21 これからの食事は、私がすべて美味しいものに変えてみせます
森の木々が完全に葉を落とし、空から舞い降りた雪がすべての輪郭を覆い隠す季節となった。
秋の終わりに村を脅かした毒虫の騒動も遠い過去のことのように感じられるほど、辺り一面は圧倒的な冬の静寂に支配されている。
厳しい寒さに行く手を阻まれ、森の診療所を訪れる患者の足も途絶えて数日が経過していた。
その日、遅めの朝食を終えたカエラムは、分厚い医学書を閉じてコルネリアへ向き直った。
「コルネリアさん。今日は完全な休診日として、少し遠出をしましょうか」
「遠出、ですか? この雪の中を?」
「ええ。森の奥に、冬の間だけ完全に凍りつく巨大な湖沼があるのです。気分転換も兼ねて、氷の上で魚を釣りに行きましょう」
思いがけない休日の提案に、コルネリアは目を丸くした。
二人は厚手の防寒着を身に纏い、首元に温かい毛布の切れ端を巻きつけ、釣り道具や調理器具を入れた荷物を手分けして背負った。
扉を開けると、刃物のように鋭い冷気が顔を刺す。
新雪を踏み固める重い音を響かせながら、二人は冬の森の奥深くへと足を踏み入れた。
長い道のりを経て木々の隙間を抜けると、視界が一気に開けた。
そこには、カエラムの言葉通り、対岸が見えないほど広大な湖沼が広がっていた。
水面は分厚い氷に閉ざされ、雪を被って巨大な銀盤と化している。
カエラムは氷の厚さを慎重に確認しながら進み、安全な場所を見繕うと、持参した重い鉄の棒で氷の表面を砕き始めた。
何度か打ち付けると、氷の層が貫通し、下から黒々とした冷たい水が顔を覗かせる。
「ここに仕掛けを落とします。底の方に、ワカサギという小さな魚が群れを成して泳いでいるはずです」
カエラムの指導に従い、コルネリアは針のついた糸を氷の穴へと垂らした。
折り畳み式の小さな木の椅子に腰掛け、微かな手応えを待つ。
周囲には吹き抜ける風の音と、時折遠くで氷が収縮して鳴る低い音だけが響いている。
しばらくの間、穏やかな時間が流れていた。
しかし、コルネリアの特異な不運体質が、この静寂の氷上でも容赦なく発動の機会を窺っていたのである。
彼女の持つ竿の先が不自然に沈み込み、水面下の糸が制御を失ったかのように複雑に絡み合い始めた。
見えない水中で、針と糸が本来の役割を逸脱し、不可解な網状の罠を形成してしまったのだ。
また自身の不注意で道具を台無しにしてしまったと、コルネリアが顔を青ざめさせて糸を引き上げようとした瞬間――。
網のようになった糸の塊が、偶然にも湖底を移動していたワカサギの巨大な群れの進路を完全に塞ぐ形となった。
手元に伝わる強烈な重みに耐えかね、コルネリアが力任せに竿を引き上げる。
水飛沫とともに氷の穴から飛び出してきたのは、絡まり合った糸の隙間に挟まり、暴れる十匹以上のワカサギであった。
「まあ……! これは、いったいどういうことでしょうか!?」
「……あなたのその体質は、時として私の理解の範疇を完全に超えてきますね」
氷の上に散らばって跳ねる大量の魚を見下ろし、カエラムは呆れたように肩を揺らして笑い声を上げた。
結果として大漁の釣果を得た二人は、再び仕掛けを直し、今度は並んで糸を垂らすことになった。
「こうして静かに座っていると、考える時間がたくさんありますね」
カエラムが、氷の穴を見つめたまま静かに口を開いた。
「私たちは同じ屋根の下で長い時間を共に過ごし、生死を分かつような医療の現場も乗り越えてきました。しかし、ふと考えてみると、私たちはお互いの私的な事柄について、驚くほど何も知らないという事実に気がついたのです」
その言葉に、コルネリアも同意するように頷いた。
互いに触れてはならない過去の傷があることは理解している。
しかし、それ以外の些細な日常の記録さえ、言葉にして交換した機会はほとんどなかった。
「たとえば、誕生日の話です。私の誕生日は、この厳しい雪が解け始める、春の初めです。あなたの生まれた季節はいつですか?」
カエラムの問いかけに、コルネリアはペリドットの瞳を少しだけ伏せ、懐かしむように答えた。
「私は、ちょうどこの厳しい冬の最中……いえ、正確に言えば、もうすぐ訪れる日が私の誕生日です」
王都の伯爵邸にいた頃は、形だけの豪華な宴が開かれていた。
不運体質で周囲に迷惑をかける彼女は常に部屋の隅に追いやられ、誰の祝福も心に響くことはなかった。
彼女の返答を聞いたカエラムは、丸メガネの奥の目をわずかに見張り、やがて優しげな弧を描くように目を細めた。
「それでは、もう間もなくということですね。それなら、今年のあなたの誕生日は、私が精一杯のお祝いを用意します。どうか期待していてください」
コルネリアの胸の奥で、甘く心地よい熱が広がる。
自分の生まれた日を、彼が祝おうとしてくれている。
その事実だけで、冬の冷気さえも温かなものに感じられた。
「ありがとうございます、カエラム先生。では、私からもお尋ねしてもよろしいですか? 私がこの診療所に辿り着く前、先生はどのような生活を送っていらしたのですか?」
コルネリアが問いかけると、カエラムは気まずそうに視線を逸らし、無精髭の生えた顎を撫でた。
「……お話しするのは、少し恥ずかしいですね。あなたが来る前の私の生活は、人間らしい営みを完全に放棄した、酷いものでした」
彼は言葉を選ぶように、ゆっくりと過去の惨状を語り始めた。
「当時の私は過去の絶望に囚われ、ただ息をしているだけの状態でした。火を熾す手間すら惜しみ、食事の準備など一切しませんでした。村の者が置いていく日持ちのする缶詰を開けるか、生の根菜を泥だけ払ってかじり、空腹をごまかしていたのです。長持ちする干し肉は棚の奥に蓄えてありましたが、調理が必要で腐りやすい生の肉や魚は、受け取ることすら頑なに拒否していました」
命を救う優れた腕を持つ医師でありながら、自身の命を繋ぐ食への関心を完全に喪失していた男の姿。
コルネリアは、彼がどれほどの深い孤独と絶望の中で冷たい夜を過ごしてきたのかを想像し、胸を締め付けられるような痛みを覚えた。
「服は汚れ、部屋には埃が積もり、栄養失調で身体は痩せ細っていく……もしあの春の日、あなたという不運で幸運な存在を救いだしていなければ、私は間違いなく、遠からずこの森で一人、ひっそりと命を落としていたでしょう」
カエラムは顔を上げ、コルネリアの顔を真っ直ぐに見据えた。
「あなたが来て、部屋に温かい火が灯り、熱い食事の匂いが漂うようになった。私の冷え切っていた時間は、あなたがすべて溶かしてくれたのです。私の命は、あなたが繋ぎ止めてくれました」
彼の深い感謝の言葉に、コルネリアは視界が滲むのを感じた。
誰からも見放されていた自分の持つ生活の技術が、彼という人間を絶望の淵から救い出していた。
互いが互いを必要とし、欠けた部分を完全に補い合っている。
その事実がもたらす充足感は、彼女の心を満たして余りあるものだった。
「……先生の過去を変えることはできません。ですが、これからの食事は、私がすべて美味しいものに変えてみせます。まずは、この氷の上からですわ」
コルネリアは涙を隠すように明るく宣言し、立ち上がった。
彼女は持参した小さな火鉢に手際よく火を熾し、小さな鉄鍋を乗せて油を注ぐ。
氷の穴から釣り上げたばかりの新鮮なワカサギに粉をまぶし、熱された油の中へと次々に投入していく。
冷たい氷の湖沼の上に、油の弾ける快い音と、魚が香ばしく揚がる強烈に食欲を刺激する匂いが広がっていった。
「さあ、揚がりましたよ。熱いうちに召し上がってください」
コルネリアが木皿に乗せて差し出した揚げたてのワカサギを、カエラムは指でつまんで口へと運んだ。
表面の衣がさくっと小気味よい音を立てて崩れ、中から白く柔らかな身が顔を出す。
淡白でありながら力強い生命の甘みと、適度な塩気が舌の上で踊る。
「……信じられないほど美味しいです。冷たい氷の上で、これほど温かく力強いものを食べられるとは」
カエラムは次々とワカサギを口に運び、深い満足の息を吐き出した。
缶詰や生野菜だけをかじっていた過去の彼には、到底理解できなかったであろう豊かな食の喜び。
誰かと共に温かいものを食べ、時間を共有することの尊さを、彼は全身で噛み締めていた。
コルネリアもまた、自らが揚げた魚を味わいながら、隣で幸せそうに食事をとる彼の横顔を見つめ、静かに微笑んだ。
やがて、冬の短い太陽が山の稜線へと沈み始め、広大な氷の湖面が深い瑠璃色へと染まり始めた。
釣り道具と火鉢を片付け、二人は帰路につくために氷の上を歩き出す。
並んで雪を踏みしめる帰り道。
コルネリアの心は、もうすぐ訪れる自身の誕生日への期待と、彼との確かな絆への喜びに満ち溢れていた。
冷たい風が吹き抜ける厳冬の森の中にあっても、互いの過去を知り、共に明日を迎えるという彼らの間にある温かな繋がりに、もはや揺らぎは存在しなかった。
二人の吐く息は白い霧となって空に溶け、残された足跡だけが雪原の上にどこまでも長く続いていた。




