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25 離れたくないです

 長く厳しかった冬がようやく終わりを告げようとしていた。

 森を覆い尽くしていた分厚い雪は少しずつ水へと姿を変え、屋根の庇からは雪解け水が絶え間なく滴り落ちている。


 春の足音が確実に近づいている穏やかな昼下がり、診療所の重い扉が開かれた。


「いやはや、油断したよ。雪の下で凍っていた泥に足を取られて、派手に転んじまってね」


 そう言って足を引きずりながら入ってきたのは、近隣の貧民街を拠点に各地を行商して回っている逞しい女性――ウラカだった。

 彼女は分厚い外套の雪を払い、カエラムに促されるまま窓際の寝台へと腰を下ろした。


 カエラムは手早く彼女の衣服を捲り上げ、赤く腫れ上がった膝の関節を慎重に触診する。

 骨に異常がないことを確認すると、彼は鎮痛と消炎の効果がある薬草の練り薬を布に厚く塗り、手慣れた動作で患部をしっかりと固定した。


「数日は長歩きを控えてください。冷やさないように気をつければ、すぐに痛みは引くはずです」


「ありがたいね。さすがはカエラム先生だ、痛みがすうっと引いていくのが分かるよ」


 ウラカは豪快に笑い、懐からごそごそと小さな紙包みを取り出した。


「これは治療代と、いつも世話になっているお礼さ。遠方の異国の商人から仕入れた、特別な甘味でね。疲れた身体には、こういうのが一番効くのさ」


 ウラカが机の上に置いたのは、無骨でごろっとした大きな塊のチョコレートだった。

 表面は少し不揃いで、カカオの濃厚な香りが紙越しにもふわりと漂ってくる。


 カエラムとコルネリアは、すっかり足取りが軽くなったウラカを入り口で見送り、再び診療所の中へと戻った。


 机の上に残された異国の菓子を見つめ、コルネリアのペリドットの瞳がこれ以上ないほどにきらきらと輝いていた。

 実は、彼女は大変な甘党である。

 ゼサリア・オル王国の伯爵邸で暮らしていた頃は、甘い焼き菓子や果物の砂糖漬けを好んで食べていたが、この辺境の森に来てからは、そうした高級な嗜好品を口にする機会はほとんどなかったのだ。


「コルネリアさん。私は甘いものが少し苦手ですので、よろしければあなたがすべて食べてください」


 視線でチョコレートをじっと追う彼女の分かりやすい反応に、カエラムは口元を綻ばせて勧めた。


「よろしいのですか? それでは、お言葉に甘えて一ついただきますわ」


 コルネリアは弾むような声で答え、大きなチョコレートの塊を両手で丁寧に持ち上げ、端の方を小さく齧った。

 口の中の温度で滑らかに溶け出す、濃厚なカカオの風味と強烈な甘み。

 長らく忘れていた贅沢な味わいに、彼女はほうっと恍惚とした吐息を漏らし、瞬く間にその大きな塊を平らげてしまった。


 ――それから、一時間ほどが経過した頃だろうか。


 薬草を種類ごとに仕分けし、棚に並べる作業をしていたコルネリアの様子が、どうもおかしいことにカエラムは気がついた。

 いつもなら手際よく作業を進める彼女の手元がひどく覚束なく、同じ薬草の束を何度も持ち直しては、首を傾げている。


「コルネリアさん? どうかしましたか。ひょっとして、どこか具合でも……」


 心配になって近づいたカエラムは、振り返った彼女の顔を見て息を呑んだ。

 彼女の透き通るような白い頬から耳の先までが、不自然なほど真っ赤に染まっている。

 さらに、瞳の焦点が定まっておらず、水気を帯びてとろんと潤んでいたのだ。


「カエラム先生ぇ……?」


 彼女の口から零れたのは、普段の端正な発音とは似ても似つかない、語尾が甘く伸びたふにゃふにゃとした声であった。

 熱でも出したのかと慌てて額に手を伸ばしかけたカエラムの鼻腔を、強烈なアルコールの香りが刺激した。

 彼女の甘い吐息に、度数の高い酒の匂いがたっぷりと混ざり込んでいる。


「まさか、先ほどのチョコレートに……洋酒が仕込まれていたのか!」


 異国の菓子には、寒さを凌ぐために強い酒を閉じ込めたものが存在する。

 しかし、すべての粒に入っているわけではないはずだ。

 彼女生来の不運体質が、よりによって一番酒の強い塊を見事に引き当ててしまったのだと、カエラムはすべてを理解して顔を青ざめさせた。


「コルネリアさん、あなたは今、強いお酒に酔っています。すぐに水を飲んで、横になりなさい」


 カエラムが真剣な声で諭そうとするが、完全に酔いが回ってしまった彼女の耳には届いていなかった。

 そのうえ、彼女の奥底に眠っていたとてつもなく素直で甘えん坊な一面が顔を出してしまったのだ。


「お酒なんて、飲んでないですよう……ただ、少しだけ、ふわふわしているだけで……」


 コルネリアはへらりと笑い、そのままカエラムの胸元へと倒れ込んできた。

 慌てて彼女の肩を抱き留めると、彼女は両手でカエラムのくしゃくしゃの白衣の袖をぎゅっと掴み、彼に自身の体重のすべてを預けてくる。

 腕の中にすっぽりと収まり、彼女は至近距離でカエラムの顔を見上げた。


「先生の髪、いつも寝癖がついてて……ふわふわしてて、すごく可愛いです……」


 とろんとした瞳で見つめられながら、彼女の細い指先が、カエラムの翡翠色の髪にそっと触れる。

 普段は絶対にそんなことをしない彼女のあまりにも大胆な行動に、カエラムの心臓は破裂しそうなほど激しく跳ね上がった。


「コ、コルネリアさん、近いです。離れてください、これは……私にとって、非常に心臓に悪いです」


 カエラムは自らの理性を総動員して彼女を引き剥がそうとするが、酔っ払った彼女の力は意外にも強く、白衣を掴む手はまったく緩まない。


「嫌です。離れたくないです……先生は、いつも私に優しくしてくれて……私の居場所を作ってくれて……本当に、ありがとうございます……」


 甘えたような声の奥に、彼女の心からの感謝と、嘘偽りのない好意が滲み出ていた。

 その言葉の破壊力は凄まじく、カエラムの理性の防壁を容易く粉砕していく。


 相手は酒に酔い、判断力を失っているのだと自分に言い聞かせなければ、今すぐ彼女を強く抱きしめ返してしまいそうになるほどの猛烈な愛おしさが胸に込み上げていた。


「分かりました、分かりましたから。お願いですから、少しだけ座ってください」


 カエラムは半ば懇願するように言いながら、彼女の身体を支えたまま、ゆっくりと長椅子の方へと移動した。

 彼女を長椅子に座らせると、すぐさま水差しから温かい白湯を注ぎ、彼女の口元へ運ぶ。


「ゆっくりでいいですから、これを飲んでください。アルコールを薄めないと」


 コルネリアは促されるままにこくりこくりと白湯を飲み下した。

 水分を補給したことで少しだけ落ち着いたのか、彼女は長椅子の背もたれに深く寄りかかり、ふうっと長く安堵の息を吐き出した。


 そして、カエラムの右腕を自らの両腕でしっかりと抱きかかえたまま、ゆっくりと瞼を閉じ、やがてすやすやと安心しきった規則正しい寝息を立て始めた。


「……やっと、眠りましたか」


 カエラムは額に浮いた汗を拭い、疲労と緊張が入り混じったため息を吐き出した。

 自分の右腕は完全に彼女の腕の中に捕らえられており、身動きが取れない。

 しかし、彼にその腕を振り解く気は毛頭なかった。


 カエラムは空いている左手を伸ばし、傍らにあった毛布を彼女の肩へとかけてやる。

 そして、そのまま身をかがめ、至近距離で彼女の寝顔をまじまじと観察した。


 起きている時も十分に美しいが、こうして無防備に眠っている彼女の顔は、驚くほど愛らしかった。

 閉じられた瞼から伸びる長いまつ毛が、白い肌に柔らかな影を落としている。


 白湯を飲んで少し潤いを取り戻した唇は微かに開き、そこから穏やかな寝息が規則正しく漏れ出ている。

 アルコールの影響でまだほんのりと朱に染まっている頬が、彼女の普段のしっかりとした印象とは異なる、年相応のあどけなさを際立たせていた。


 カエラムは彼女の寝顔をじっと見つめながら、自らの胸の奥にどこまでも深く、静かに広がっていく温かな感情を噛み締めていた。

 彼女が酔った勢いで見せてくれた、底抜けに素直な好意と甘え。

 それは、彼女がこの場所と自分に対して、一切の警戒心を解き――心の底から安心しているという何よりの証拠であった。


 不運を引き寄せてしまう彼女の体質には度々驚かされるが、その結果としてこんなにも愛おしい彼女の一面を見ることができたのだから、今日に限ってはその体質に感謝すべきかもしれない。


「本当に……あなたは、私をどうしたいのでしょうか」


 誰に聞かせるわけでもない小さな呟きが、静かな診療所の空気に溶けていく。


 雪解けの足音が聞こえる穏やかな午後。

 甘いチョコレートの香りが微かに残る室内で、カエラムは右腕に伝わる彼女の確かな体温を感じながら、眠りから覚めるまでの静かで幸福な時間を、ただ優しく見守り続けていた。

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