26 お誕生日おめでとうございます!
窓の外では厚い氷の束縛から解き放たれた小川が、春の目覚めを告げる清らかな水の調べを奏でている。
森の木々は、冬の眠りから覚めたばかりの微かな芽吹きの色を帯び、空気の中には冷たさの中に混じる柔らかく湿った土の香りが漂っていた。
春の陽光が東の空を白ませ始めた頃、コルネリアは誰よりも早く、その瞼を静かに持ち上げた。
今日は、この診療所の主であり、彼女を絶望の淵から救い出してくれた恩人であるカエラムの誕生日である。
コルネリアは隣の寝台で未だ深い微睡みの中にいるカエラムを起こさぬよう、ふわっと軽い足取りで床に降り立った。
彼女はまず、この日のために用意していた計画の第一段階に取り掛かった。
本来であれば、街へ出向いて彼に相応しい最高級の品を選びたかった。
しかし、この辺境の森を彼女が一人で歩けば、心配性のカエラムは間違いなく顔を青ざめさせて反対するだろう。
かといって彼を伴って街へ行けば、誕生日のサプライズを演出することは叶わない。
――だからこそ、彼女は診療所にある限られた材料を使い、自らの手で彼への祝福を形にすることを決めたのである。
まずは、殺風景な診療所に彩りを添える作業から始めた。
彼女は前日の夕刻、薬草摘みの合間にこっそりと集めておいた春の野花を取り出した。
雪解けの直後に力強く顔を出した、名もなき小さな黄色や白色の花々。
それらを診療所にあった古い薬瓶や小瓶にいくつも生け、カエラムがいつも座る机の上や、窓際に等間隔で並べていく。
続いて、彼女はこの日のために温めてきた特別な献立の調理に入った。
並べられる料理はすべて、この数ヶ月の共同生活で彼女が把握したカエラムの好物ばかりである。
彼女が今回の主役として選んだのは、甘い菓子を好まない彼のために、ケーキの代わりとして用意した特製のキッシュだった。
小麦粉を練り上げた生地を薄く伸ばし、その中にたっぷりの卵液と、香ばしく炒めた厚切りベーコン、そして春の苦味を微かに含んだ山菜を閉じ込める。
かまどの火でじっくりと加熱していくと、やがて診療所の中に、食欲を強く刺激する芳醇な薫りがふわりと広がり始めた。
キッシュを焼く傍ら、彼女はさらに彼が喜ぶであろう料理を仕上げていく。
一皿目は、白かぶを主役にしたグリル野菜のサラダである。
コルネリアはかぶを皮付きのまま厚切りにし、鉄の平鍋に並べる。少量の油を馴染ませ、強めの火で表面を焼き上げると、白かった身は瞬く間にきれいなきつね色の焦げ目を帯び、内部の水分が凝縮されて瑞々しい光沢を放ち始めた。
二皿目には、川で獲れた新鮮な白身魚のグリル。
そして三皿目には、大地のエネルギーが詰まった根菜をふんだんに使った温かい汁物を用意した。
診療所の中が、生命力に満ちた料理の匂いで完全に満たされた頃――。
部屋の奥にある寝台から、衣擦れの音とともに、掠れた呻き声が聞こえてきた。
「……おはようございます、コルネリアさん。今日は随分と、食欲をそそる香りがしますね」
カエラムが、翡翠色の髪を四方八方に散らした凄まじい寝癖のまま、目をこすりながら起きてきた。
丸メガネは枕元に置かれたままであり、アンバーの瞳は焦点が定まらず、とろんと微睡んでいる。
彼はのっそりと食卓へと近づき、そこに並べられた野花と、湯気を立てるご馳走の数々を前にして――文字通り絶句した。
「カエラム先生、おはようございます。そして、お誕生日おめでとうございます!」
コルネリアは、至近距離まで顔を近づけ、心からの微笑みを湛えて彼を見上げた。
カエラムは自身の寝癖を隠すことも忘れ、呆然としたまま、何度も瞬きを繰り返した。
「……誕生日。ああ、そうでしたか。今日は、私の生まれた日でしたね」
自分のことには驚くほど無頓着な彼は、コルネリアに指摘されるまで、その事実を完全に失念していたようであった。
彼は照れくさそうに丸メガネを顔にかけ直し、促されるままに席に着いた。
二人は向かい合い、手を合わせて朝の食事を開始した。
カエラムはまず、厚切りにされたグリル野菜のかぶを口に運んだ。
歯を立てた瞬間に、閉じ込められていた熱い果汁が口の中に溢れ出し、かぶ特有の濃厚な甘みと、香草の爽やかな香りが鼻腔を抜けていく。
「……美味しいです。素材の味が、これほどまでに力強く感じられるとは。そして、このキッシュ。私の好みをこれほどまでに汲み取っていただけるとは、思ってもみませんでした」
カエラムは、ケーキの代わりとして焼かれたキッシュの、塩気と卵のコクが調和した味わいに深く感動したようであった。
一口ごとに、その味を確かめるように深く頷く。
かつて冷たい缶詰や生の野菜だけで命を繋いでいた彼にとって、自分のために誰かが火を熾し、丹精込めて作り上げた温かな食事は、何よりも贅沢な祝福であった。
食事が終わり、温かい茶で一息ついたところで、コルネリアは自身の背中に隠していた小さな包みを取り出した。
「先生。街へ買い出しに行くことは叶いませんでしたので、診療所の余り布を使って、私なりに用意させていただきました。不格好なものですが、どうか受け取ってください」
彼女が差し出したのは、厚手の丈夫な布と、端切れの革を組み合わせて作られた、手縫いのメガネケースだった。
カエラムは時折メガネをかけたまま寝落ちしてしまい、その繊細なフレームを歪ませてしまうことがある。
それを案じていたコルネリアが、数夜にわたって灯りの下で一針一針、丁寧に縫い上げたものである。
ケースの隅には、細やかな刺繍が施されていた。
それは、丸メガネをかけ、寝癖を跳ねさせたカエラム自身の似顔絵を象ったものであった。
不器用ながらも、彼の特徴を捉えようと懸命に針を動かした跡が見て取れる。
不運体質ゆえに製作中には何度も指先に針を刺し、微かな血の滲みを残してしまったが、彼女はその痛みさえも彼への贈り物の一部であるかのように慈しんで完成させたのだ。
カエラムはその手作りの品を両手で受け取り、その表面を指先でなぞった。
一針ごとに込められた彼女の途方もない時間と、自分を想う純粋な真心を、彼はその指先の感覚だけで全て理解してしまった。
コルネリアの指先にはいくつもの小さな傷跡があり、それを隠すようにして彼女は自らの手を重ねている。
「……王都のどんな名工が金や宝石を散りばめて作った品よりも、今の私には、これが世界で最も価値のある宝物です。これからは、眠る前に必ずこのケースへ入れることをお約束しましょう」
カエラムの声は、微かに震えていた。
彼はメガネケースを胸元に寄せ、一生離さないと誓うかのように――その温もりを噛み締めた。
左手首で輝くプラチナのブレスレットを揺らしながら、満足げに微笑むコルネリア。
そして、手作りの似顔絵入りの贈り物を、まるで壊れ物を扱うかのように大切に握りしめるカエラム。
窓から差し込む春の陽光が、二人の姿をどこまでも優しく照らし出していた。
外では春の風が吹き抜け、若草の香りが満ち溢れている。
診療所の中に流れる時間は、春の陽だまりのように温かく、二人の穏やかな笑みと共に、どこまでも美しく輝き続けていた。




