20 信じられないほど、美味しいです
木々の間から差し込む光が、まだ青白い色を帯びている早朝。
森の空気は刃物のように冷たく、吐き出す息は瞬時に白い霧となって空気に溶けていく。
コルネリアは寝台を抜け出し、診療所のかまどに新しい薪をくべて火を熾した。
細い枝から太い薪へと火を移し、室内の温度を少しずつ上げていく。
今日は、赤い針虫の繁殖地である森の泥地へ赴き、数日かけて薬草を煮出した重い薬液を散布するという過酷な作業が待っている。
コルネリアは厚手の衣服を着込み、防寒用の外套を羽織り、足元も動きやすい革の靴で固めた。
水筒に温かい茶を詰め、道具を入れた布袋の結び目を確認する。
彼女が出発の準備をほぼ終えた頃、部屋の奥の寝台から、布の擦れる重い音が聞こえてきた。
「……おはようございます」
カエラムが極度の睡眠不足を顔に貼り付けたまま、重い足取りで起き上がってきた。
肩の長さまである翡翠色の髪は、枕に押し付けられて四方八方に跳ね上がり、芸術的なまでの乱れを生み出している。
無精髭は昨日よりも少し伸び、丸メガネの奥のアンバーの瞳は焦点が定まっていない。
朝の冷気に身を縮め、くしゃくしゃの白衣を肩から羽織りながら、彼は力なく長椅子に腰を下ろした。
「おはようございます、カエラム先生。お疲れのところ申し訳ありませんが、日が昇りきる前に出発しなければなりません。まずはこの温かいお茶を飲んでください」
コルネリアは木の実を煎じた香ばしい茶を湯呑みに注ぎ、彼の手の中へ渡した。
カエラムは湯気を立てる湯呑みを両手で包み込み、ゆっくりと喉へ流し込む。
温かい液体が内臓を温めるのを感じ、彼はようやく長いため息を吐き出して顔を上げた。
「ありがとうございます。少し、目が覚めました」
「お髪が大変なことになっていますよ。私が直しますから、そのまま前を向いていてください」
コルネリアは木の櫛を手に取り、彼の背後に回った。
翡翠色の髪に櫛を通していく。
彼の髪は見た目よりも柔らかく、指先に心地よい感触を残す。
絡まった部分を解くために顔を近づけると、彼から微かに漂う薬草の香りが鼻腔をくすぐった。
この朝に弱い男性の世話を焼く時間が、途方もなく愛おしい。
髪の乱れを整え終わり、コルネリアは彼の前に回って白衣の曲がった襟を直し、衣服の皺を伸ばした。
為されるがままになっていたカエラムは、彼女の手際の良い世話に身を委ねながら、どこか照れくさそうに口元を綻ばせた。
「なんだか、あなたにすべてを任せきりですね。私の不甲斐なさが露呈していくようで、恐ろしいです」
「助手として当然の務めです。さあ、重い樽を外へ運び出しましょう」
二人が気合を入れ直し、薬液がなみなみと注がれた重い木の樽に手をかけようとした――その時。
診療所の重い木の扉が、外側から力強く叩かれた。
カエラムが扉を開け放つと、そこには赤い針虫の毒から救った農夫のイザークを筆頭に、五人の男たちが立っていた。
皆、土に汚れた分厚い衣服を着込み、日焼けした顔に深い皺を刻んだ、貧民区で土地を耕す屈強な農夫たちである。
彼らの背後には頑丈な車輪のついた荷車が二台、そして重い荷物を運ぶための太い天秤棒が用意されていた。
「先生、おはようございます。朝早くから押しかけて申し訳ねえ」
イザークが、深く頭を下げて挨拶をした。
「イザークさん。毒が抜けたばかりなのですから、まだ安静にしていないといけませんよ」
カエラムの咎めるような言葉に対し、イザークは力強く首を横に振った。
「そうも言っていられねえんですだ。あの赤い虫が森の奥で異常に増えちまってるって聞いて、俺たちも集まりましただ。村に虫が降りてきて一番被害を受けるのは、俺たち農民ですだ。自分たちの土地と家族の命を守るための大仕事に、先生とコルネリアさんだけを危険な森の奥へ行かせるわけにはいかねえですよ」
他の農夫たちも、力強く頷いた。
彼らは自らの生活基盤である土地を脅かす存在に対し、当事者として立ち向かうために集まったのだ。
大地の恵みを自らの手でもぎ取ってきた彼らの瞳には、何者にも屈しない逞しい光が宿っていた。
「重い樽の運搬と、泥地での作業は俺たちの専門ですだ。どうか、手伝わせてくだせえ」
イザークの申し出に、カエラムは少しの間目を丸くし、やがて深く感謝の意を示すように頭を下げた。
「……ありがとうございます。正直に申し上げれば、あの重い樽を二人で泥地まで運ぶのは至難の業でした。皆さんの力を借りられるなら、これほど心強いことはありません」
農夫たちは手慣れた動作で診療所の裏手に回り、薬液の入った樽を次々と荷車へと積み込んでいった。
カエラムとコルネリアも彼らに続き、一行は朝霧の立ち込める森の奥深くへと足を踏み入れた。
目的地である泥地は、腐敗した枯れ葉と淀んだ水が混ざり合い、鼻をつくような嫌な臭気を放つ場所であった。
足元は深く沈み込み、歩くことすら困難な地形である。
さらに、周囲の草陰にはまだ数匹の赤い針虫が潜んでおり、危険と隣り合わせの状況が続いていた。
しかし、農夫たちの動きは驚くほど速く、そして正確だった。
彼らは天秤棒を使って重い樽を軽々と担ぎ上げ、ぬかるむ足場をものともせずに泥地の中へ踏み込んでいく。
カエラムの指示に従い、薬液を広範囲に、かつ均等に撒き散らす。
香草を極限まで煮詰めた強烈な匂いが泥の臭気を打ち消し、森の空気を塗り替えていく。
コルネリアも空になった樽を受け取り、彼らの動きを阻害しないよう後方で支援に回った。
男たちの額から汗が流れ落ち、泥にまみれながらも自らの土地を守るために結束して働く姿は、貴族の華やかな夜会では決して見ることのできない、人間の根源的な美しさと力強さに満ちていた。
――太陽が中天に達する頃、すべての樽が空になり、広大な泥地への散布作業は完了した。
これで、今年の赤い針虫の繁殖は完全に抑え込まれるはずである。
「終わった……これで、村は安全です」
カエラムが丸メガネの曇りを拭き取りながら宣言すると、農夫たちから歓声が上がった。
皆が互いの肩を叩き合い、泥だらけの手で握手を交わす。
コルネリアもまた、イザークから何度もお礼を言われ、深い喜びに胸を満たした。
「さあ、作業の後は腹ごしらえだ! 先生、お嬢さん、俺たちの用意した飯を食っていってください」
イザークの声とともに、農夫たちが荷車の奥から鍋や食材を取り出し始めた。
彼らは森の少し開けた場所で手早く火を熾し、野外での食事の準備に取り掛かる。
本日の昼食は、収穫されたばかりの秋の穀物をふっくらと炊き上げ、たっぷりの塩を手につけて固く握った、東方伝来の携帯食である。
さらに、彼らが育てた分厚い根菜や、清流で獲れた魚を竹串に刺し、熾した炭火の周囲に突き立てて香ばしく焼き上げていく。
労働によって空っぽになった胃袋を、炭火で焼ける魚の脂と、根菜の甘い匂いが容赦なく刺激する。
やがて焼き上がった食材と、大きな握り飯が二人の手に渡された。
「熱いうちに食ってください。気取った料理じゃありませんが、味には自信がありますだ」
コルネリアは両手で熱々の握り飯を持ち、大きく口を開けてかじりついた。
新米の穀物特有の強い甘みと、粗塩の鋭い塩気が口の中で弾けるように混ざり合う。
続いて、炭火で表面を硬く焼き上げられた魚の身にかぶりつく。
皮の香ばしさと、ふっくらとした白身の旨味が脳を直撃した。
「美味しい……! 信じられないほど、美味しいです」
コルネリアの口から、感嘆の声が漏れた。
王都の城で食べていた、複雑なソースや希少な香辛料を使った洗練された料理。
それらとは全く次元の違う、食材の命そのものを丸ごと取り込むような圧倒的な美味しさであった。
危険な作業を乗り越え、自らの手で未来を掴み取った人々とともに、青空の下で泥にまみれながら食べる食事。
カエラムもまた、無言で大きな握り飯を二つ平らげ、満足げに息を吐き出していた。
太陽が西の山へ傾き、森の木々が長い影を落とし始める時間。
腹を満たした一行は、荷車を引いて診療所への帰路についた。
途中の分岐点で農夫たちと別れ、カエラムとコルネリアは二人きりで森の小道を歩いていた。
冷たい秋の夕風が火照った身体を冷やしていくが、心の中には温かな充足感が満ちている。
「農夫の皆さんは、自分の土地を守るためにとても逞しかったですね」
コルネリアが前を歩くカエラムの背中に話しかけると、彼は振り返り、同意するように深く頷いた。
「ええ。彼らの力強さに救われました。もし私たち二人だけで作業をしていれば、今頃はまだ泥の中で薬液と格闘していたことでしょう。自らの足で立ち、生活を守ろうとする人間の意志は、いかなる薬よりも強靭ですね」
カエラムの言葉には、彼らに対する深い敬意が込められていた。
二人を包み込む夕焼け空は、燃えるような橙色から少しずつ深い紫色へと変化し始めている。
コルネリアは冷たい風に身を震わせながらも、歩幅を広げてカエラムの隣へと並んだ。
危険な毒虫の脅威は去り、森には再び平穏な日々が戻ってくる。
二人の並んだ影が、枯れ葉の積もる道を長く、どこまでも穏やかに伸びていた。
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