24 今度は私たちが、この場所から温かい光を灯し続けましょう
空から舞い落ちる無数の白い結晶が、森の木々や建物の輪郭を白く塗り替えていく冬の日。
診療所の中は暖炉の火によって心地よい温度が保たれ、薬草を煮出す微かな香りが満ちていた。
誕生日の夜、カエラムからプラチナのブレスレットを贈られてから数日が経過していた。
しかし、コルネリアの胸の奥で打ち鳴らされる幸福な動悸は、未だに収まる気配を見せていない。
彼女は乾燥させた薬草の葉を指先で選別しながら、数分に一度の頻度で自らの左手首へと視線を落としていた。
麻の衣服の袖口から覗く、気高い輝きを放つプラチナの鎖。
そして、その中央で自らの瞳と同じ色を主張する、澄み切った緑色のペリドット。
金属の冷たい感触が肌に触れるたび、自分をこの上なく大切に想い、守り抜くと誓ってくれたカエラムの言葉が脳裏に蘇る。
その事実を再確認するたびに、彼女の頬は自然と緩み、慈しむような微笑みが唇から零れ落ちてしまうのだ。
部屋の反対側にある机では、カエラムが分厚い医学書を開いていた。
しかし、彼もまた活字の羅列を追うことを半ば放棄し、背中を向けて作業をする助手の姿を時折盗み見ては、口元に安堵の笑みを浮かべていた。
彼が贈ったブレスレットは、彼女の作業の邪魔になることなく、確実に彼女の日常に溶け込んでいる。
平和で幸福な沈黙が流れる中、診療所の重い木の扉が数回、控えめに叩かれた。
こんな吹雪の日に訪れる患者がいるのかと、カエラムは手元の羽ペンを置き、丸メガネの奥の目を鋭くして立ち上がる。
コルネリアもまた、すぐさま治療の補助ができるよう布と湯の準備に取り掛かった。
かんぬきを外し、扉を開け放つ。
そこに立っていたのは、深刻な怪我人でも重病の患者でもなかった。
頭と肩に大量の雪を積もらせ、寒さで鼻の頭を赤く染めた、貧民区に住む少年――ニコであった。
「先生、お姉ちゃん! こんにちは!」
ニコは茶色い髪に積もった雪を両手で払い落とし、空色の瞳に強い期待の光を宿して二人を見上げた。
顔色も良く、どこにも怪我を負っている様子はない。
「ニコ君。こんな大雪の日に、一体どうしたのですか? どこか痛むところでもありますか?」
カエラムが目線を合わせるように膝をついて尋ねると、ニコは元気よく首を横に振った。
「ううん、どこも痛くないよ。今日は雪がすごくたくさん降ってて綺麗だから、先生たちと一緒に雪だるまを作りたくて来たんだ!」
怪我の治療でも薬の処方でもなく、ただ雪遊びをするための来訪。
予想外の目的に、カエラムはわずかに目を丸くした。
普段であれば、いつ重篤な患者が運び込まれてくるか分からないため、医師としての待機を優先するところである。
しかし、窓の外で荒れ狂う猛烈な雪を見れば、遠方からの患者の来訪は到底見込めない。
カエラムは背後のコルネリアを振り返り、困惑と優しさが入り混じった笑みを向けた。
「たまには、こういう休日を過ごすのも悪くないかもしれませんね」
「ええ。私も、雪だるま作りはお手伝いいたしますわ」
三人は厚手の外套を羽織り、革の靴を履いて雪の積もる庭へと出た。
新雪は膝の高さまで積もり、歩くたびに重い音を立てる。
ニコの指揮のもと、カエラムが土台となる大きな雪の塊を作り、それを庭の端から端まで転がして巨大化させていく。
コルネリアもまた、頭部のための雪玉を作り、両手で形を整え始めた。
ゼサリア・オル王国の伯爵邸にいた頃、雪に触れて遊ぶことなど「貴族の令嬢たるもの、はしたない」という理由で厳しく禁じられていた。
不運体質である彼女が外に出れば何らかの事故を招くという両親の偏見も加わり、彼女は常に暖炉のある部屋から窓越しの雪景色を眺めることしか許されていなかったのだ。
しかし今、彼女は自らの手で雪の冷たさを感じ、呼吸を白く染めながら、無邪気な少年と共に雪玉を転がしている。
冷たい雪が衣服に付着することも気にせず、完成に近づく造形物に歓声を上げる彼女の姿は、年齢相応の本来の輝きを取り戻しているように見えた。
カエラムは、無精髭の生えた顎を撫でながら、雪玉を転がす彼女の姿を見つめていた。
王都での抑圧された記憶から解放され、彼女が真の自由を謳歌している事実が、何よりも彼自身の凍てついていた心を柔らかく解かしていく。
「よし、頭を乗せるよ! 先生、手伝って!」
ニコの掛け声に合わせ、カエラムが巨大な雪の頭部を持ち上げ、土台の上へと設置した。
コルネリアが森で拾い集めてきた黒い石を並べて目と口を作り、ニコが太い木の枝を両腕に見立てて突き刺す。
最後に、カエラムが不要になった古い布を首元に巻きつけ、大人の背丈ほどもある巨大な雪だるまが完成した。
「すごい! 俺の村にある家より大きいかもしれない!」
ニコは茶色い髪を揺らしながら、完成した雪だるまの周囲を飛び跳ねて喜んだ。
その瞳には一点の曇りもなく、純粋な歓喜だけが満ち溢れていた。
――やがて、分厚い雲の向こう側で太陽が傾き始め、森が薄暗い影に覆われ始める時刻となった。
「もう帰らなくちゃ。先生、お姉ちゃん、今日は遊んでくれてありがとう!」
ニコは深く頭を下げ、貧民区へと続く森の獣道へ向かって駆け出した。
カエラムとコルネリアは、彼の小さな背中が雪の白さに溶けて見えなくなるまで、無言で手を振り続けて彼を見送った。
診療所の中へ戻り、冷え切った身体を暖炉の火に近づける。
コルネリアは自身の左手首のプラチナを無意識に撫でながら、先ほどまで庭で飛び跳ねていた少年の姿を思い返していた。
「……先生。ニコ君は、この猛吹雪の中を、たった一人で歩いてきたのですよね」
コルネリアの問いかけに、カエラムは薪をくべる手を止め、静かに頷いた。
「以前、彼のご両親は小さな農家を営んでいたものの、不作が続いて土地を失い、貧民区へ流れ着いたとお話ししましたね。ご両親は、今も忙しくされているのでしょうか?」
「ええ。貧民区でその日の食糧を得るためには、過酷な日雇い労働を掛け持ちしなければなりません。彼のご両親も、日が昇る前から深夜まで、泥に塗れて働き続けています」
カエラムの顔には、医者としての無力感と、社会の構造に対する深い憂いが刻まれていた。
コルネリアは、ニコの空色の瞳を思い出した。
あの明るく無邪気な笑顔の裏側には、広大な貧民区で両親の帰りを一人で待ち続ける、果てしない孤独の時間があったのだ。
彼が怪我や病気でなくてもこの診療所を訪れるのは、雪遊びをしたかったからだけではない。
自分に温かい言葉をかけ、名前を呼んでくれる大人の存在を求め、小さな寂しさを埋めるための切実な行動であった。
「……王都は、信じられないほどの富と光で溢れていました。ですが、その足元には、ニコ君のような小さな子供たちが、温かい夕食さえ保証されない環境で生きているのですね」
コルネリアの言葉は、悲痛な響きを帯びていた。
自らもまた、家族からの愛情を剥奪され、孤独の淵を歩んできた人間である。
だからこそ、あの少年の抱える言葉にならない空虚さが、痛いほどに理解できた。
「貧民区は、この社会で行き場を失った者たちが最後に辿り着く、巨大な吹き溜まりです。政治の腐敗や不作、あるいは病によって居場所を失った人々が、肩を寄せ合って命を繋いでいる……私は医者として、彼らの肉体の傷を治すことはできても、その過酷な現実そのものを変える力は持っていません」
カエラムは悔しさを滲ませて両手を強く握り締めた。
「ですが、先生」
コルネリアは彼に歩み寄り、自らの左手を彼の大きな手の上に重ねた。
彼女の瞳には、かつての自分と同じように孤独に怯える者たちを放っては置かないという、強靭な意志の光が宿っていた。
「私たちは、彼らの生活のすべてを救うことはできないかもしれません。それでも、この森の診療所が、傷ついた人々や寂しさを抱えた子供たちにとって、いつでも暖炉の火が点いている帰る場所であり続けることはできます。私が先生に救われたように、今度は私たちが、この場所から温かい光を灯し続けましょう」
カエラムはその言葉に救われたように目を細め、彼女の左手を強く握り返した。
外では雪が降り積もり、ニコと一緒に作った巨大な雪だるまが、暗闇の中で静かに森の入り口を見守っている。
世界の残酷な影を前にしても、二人の心に灯った確かな光は、これからの厳しい冬の季節を乗り越えるための強固な道標として、決して揺らぐことはなかった。




