶりに口にするまともな食事だった。
冷え切っていた身体の内側からじんわりと熱が広がり、張り詰めていた神経が少しずつ解れていくのを感じる。
「……本当に、美味しいですね」
気がつけば、コルネリアの目からひとしずくの涙が溢れ、木皿の中へと落ちていた。
自分がどうしてこんな惨めな姿で、見知らぬ森の底でスープを飲んでいるのか。
理不尽な現実が、温かい食事をとったことでかえって鮮明に輪郭を帯びて迫ってきたのだ。
「コルネリアさん。あなたは、どうしてあんな怪我をして森に倒れていたのですか?」
ふと、空になった皿を持ったカエラムが、穏やかな声で尋ねてきた。
詮索するような嫌らしさはなく、ただ純粋な疑問だけが浮かんだ表情だ。
コルネリアは少しだけ躊躇ったが、命の恩人に対して嘘を吐く気にはなれず、ゆっくりと口を開いた。
「……身に覚えのない罪で、ゼサリア・オル王国を追放されたのです。私が管理していたはずの資金を横領したと、濡れ衣を着せられて。証拠も用意していたのですが、不運が重なって弁明すら叶いませんでした」
惨めな身の上話だった。
見ず知らずの男に同情されたいわけではない。
ただ、事実を口にすることで、自分の中の整理をつけたかったのかもしれない。
カエラムは静かに彼女の言葉を聞き終えると、困ったように少しだけ眉を下げた。
「そうでしたか……王国の人間は、随分と見る目がないですね。これほど手際よく物事を進められるあなたを手放すなど、国にとって大きな損失だというのに」
「慰めていただかなくても結構ですよ。私は……」
「慰めではありません。ただの事実です。現に、あなたがいてくれなければ、私は今頃飢え死にしていたでしょうから」
カエラムは淡々とそう言って、寝癖だらけの頭を軽く掻いた。
大げさな哀れみも、無責任な励ましもない。
ただ彼女の能力を正面から肯定してくれたその言葉に、コルネリアの胸の奥で、冷たく固まっていた何かが静かに溶けていく気がした。
「それに、ここには国から見放されたり、居場所を失ったりした者がよく集まります。あなたも、怪我が治るまでゆっくりしていけばいい」
「集まる、とは? ここはただの辺境の診療所ではないのですか?」
コルネリアが疑問を口にした――その時だった。
静まり返った夜の森に、控えめな打音が響いた。
誰かが診療所の扉を叩いているのだ。
カエラムは立ち上がり、慣れた様子で重い木の扉を開け放った。
「夜分にすみません、先生……その、少し怪我をしてしまって」
夜の闇の中から姿を現したのは、人間ではなかった。
灰色の短い体毛に覆われた身体。
頭部には丸い耳がつき、背後には長い尻尾が揺れている。
人間の言葉を流暢に操るその姿は――獣人の一種であるラットマンだった。
彼の右腕からは、赤黒い血が絶え間なく滴り落ちている。
「トロンさん。また人間の仕掛けた罠にかかったのですか?」
「ええ。群れの若い衆が食料を探しに行って、うっかり……かばった拍子に、刃が深く入っちまいまして。人間の街の医者は、我々獣人を診てはくれませんから、また先生を頼るしかなくて」
トロンと呼ばれたラットマンは、痛みに顔を歪めながらも申し訳なさそうに身を縮めた。
獣人は、一部の都市を除いて人間から迫害や差別の対象になりやすい種族だ。
ましてやネズミの姿を持つラットマンは、不衛生だといういわれのない偏見を持たれることも多い。
しかし、カエラムの顔には嫌悪の色など微塵も浮かんでいなかった。
先ほどまでのぼんやりとした気配は完全に消え去り、そのアンバーの瞳は患部の状態を冷静に見極める、冷徹なまでの光を宿している。
「結構深く切っていますね。すぐに縫合しましょう。そこの椅子に座ってください」
カエラムはトロンを部屋の中へ招き入れると、棚から医療器具が入った木箱を取り出した。
初めて間近で見る獣人に、コルネリアは一瞬だけ目を丸くした。
しかし、彼が群れの仲間を庇って傷を負ったのだと知ると、生来の気質がすぐに恐怖や戸惑いを上回った。
不当に虐げられる痛みを、今の彼女は誰よりも理解している。
「カエラム先生。私にできることはありますか?」
「コルネリアさんは安静に……と言いたいところですが、少し手伝っていただけると助かります。私が傷口を洗浄している間に、その木箱から縫合用の針と糸、それから清潔な布を出しておいてください」
「承知いたしました」
コルネリアは左腕を庇いながら、動く右手を使ってベッドの傍に置かれた木箱を探った。
カエラムが手際よくトロンの腕の傷口を強い度数の酒で洗い流す。
その淀みない動きに合わせて、コルネリアは彼が次に必要とするであろう器具を順番に並べ、布を使いやすい大きさに裂いて待機した。
「……針と糸を。それから、血を拭い取るための布も」
「こちらに用意しております。軟膏の蓋も開けておきました」
カエラムが視線を向けるよりも早く、コルネリアは右手で必要なものを的確に差し出した。
その流れるような連携に、カエラムは内心で深く驚いていた。
医療の知識が完璧にあるわけではないだろうに、彼女の観察眼はカエラムのわずかな視線の動きや呼吸を読み取り、次の一手を先回りして準備しているのだ。
腕を縫われているトロンも、驚いたように丸い目を瞬かせている。
「人間の貴族のお嬢さんが、俺たちみたいな獣人を嫌がりもせずに手伝ってくれるなんて……先生のところには、珍しい人がいるんですね」
「ええ。とても優秀な、私の新しい助手です」
カエラムは手元の縫合から目を離さないまま、当然の事実のようにそう言った。
助手、という響きに、コルネリアの胸の奥が微かに熱くなる。
やがて治療が終わり、完璧な包帯が巻かれた腕を見て、トロンは深く頭を下げた。
「ありがとうございます、先生。本当に助かりました。ただ、今日は手持ちの金がなくて……支払いは、森の奥で採れたこの希少な茸でもよろしいでしょうか」
「構いませんよ。ちょうど薬の材料として在庫が切れていたところですから、大変助かります」
申し訳なさそうに茸を差し出すトロンから、カエラムは快くそれを受け取った。
ふと、コルネリアはかまどの横に置かれた小鍋に目を向けた。
先ほど作ったスープが、まだ少しだけ残っている。
「あの、トロンさん。もしよろしければ、温かいスープを召し上がっていきませんか? 血を流して、お体も冷えているでしょうから」
「えっ……し、しかし、俺のような薄汚い獣人が、貴族のお嬢様が作ったものをいただくわけには……」
「今の私はただの怪我人ですし、ここはただの診療所です。どうか、お気になさらず」
コルネリアは穏やかな微笑みを浮かべ、右手だけで器用に残りのスープを木皿によそい、トロンへと差し出した。
トロンは震える両手でその木皿を受け取ると、信じられないものを見るような目でコルネリアとスープを交互に見つめた。
やがて、彼は決心したように皿に口をつけ、一滴残らず胃の中へと流し込んだ。
「……温かい。本当に、温かいです。ごちそうさまでした。この御恩は、決して忘れません」
その灰色の毛に覆われた頬を、ひとしずくの涙が伝い落ちていた。
彼は深く何度も頭を下げながら、夜の森へと帰っていった。
静まり返った診療所の中、コルネリアは閉ざされた扉をじっと見つめていた。
ゼサリア・オル王国から追放され、すべてを失ったと思っていた。
自分の管理能力もしっかり者という性格も、権力の前では何の役にも立たないのだと絶望していた。
しかし今――自分がいれた一杯の簡素なスープで、見知らぬ誰かが涙を流して感謝してくれた。
自分の手助けが、誰かの命を繋ぐ確かな力になったのだ。
「私でも、誰かの役に立てる場所があるのですね」
ぽつりと漏れた彼女の呟きに、カエラムは本棚へ向かいながら振り返った。
「ここは森の吹き溜まりです。身分も種族も関係なく、ただ生きるためにここへ来る。あなたのような人がいてくれると、彼らも、私も、とても救われますよ」
アンバーの瞳が、真っ直ぐにコルネリアを捉えていた。
身に覚えのない罪で居場所を奪われた彼女にとって、その不器用で誠実な言葉は、どんな薬よりも深く心に浸透していく温かい処方箋だった。




