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27 どうか、遠慮なさらずに身を任せてください

 長い冬が完全に終わりを告げ、森の木々が一斉に生命力に溢れる若葉を芽吹かせる季節。

 雪解け水が小川を満たし、鳥たちが春の到来を謳歌するこの時期は、同時に人々の身体に予期せぬ不調をもたらす過酷な季節でもあった。


 朝晩の激しい寒暖差は人々の自律神経を容赦なく乱し、原因不明の深い倦怠感や微熱を伴う春のほとぼりと呼ばれる症状を引き起こす。

 さらに、強い春風が遠方の乾いた土地から運んでくる目に見えない砂埃や、森の植物が一斉に放つ花粉は、人々の気管支や鼻腔を激しく刺激した。


 カエラムの誕生日の余韻も冷めやらぬ数日後、森の診療所は朝から戦場のような忙しさに見舞われていたのである。

 近隣の農村や、環境の劣悪な貧民区から、止まらない咳に苦しむ子供や、熱で足元をおぼつかせた老人たちが藁にもすがる思いで次々と助けを求めて押し寄せてきた。


 カエラムは休む間もなく診察を続け、一人一人の症状に合わせた薬草を的確に調合していく。

 コルネリアもまた、彼の指示を先読みして薬草をすり鉢で挽き、不安に震える患者たちに温かい白湯を配り歩いた。


 彼女の特異な不運体質により、薬草の入った籠を傾けてしまったり、白湯の入った盆を滑らせそうになったりする小さな不運は幾度か発生した。

 しかし、彼女の持ち前の機転と、周囲の患者たちの温かな手助けもあり、大事に至ることなく業務は進められていった。


 太陽が西の山へ完全に姿を消し、森が深い夜の闇に包まれた頃。

 ようやく最後の患者を見送り、診療所の分厚い木の扉に休診の木札が掛けられた。


 怒涛のような一日を終えた二人は、疲労困憊の身体を引きずるようにして、診療所の裏手にある天然の温泉へと向かった。

 先に湯浴みを済ませたカエラムが室内に戻り、続いてコルネリアが春の夜の冷気に身を縮めながら岩風呂の湯へと身を沈める。

 大地の奥深くから湧き上がる莫大な熱が、芯まで冷え、強張った身体をゆっくりと解きほぐしていくのを感じる。

 立ち昇る白い湯気を見上げながら、コルネリアは充実した一日の労働の余韻に浸っていた。


 コルネリアが湯から上がり、うっすらと湯気を纏いながら診療所の中へ戻ると、そこには一日中張り詰めていた緊張の糸が途切れ、長椅子に深く腰掛けたまま微睡みの淵に沈みかけているカエラムの姿があった。

 彼はうとうとと首を揺らしながらも、顔にかけていた丸メガネを外し、机の上に置かれていた小さな布製の袋へと慎重にしまい込んでいた。


 それは、数日前の彼の誕生日に、コルネリアが診療所の余り布を使って手縫いした特製のメガネケースである。

 不格好な縫い目の隅には、寝癖を跳ねさせたカエラムの似顔絵の刺繍が施されている。

 彼はその自作の贈り物を何よりも大切に扱い、宣言した通り、眠りにつく前には必ずそのケースへメガネを収めることを新たな日課としていたのだ。


 自分が一針一針心を込めて作ったものを、彼が慈しむように日常使いしてくれている。

 その光景を目の当たりにし、コルネリアの胸の奥に温かな幸福感がふわりと広がる。

 彼女は薬缶から温かい白湯を湯呑みに注ぐと、足音を忍ばせて彼の傍らへと歩み寄った。


「カエラム先生。今日も一日、本当にお疲れ様でした。たくさんの患者さんたちが、先生のおかげで笑顔を取り戻して帰っていきましたね」


 コルネリアが労いの言葉とともに湯呑みを差し出すと、カエラムは微睡みから意識を引き戻し、照れくさそうに無精髭の生えた顎を撫でた。


「ありがとうございます、コルネリアさん。あなたという優秀な助手がいてくれたからこそ、今日のあの人数を乗り切ることができたのです。私一人であれば、到底手が回らなかったでしょう」


 カエラムは湯呑みを受け取り、温かい白湯で喉を潤した。

 そして、大きく息を吐き出すと、首筋を押さえながら肩を大きくぐるぐると回した。


 一日中、前傾姿勢で患者の喉の奥を覗き込み、重いすり鉢で薬草をすり潰し続けていた彼の肩と首は、まるで硬い石のように凝り固まっていた。

 関節が重く軋むような感覚に、彼は思わず眉間に皺を寄せる。


 その痛々しい様子を見かねたコルネリアは、空になった湯呑みを机に置くと、彼の背後へと静かに回り込んだ。


「先生、随分と肩が張っていらっしゃるようですね。よろしければ、私が少し揉み解しましょうか」


「えっ……いや、しかし。あなたも一日中立ち働いて疲れているはずです。それに、伯爵家の令嬢であったあなたに、そのような真似をさせるわけには……」


 カエラムは慌てて振り返ろうとしたが、コルネリアは彼の両肩にそっと両手を置き、その動きを制止した。


「私は今、伯爵家の令嬢ではなく、先生の助手です。それに、私の疲労など、先生のそれに比べれば微々たるもの。どうか、遠慮なさらずに身を任せてください」


 彼女の有無を言わさぬ優しい強引さに、カエラムは観念したように息を吐き、再び前を向いて姿勢を正した。

 コルネリアの細く白い指先が、布越しにカエラムの広い肩幅へと沈み込む。

 王都の屋敷にいた頃には決して行うことのなかった労働だが、診療所での日々の家事や薬草の仕分けによって、彼女の指先には見かけによらない確かな筋力が備わっていた。


 凝り固まった筋肉の繊維を的確に捉え、心地よい圧力をかけてゆっくりと解していく。

 その絶妙な力加減に、カエラムの口から深い吐息が漏れた。


 ――しかし、彼の純粋な休息の時間は、ほんの数分で終わりを告げることとなる。


 マッサージのために至近距離に立つコルネリアの身体から、圧倒的な魅力を持った香りがふわりと漂ってきたのだ。

 それは、先ほどまで浸かっていた天然の温泉が持つ微かな鉱物の匂いと、診療所で使われている素朴な石鹸の香り。

 そして何よりも、コルネリアという女性自身が生まれ持った、甘く柔らかな香りだった。


 湯上がりの熱気を帯びた彼女の身体から立ち昇るその香りは、春の夜の冷気を塗り替えるようにして、カエラムの鼻腔を容赦なくくすぐり、彼の脳髄を直接揺さぶってきた。

 さらに、彼女が力を込めて肩を揉むたびに、彼女の胸元や腕が彼の背中や肩口に微かに触れそうになる。

 彼女のホワイトブロンドの髪から滴る水滴の気配すら感じられるほどの至近距離。


 つい先ほどまでカエラムの全身を覆い尽くしていた強烈な眠気と疲労感は、今や完全にどこかへ吹き飛んでいた。


(近すぎる……いくらなんでも、無防備すぎるだろう……!)


 カエラムの顔面は、暖炉の火の熱とは全く別の理由でじわじわと朱に染め上げられていく。

 平静を装おうと必死に呼吸を整えるが、胸の奥で暴れる心臓は爆発しそうなほど激しく跳ね上がり、今にも肋骨を突き破って飛び出してしまいそうであった。


「力加減は、いかがですか? 痛くはありませんか?」


 コルネリアが、彼の顔をそっと覗き込むようにして尋ねてきた。

 澄み切ったペリドットの瞳が、すぐ目の前で彼を見つめている。

 その瞳の中には、ただ純粋に、恩人である彼の疲労を取り除きたいという無垢な献身だけが満ちているのだ。


 だからこそ――下心によって一人で勝手に激しく動揺している自分がひどく情けなく、同時にこれ以上ないほど彼女の存在が愛おしく感じられた。


「……ええ。とても心地よいです。あなたの手は、どんな名薬よりも効果的ですね」


 カエラムはどうにか声を絞り出し、余裕を取り繕った返事をした。

 ――しかし、その声が微かに上ずってしまったことは、誤魔化しきれていなかったかもしれない。


「本当ですか? 良かったです。それでは、もう少しだけ続けておきますね」


「あ、いえ……その、もう十分に……」


 カエラムの微弱な抵抗も虚しく、コルネリアは嬉しそうに微笑みながら、さらに丁寧に彼の首筋から肩甲骨にかけて揉みほぐし始めた。


 春の夜風が診療所の窓を優しく揺らす中、甘く心地よい香りに包まれたカエラムの長く過酷な葛藤の時間は、もうしばらくの間、終わる気配を見せなかった。

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