22 お言葉に甘えて行ってまいりますね
森が深い雪に閉ざされ、夜の闇がすべてを覆い尽くす厳しい冬の季節。
木枯らしが窓を揺らす音を遠くに聞きながら、診療所の中は暖炉の火によって心地よい温度に保たれていた。
入り口の扉が開き、外の冷気とともに、白い蒸気を立ち昇らせながらカエラムが室内へと戻ってきた。
彼の翡翠色の髪は水分を含んで色が深くなり、入浴を終えたばかりの身体からは微かな石鹸の香りと、温泉特有の鉱物の匂いが漂っている。
診療所の裏手には、巨大な岩肌の隙間から途切れることなく湧き出し続ける、天然の温泉が存在していた。
彼らはそこを日々の湯浴みの場として利用し、この厳しい冬の寒さを凌いでいるのである。
「戻りました。外は随分と冷え込んできています。コルネリアさんも、湯冷めをしないよう十分に温まってきてください」
首に手拭いをかけ、丸メガネの曇りを指で拭いながらカエラムが声をかける。
コルネリアは用意していた着替えと手拭いの束を抱き抱え、彼と入れ替わるようにして立ち上がった。
「ありがとうございます。それでは、お言葉に甘えて行ってまいりますね」
コルネリアは厚手の外套を羽織り、雪の積もる裏道へと足を踏み出した。
数歩歩いた先にある岩場からは、濛々とした白い湯気が立ち込め、周囲の雪を溶かしている。
簡素な脱衣所で衣服を脱ぎ、コルネリアは冷え切った身体を温かい湯の中へと沈めた。
肌を刺すような冬の冷気が一瞬にして遠ざかり、大地の奥深くから湧き上がる莫大な熱量が、足先から身体の芯の隅々にまで浸透していく。
思わず、深い安堵の吐息が唇から零れ落ちた。
湯の表面を漂う白い蒸気の向こう側には、入浴用の岩場を囲い込むようにして、人の背丈よりも遥かに高い立派な木製の目隠し用の柵が巡らせてある。
コルネリアはその頑丈な木の柵を見つめながら、過去の記憶を呼び起こしていた。
彼女がこの森を訪れた当初、このような柵は一切存在していなかった。
森の奥深くで誰の目も気にせずに孤独な隠遁生活を送っていたカエラムにとって、野趣溢れる開けた空間での湯浴みは何の不都合もないものであったのだ。
しかし、コルネリアがこの診療所で助手として暮らすことが決まり、しばらく経ったある日――。
カエラムは朝早くから森に入り、大量の丸太を切り出しては、一人で黙々とこの高い柵を作り上げ始めたのである。
丸一日を費やし、自らの手は傷だらけにしながらも、彼は一切の隙間なく岩場を囲う目隠しを完成させた。
若い女性である彼女が、野生動物の目や森の開けた空間を気にすることなく、安心して身体を休めることができるようにという、彼なりの誠実な配慮だった。
「……本当に、先生は優しいお方です」
柵の木組みを眺めながら、コルネリアは独り言を呟いた。
彼は常に行動で、彼女の尊厳と生活を守ろうとしてくれる。
その確かな愛情の形に触れるたび、コルネリアの胸の奥は湯の温度以上に熱く満たされていくのを感じた。
彼女は岩に背を預け、冬の夜空を見上げた。
空気が凍てつくように澄み切っているため、真っ黒な空には数え切れないほどの無数の星々が、小さな光を放って輝いている。
かつて暮らしていた王都の夜会も、これと同じように無数の宝石と照明で彩られていた。
しかし、そこにある光はどれも冷たく、人の心を値踏みするような虚飾に満ちたものばかりであった。
生来の不運体質ゆえに誰からも疎まれ、家族からさえも愛されなかった彼女にとって、故郷の記憶に温かいものは何一つ残っていない。
それに比べて、今はどうだろうか。
身分も財産も失い、この辺境の森の診療所に身を寄せることになったが、彼女の心はこれまでの人生のどの瞬間よりも満たされ、幸福な光に包まれていた。
自分を必要とし、自分の淹れた茶を美味しいと笑い、どんな不運が起きても決して手放そうとしない男性が、すぐ近くの建物の中で自分の帰りを待ってくれている。
星空を見上げながら、コルネリアは自然と柔らかな微笑みを浮かべ、さらに深く湯の中へと身を委ねた。
――一方その頃。
コルネリアが星空の下で穏やかな思索に耽っている間、診療所の中に取り残されたカエラムは自らの机の前でかつてないほどの深刻な苦悩に直面していた。
彼の机の上には、分厚い医学書や薬草の調合に関する記録の代わりに、白紙の羊皮紙が広げられている。
丸メガネの奥のアンバーの瞳は真剣そのものであり、手にした羽ペンの先はインク壺の上で迷うように止まったままであった。
彼が直面している極めて重大な課題。
それは、目前に迫ったコルネリアの誕生日に、何を贈るべきかという計画であった。
氷の張った湖沼で、彼女の誕生日に精一杯の祝いをすると自ら宣言した。
あの時の彼女の嬉しそうな笑顔を思い出すだけで、カエラムの心臓は心地よい早鐘を打つ。
しかし、いざ贈り物を思案する段になって、彼は自らの経験の乏しさに頭を抱えることとなった。
彼女は本来、ゼサリア・オル王国の高位の伯爵令嬢であり、贅を尽くした環境で育ってきた本物の貴族である。
それなのに今の彼女は、質素な麻の衣服を身に纏い、毎日土に塗れて薬草を洗い、冷たい水で洗濯をし、火の熱に耐えて食事を作ってくれている。
不平や不満を漏らすことなど一度もなく、むしろ今の生活を心から愛し、誇りを持って助手としての務めを果たしてくれている。
そんな彼女の類まれなる美しさと、気高い精神に相応しい贈り物は、一体何なのだろうか。
(やはり、女性には美しい衣服を贈るべきだろうか……)
カエラムは思考を巡らせる。
彼女のホワイトブロンドの髪とペリドットの瞳を引き立てるような、上質な絹を用いた仕立ての良いワンピース。
王都の職人に依頼すれば、素晴らしいものが出来上がるだろう。
しかし、ここは森の奥の診療所である。
豪華な衣服を着て出向くような夜会もなければ、土汚れや薬草の匂いがつく環境では、着る機会そのものが限られてしまう。
(実用性を考えれば、身につけたまま作業ができる装飾品が良いかもしれない……たとえば、宝石などをあしらったものか)
思考は別の方向へと進む。
大きな首飾りは作業の邪魔になるだろう。
耳飾りも、動きの多い彼女には不便かもしれない。
ならば、邪魔になりにくく、常に身につけていられるもの。
彼女の視界に常に入り、私が彼女を大切に思っている事実をいつでも思い出してもらえるようなもの。
(……指輪、というのはどうだろうか)
その単語が脳内に浮かび上がった瞬間。
カエラムの思考回路が、完全に独立して一つの映像を極めて鮮明に作り出してしまった。
美しい装飾箱を開け、彼女の前に差し出す自分。
驚きと喜びに満ちた彼女のペリドットの瞳。
そして彼女が差し出した白く細い手を取り、彼女の指の根本へとプラチナのリングを通していく自らの手。
その想像の中で、カエラムが指輪を滑り込ませようとしていたのは、あろうことか彼女の左手の薬指であった。
「なっ……!?」
左手の薬指に指輪を嵌めるという行為が、この世界においてどのような絶対的な意味を持つのか。
――それは、生涯の伴侶としての誓いであり、相手の人生のすべてを自らが背負うという極めて重い契約の証である。
自らの無意識が導き出したその恐ろしいほどに率直な願望の形に直面し、カエラムの顔面は爆発したかのように一気に朱に染め上げられた。
彼は手にした羽ペンを取り落とし、両手で自らの顔を激しく覆い隠した。
(何を考えているのだ私は! いくらなんでも、図々しすぎるだろう!)
一人で激しく首を振り、脳内にこびりついて離れないその甘美な映像を必死に振り払おうとする。
相手は未来ある若き令嬢。
自分は過去の過ちから逃げ出した、一回りも年齢の離れた無精髭の冴えない男である。
彼女を大切に思う気持ちに嘘はない。
独占したいという醜い欲望があることも、すでに自覚している。
だが、だからといって、誕生日の贈り物にかこつけていきなり伴侶の誓いを立てようとするなど――大人の男性としてあまりにも余裕がなく、理性を欠いた行動ではないか。
(落ち着け。冷静になるのだ。私は医師であり、彼女の雇い主なのだから)
誰に言い訳をしているのかも分からぬまま、カエラムは荒くなった呼吸を整えようと深く息を吸い込んだ。
冬の冷気と満天の星空の下、温泉の心地よさに身を委ねて穏やかな微笑みを浮かべるコルネリア。
そして暖炉の火が燃える診療所の中で、一人顔を真っ赤にして頭を抱え、己の思考と激しい死闘を繰り広げているカエラム。
静寂に包まれた冬の夜の森で、すれ違いながらも確かな熱量を帯びた二人の時間は、互いの想いを深めながらどこまでも甘く過ぎていった。




