1 生活能力が皆無だわ……!
「コルネリア・ハグリッド! 貴様のその強欲で陰湿な本性にはもう我慢ならない! 国庫の金を横領し、あろうことかルチアーナを階段から突き落とそうとするとは……貴様との婚約は破棄し、ゼサリア・オル王国からの永久追放を申し渡す!」
豪奢な王城の謁見の間に響き渡った、元婚約者であるレイナールド王子の冷酷な声。
そして、彼にすがりついてわざとらしく涙を拭う男爵令嬢ルチアーナの歪んだ笑みを、コルネリアは今も鮮明に思い出すことができた。
王国の重鎮たちが冷ややかな視線を向ける中、大理石の冷たい床に膝をつかされたコルネリアは、ただ静かに目の前の理不尽な光景を見つめていた。
(横領したのはレイナールド殿下とルチアーナ様ですし、階段の件に至っては、清掃直後のワックスで足を滑らせたルチアーナ様を助けようと、私が手を伸ばしただけなのに……)
どれだけ真実を訴えようとも、ゼサリア・オル王国の誰一人として、コルネリアの言葉に耳を貸す者はいなかった。
本来であれば、コルネリアは持ち前のしっかり者の性格から、王子の散財の証拠を完璧に記録した裏帳簿を用意していたのだ。
領地の視察を怠り、毎晩のようにルチアーナへ高価な宝石を贈り続けていたレイナールドの愚行は、すべてその帳簿に緻密に記されていた。
――しかし、いざそれを国王陛下に提出しようとした朝、コルネリアの特異な性質である不運体質が最悪の形で発動してしまった。
突風で窓が開き、驚いたメイドが紅茶の入ったポットを取り落とし、中身が大きく跳ねて完璧に隠してあったはずの帳簿を直撃したのだ。
特殊なインクは見事に滲み、何ヶ月もかけて集めた決定的な証拠はただの真っ黒な紙くずと化してしまったのである。
昔からそうだった。
コルネリアの周りでは、天文学的な確率で不運な事故が起きる。
そのせいで彼女自身が痛い目を見るだけでなく、今回のように理不尽な濡れ衣を着せられることすらあった。
弁明の余地を物理的に奪われた彼女は、国家反逆にも等しい罪を着せられ、ただ着の身着のままで王都から追放されるしかなかったのである。
「はぁ……それにしても、随分と遠くまで来てしまいましたね……」
身の回りのわずかな品だけを持たされ、国境の門から放り出されて数日。
コルネリアは、太陽の光さえ遮られるほど鬱蒼と生い茂る、見知らぬ森の中を彷徨っていた。
美しく輝いていたホワイトブロンドの長い髪は、今は泥と木の葉にまみれてひどく絡まっている。
誇り高きペリドットの瞳も、連日の疲労と空腹で本来の光を失いかけていた。
特別に仕立てられた上質な伯爵令嬢のドレスは、容赦なく伸びる木の枝や鋭い棘に引っかかり、すでにボロボロの布切れ同然になっている。
(とにかく、水場を探さなくては。それに、夜露を凌げる場所も見つけないと、体力が持ちません。嘆いている暇があるなら、足を動かさないと)
絶望的な状況にあっても、コルネリアの理性が真っ当な生存戦略を弾き出す。
貴族の教養として学んだ地理や植生の知識を総動員し、生き延びるための最善手を模索し続ける。
周囲を注意深く観察し、獣道らしき少し開けた斜面を見つけた彼女は慎重に足を踏み出した。
――その時。
突然、頭上の枝から巨大な鳥が大きな羽音を立てて飛び立った。
不意の出来事に驚き、思わず一歩後ずさったコルネリアの踵が、奇跡的なバランスで斜面に引っかかっていただけの苔生した丸太を完全に踏み抜いた。
足場が滑り落ち、完全に消え去る。
緩やかな斜面だと思っていた場所のすぐ後ろは、切り立った崖だったのだ。
鳥に驚かなければ、そして丸太を踏まなければ、決して落ちるような場所ではなかった。
不運体質は、こんな生死の境目でも容赦なくコルネリアを襲う。
「え、嘘、ちょっと待ってくださ――」
悲鳴を上げる間もなく、コルネリアの身体は虚空へと投げ出された。
落下しながらも、彼女は頭と首だけは両腕で必死に庇った。
――直後、斜面に生えた木々に激突し、全身を打ち付ける鈍い衝撃が連続して襲いかかる。
左腕が不自然な方向に曲がる嫌な感触と、足を鋭い岩肌で切り裂かれる激痛。
凄まじい痛みに息が止まり、コルネリアの意識は抗う間もなく深い闇へと沈んでいった。
◇
――鼻腔をくすぐる匂いがした。
薬草の青臭さと、アルコールの鋭い匂い。
そして、長年換気されていない部屋特有の、古紙と埃が混ざったような空気。
コルネリアはゆっくりと重い瞼をこじ開けた。
視界に飛び込んできたのは、見知らぬ木造の天井だった。
状況を把握しようと身体を動かそうとした瞬間、左半身を走る痛みに思わず顔をしかめる。
しかし、不思議なことに激痛の走った左腕はすでに完璧な角度で添え木がなされて布で吊られており、切り裂かれたはずの左足のふくらはぎには、清潔で真っ白な包帯が幾重にも巻かれていた。
致命傷になりそうな出血もなく、右腕や上半身は問題なく動かすことができた。
「……おや。気がつかれましたか?」
不意に、部屋の隅から穏やかで、どこかのんびりとした声が響いた。
首だけを動かしてそちらを見ると、一人の男が木の椅子に深く腰掛けて、分厚い医学書らしき本を読んでいた。
肩のあたりまで無造作に伸びた翡翠色の髪は、まるで鳥の巣のように寝癖が爆発している。
丸メガネの奥にあるアンバーの瞳は知性を感じさせるものの、どこか焦点が合っておらず、ひどくぼんやりとした印象を与えた。
その下には無精髭がだらしなく生え揃っており、着ている白衣はいつ洗濯したのか分からないほどくしゃくしゃで、所々に謎の薬品のシミがついている。
「ここは……あなたは、どなたですか?」
「ええと……おはようございます、で合っているでしょうか? 外はもう夜ですが。私はカエラムと申します。この森の奥で、一応、医者のようなことをしておりまして……」
カエラムは手元の本に栞を挟むと、のっそりとした動作で立ち上がり、すり足でベッドに近づいてきた。
丸メガネの奥のアンバーの瞳が、コルネリアの全身の包帯を的確に観察する。
その視線だけは、先ほどのぼんやりした態度とは打って変わって、極めて鋭く専門的だった。
「薬草を摘みに行った帰り道、崖の下で血まみれになって倒れているあなたを見つけて、運んできたのですよ。左腕の尺骨の骨折に、左ふくらはぎの深い裂傷。それに全身の打撲と極度の疲労状態ですね。傷口の縫合と、骨を接いでの固定は完璧に終わらせておきましたから、安心してください。とはいえ、左半身はしばらく安静ですよ」
「治療していただいたのですね……助けていただき、本当にありがとうございます。私は、コルネリアと申します」
痛みを堪えながらも、コルネリアは伯爵令嬢としての矜持を保ち、丁寧にお礼を述べた。
左腕の骨を固定する絶妙な力加減といい、包帯からわずかに覗く芸術的なまでの縫合の跡といい、彼がただの村医者などではなく、王宮の専属医にも匹敵するほどの素晴らしい腕を持つ名医であることは、教養あるコルネリアにはすぐに理解できた。
「あの、治療費についてですが、私は今、身一つでして……」
「ああ、お金のことなら気になさらないでください。どうせこんな森の奥底では、お金があっても使い道がほとんどありませんから……それよりも……」
カエラムが何か言いかけた――その時だった。
空腹を訴えるひどく情けない音が、静かな部屋に大きく鳴り響いた。
コルネリアが驚いて目を丸くし、音の出所を探すと、先ほどまで名医の風格を漂わせていたカエラムが、突然膝から崩れ落ちてベッドの端に力なく突っ伏した。
「えっ……カ、カエラム先生!? どうかなさいましたか!?」
「すみません……少し、目眩が……その、最後に食事をとったのが……三日前だったか、四日前だったか……思い出せなくて……」
「……はい?」
カエラムは白衣のポケットからしわくちゃの硬貨を数枚取り出し、焦点の合わないアンバーの瞳で恨めしそうに見つめている。
「あなたの治療に集中していたら、食べるのを忘れておりまして……いえ、その前に食材を買いに行くのを忘れていたような気もします……ああ、もう指一本動かせません……」
「お、お医者様がご自身の体調管理を忘れて餓死しかけるなんて、冗談ですよね……?」
コルネリアは呆気にとられながらも、部屋の惨状を改めて見回した。
机の上には読みかけの医学書や薬草学の専門書が山のよう崩れかけ、床には空のマグカップや得体の知れない薬品が入ったフラスコが散乱している。
部屋の隅にある小さなキッチンスペースには、黒焦げになった鍋が放置され、シンクには洗われていない皿が塔のように積み上がっていた。
床には埃が積もり、いつから掃除をしていないのか見当もつかない。
(この方……医者としての腕は超一流なのに、生活能力が皆無だわ……!)
コルネリアのなかで、生来のしっかり者としての血が激しく騒ぎ出した。
自分の怪我の痛みよりも、この目の前の凄惨な惨状と、餓死寸前の命の恩人を放っておけないという衝動が勝ったのだ。
それに、理不尽に追放された自分にとって、ここを追い出されれば生きていく術はない。
ならば、己の存在価値をここで示すしかない。
幸いにも、右手は自由に動かすことができた。
「……カエラム先生。そこの戸棚に、日持ちのしそうな干し肉や豆は入っていませんか?」
「え……? あ、はい。たしか、少し前に村の人が治療のお礼にと置いていってくれたものが……」
「では、それを取り出してください。あと、お水と、そこの比較的綺麗な小鍋も」
「あ、はい……ですが、コルネリアさんは絶対安静で……」
「いいから! 早くしてくださいませ!」
ペリドットの瞳で力強く睨みつけられ、カエラムは小さく肩を揺らすと、這うようにして戸棚へ向かった。
コルネリアはベッドの上でゆっくりと上半身を起こし、カエラムが持ってきた干し肉を受け取ると、動く右手を使って手際よく細かく裂き始めた。
「私は手が動かせますから、下ごしらえをします。先生はそこのかまどで火を起こしていただけますか? お水からゆっくり煮出せば、弱った胃にも優しいスープができますから」
「ええと、火の起こし方は……あ、この火打ち石をこうして……」
カエラムはかまどの前に座り込んだものの、火打ち石の扱い方が分からないのか、虚空で不規則に石を打ち合わせているだけで一向に火花が散る気配がない。
手元が覚束ないその様子は、施されていた的確な治療手技からはまるで結びつかない別人のように映った。
あまりの不器用さに、コルネリアは困ったように微笑む。
「……先生、もう結構です。そのまま下がっていてください」
コルネリアは静かに右手を伸ばし、かまどの薪へと真っ直ぐに指先を向けた。
伯爵令嬢としての教養の一つである――簡易的な魔法。
彼女が頭の中で小さく呪文を唱え魔力を練り上げると、指先から真っ赤な炎がふわりと生み出され、迷うことなくかまどの薪へと燃え移った。
瞬く間に、部屋の中が燃える炎の暖かな光で照らし出される。
「おお……魔法、ですか。素晴らしい……」
「私が歩けるようになるまで、これ以上のゴミと洗い物は出さないでくださいね。あと、そのくしゃくしゃの白衣も、後で私が全部洗濯しますから!」
「は、はい……よろしくお願いいたします……」
身に覚えのない罪で国を追われた不運な伯爵令嬢と、医療技術以外の一切の生活能力が欠如した腕利きの医者。
奇妙で――しかし、どこか互いの欠けた部分を補い合うような二人の共同生活は、こうして慌ただしく幕を開けたのだった。
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