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23 ずっとずっと、大切にします

 厚い雲が空を覆い、森の木々が重い雪の重みに耐えている冬の朝。

 診療所の暖炉には新しい薪がくべられ、室内に心地よい温もりを提供していた。


 朝食の片付けを終えたばかりの時刻、カエラムは普段着用しているくしゃくしゃの白衣ではなく、外出用の分厚い外套を羽織って入り口の扉の前に立っていた。


「コルネリアさん。大変申し訳ないのですが、少し街まで急ぎの所用ができてしまいました。薬草の整理などをお願いしたまま、留守を頼んでもよろしいでしょうか?」


 彼の翡翠色の髪はいつも通りに跳ねていたが、丸メガネの奥にあるアンバーの瞳はどこか落ち着きがなく、視線を不自然に泳がせている。

 コルネリアは不思議に思いながらも、深く頷いて彼を見送った。


 重い木の扉が閉まり、診療所の中に一人残されたコルネリアは、薬草の葉を仕分ける作業に取り掛かった。

 手元に視線を落としながら、彼女の胸の奥では小さな期待と高揚感が小気味良い律動を刻んでいた。


 今日は、彼女がこの世に生を受けた記念日。

 誕生日である。


 氷の張った湖沼こしょうに出かけたあの日、彼は「今年の誕生日は精一杯のお祝いを用意する」と約束してくれた。

 あの真面目で誠実な彼が、自らの言葉を忘却するはずがない。


 先ほどの不自然な外出は、もしかすると自分のために何かを用意しに行ってくれたのではないか。

 その想像に行き着くたびに、自然と笑みが零れ落ちる。


 ゼサリア・オル王国の伯爵邸で暮らしていた頃の誕生日は、彼女にとって一年で最も空虚な一日であった。

 豪奢な大広間には、国中から集められた希少な美食と、目を眩ませるような宝石を身につけた貴族たちが溢れ返っていた。

 しかし、主役であるはずの彼女は不運を招く忌み子として常に広間の片隅に追いやられ、両親からさえも温かい言葉一つかけられることはなかった。


 権力と金に群がる人々の偽りの祝辞よりも、今この辺境の森の診療所で、土と薬草の匂いに囲まれながら彼の帰りを待つ時間の方が、彼女にとって何千倍も価値のある幸福なひとときであった。


 ――やがて、太陽が西の山へ傾きかけた午後遅く。

 入り口の扉が開き、冷たい風とともにカエラムが帰還した。


 彼の肩や髪には白い雪が付着していたが、その両腕には複数の箱と、丁寧に紙で包まれた花束が大切に抱えられていた。


「ただいま戻りました、コルネリアさん。少し、時間がかかってしまいました」


 カエラムは荷物を机の上に置くと、入り口の扉に掛かっていた診療中の木札を裏返し、早々に休診の文字を外へ向けた。

 さらに内側から重いかんぬきを落とし、本日の業務を完全に終了させる。


「お帰りなさいませ、カエラム先生。お疲れ様でした」


「さあ、机の上を片付けてください。今日は、あなたに感謝を伝えるための特別な日ですから」


 カエラムが箱の蓋を開けると、そこには街で最も評判の良い菓子店の職人が腕によりをかけて作った、美しい装飾の施されたケーキが鎮座していた。

 雪を模したような見事な砂糖細工と、冬の保存果実が鮮やかに飾り付けられている。


 二人は机に向かい合い、カエラムがケーキの上に数本の蝋燭を立てて火を灯した。

 室内の照明を落とすと、揺らめく炎の光が二人の顔を温かい橙色に染め上げる。


「お誕生日おめでとうございます、コルネリアさん。あなたがこの世に生まれ、そして私の診療所に辿り着いてくれた奇跡に、心から感謝します」


 カエラムの深く落ち着いた声が室内に響く。

 コルネリアは胸の奥が熱くなるのを感じながら、両手を組んで静かに目を閉じ、願いを込めて蝋燭の火を吹き消した。


 切り分けられた甘いケーキと、彼が用意してくれた温かい料理を二人で味わう。

 王城の専属料理人が作る複雑な味わいの晩餐よりも、目の前にいる不器用な男性が街を歩き回って選んできた甘味の方が、彼女の舌と心を満たす最高の美食だった。


 食事が終わり、温かい茶で喉を潤した頃。

 カエラムは手元に置いていた花束の包みを解き、コルネリアの目の前へ差し出した。


「冬の過酷な寒さの中では、見つけられる花も限られていました。ですが、この花を見た時、これこそがあなたに相応しいと思ったのです」


 彼が差し出したのは、数本のクリスマスローズを束ねた美しい花束であった。

 深い緑色の葉の中に、純白の可憐な花びらが幾重にも重なり、その中央には淡い緑色の芯が顔を覗かせている。


「雪の下に埋もれても決して枯れず、凛として咲き誇る冬の薔薇です。この純白の姿と、淡い緑の芯が……あなたの美しい髪と瞳に、とても似ている」


 カエラムの言葉に、コルネリアは息を呑んだ。

 花束を受け取る彼女の指先が、微かな歓喜に震える。


「ありがとうございます……これほど美しい花をいただいたのは、生まれて初めてです」


 コルネリアが花束を胸に抱いて微笑むと、カエラムは居住まいを正し、丸メガネの奥のアンバーの瞳に真剣な光を宿した。


「……コルネリアさん。あなたの左手を出していただけますか?」


 その声の響きに、コルネリアの心臓がかつてないほど大きく跳ね上がった。

 言われるがままに左手を差し出すと、カエラムはその細く白い手を自らの大きな手で包み込んだ。

 そして、彼のもう片方の手から、冷たく滑らかな金属の感触が、彼女の左手首へと這わせられる。


 小さな留め具の音が室内に響いた。

 コルネリアが視線を落とすと、彼女の左手首には気高い輝きを放つ、プラチナで造られた精巧なブレスレットが装着されていた。


 華奢でありながらも強靭な鎖の中央には、彼女の瞳の色と完全に一致する、澄み切った緑色のペリドットの宝石が嵌め込まれている。

 暖炉の火の光を受けて、その宝石が鮮烈な輝きを放っていた。


「このプラチナは、どんな環境にあっても決して変色せず、永遠にその輝きを失わない金属です。そして中央のペリドットは、あなたの美しい瞳の象徴です」


 カエラムは彼女の左手を離さず、瞳の奥を真っ直ぐに覗き込んだ。


「あなたがこれを身につけている限り、私は常にあなたの味方であり、あなたのすべてをこの手で守り抜く。その私の決意を、どうか受け取ってください」


 ――自分をこれほどまでに尊び、大切に想ってくれる人がいる。

 コルネリアのペリドットの瞳から、大粒の涙が溢れ出した。

 それは、これまでの人生のすべての不運を浄化するような、歓喜の雫だった。


「……はい。私、生涯外しません。ずっとずっと、大切にします」


 涙声で告げたコルネリアの言葉に、カエラムは優しく目を細め、親指の腹で彼女の頬を伝う涙を拭った。


 外では厳しい冬の嵐が森の木々を激しく揺らしている。

 しかし、堅く閉ざされた診療所の中では暖炉の中で赤い火の粉が爆ぜ、二人の未来を約束するプラチナの輝きが、温かく満ち足りた夜の時間をどこまでも美しく彩っていた。

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