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18 私の居場所は、先生の隣だけですもの

 木々の枝から葉が落ち切り、森を吹き抜ける風が肌を刺すような冬の冷たさを帯び始めた季節。

 本格的な降雪の時期を前に、診療所の周囲は分厚い枯れ葉の層に覆われている。

 踏みしめるたびに乾燥した音が鳴り、吐く息は白い霧となって空気に溶けていく。


 ――あの日、森の奥で起きた出来事から数日が経過していた。

 カエラムが毒を吸い出すために自身の指先に唇を落としたあの瞬間。

 彼が自分を失うほど必死になってくれた姿。

 そして、診療所へ戻った後に頭を撫でられた時の、手のひらの温かい感触。


 コルネリアは、朝の清掃作業をしながらも、その記憶が蘇るたびに顔に熱が集まるのを感じていた。

 以前のように自然な態度で彼に接しようと努めているが、彼が自身の横を通り過ぎるだけで呼吸が浅くなる。

 彼が机から落とした書物を拾おうとして互いの手が触れそうになれば、過剰なほどに身を引いてしまう。


 カエラムもまた、机に向かって分厚い医学書を開きながらも視線はただ活字の上を滑るばかりであった。

 文字の羅列を追おうとするたびに、あの日見た彼女の涙を湛えた眼差しが脳裏を過る。

 雇い主としての理性を保とうと必死に自制しているが、彼女が淹れてくれた温かい茶を飲む所作一つにさえ、不自然な動揺が混じっていた。


 かつて二人の間にあった、穏やかで心地よい沈黙は失われていた。

 代わりに、互いを強く意識するあまりに生じる、張り詰めた糸のような気まずさが診療所の中を満たしている。


 ――その奇妙な緊張感を帯びた空間を切り裂いたのは、診療所の重い木の扉を激しく叩く音だった。


「先生! カエラム先生! 助けてくだせえ!」


 顔に深い皺を刻み、土に汚れた分厚い衣服を纏ったその男は、近隣の農村で土地を耕している初老の農夫――イザークであった。

 彼は自身の左腕を右手で強く抱え込み、耐え難い苦痛に顔の筋肉を激しく歪めている。


 カエラムは手元の医学書を弾くように置き、瞬時に立ち上がった。

 彼はイザークの肩を支えて窓際の寝台へと素早く誘導し、激しく痛むという左腕の衣服を慎重に捲り上げる。


 そこには、先日コルネリアの指先を襲ったものと全く同じ、鋭い刺し傷があった。

 傷口を中心に、どす黒い紫色の変色が皮膚の下を這うように、不気味な広がりを見せている。


「これは……赤い針虫の毒です」


 カエラムの低い声が室内に響く。

 その虫の名を聞き、コルネリアの背筋に冷たい戦慄が走った。

 あの時の焼け付くような痛みが記憶の底から蘇り、彼女の動きが硬直する。


 しかし、今回は医療器具と薬品が完全に揃った診療所内での出来事である。

 カエラムが指示を出す声には、一切の迷いが存在しなかった。

 コルネリアもまた、彼が次に何を求めるのかを完璧に予測し、すぐさま行動を開始した。


「傷口を小さく切開します。小刀を」


 カエラムが右手を伸ばすより早く、コルネリアは火で炙って消毒を済ませた小刀の柄を、彼の手のひらへと乗せた。

 彼が患部をわずかに切り開き、毒を含んだ黒い血を排出させる。

 その動作を少しも阻害することなく、コルネリアは溢れ出る血を清潔な布で素早く拭い取り、止血と毒の押し出しのための圧迫を的確に行う。


 続いて、彼が本草学ほんぞうがくの深い知識を用いてあらかじめ調合しておいた、強力な解毒作用を持つ液体を傷口に流し込む。

 アルコールと薬草の強い匂いが、室内の空気を一気に塗り替えていく。


 二人の間に、言葉による指示は極めて少ない。

 呼吸の気配と、視線のわずかな動き。

 それだけで、彼らは次にすべき行動を完全に共有していた。

 コルネリアは、自らの手が彼の治療の一部として完璧に機能している事実に、胸の奥から湧き上がる強い充足感を覚えていた。


 この数日間に二人の間を隔てていた気まずさが嘘のように、彼らは一つの命を救うという明確な目的のために、どこまでも強く結びついている。

 本物の解毒軟膏を傷口に厚く塗り込み、清潔な包帯を巻き終えた頃には、イザークの口から漏れていた苦鳴はすっかり消え去っていた。


 夕闇が森の木々を黒く染め始める時刻。

 寝台の上で完全な意識を取り戻したイザークは、コルネリアが差し出した温かい白湯をゆっくりと飲み干し、胸を撫で下ろしながら何度も頭を下げた。


「ああ……痛みが、嘘のように引いていくだ。先生、本当に助かりましただ。腕を切り落とすことになっちまうかと、生きた心地がしねえかったですだ」


「無理は禁物です。毒は抜けましたが、数日は患部を絶対に安静にしてください……ところでイザークさん、村の近くでこの虫を見たのは、あなただけですか?」


 カエラムの真剣な問いかけに、イザークは顔の皺を深く寄せて首を横に振った。


「それが……最近、村の畑や森の入り口で、あの気味の悪りぃ赤い虫の群れを見かける者が多いんですだ。今まで、あんな得体の知れねえ虫が村に近づくことなんてねえかったのに。子供たちが刺されでもしたら一大事だ。村の者たちも、何か悪いことの前触れじゃねえかって、ひどく怯えておりますだ」


 イザークを見送った後、診療所の中には、沈みゆく夕日の赤い光が長く差し込んでいた。


「先生。あの虫がこれほどまでに増えている理由は何なのでしょうか? 私が森で刺されたのも、決して偶然ではなかったのですね」


 コルネリアの問いに、カエラムは無精髭の生えた顎に手を当てて思考を巡らせた。


「おそらく、夏の終わりの異常な長雨と、その後に続いた温かい秋の気候が影響しているのでしょう。森の奥にある腐敗した泥地が、あの虫の幼虫にとって絶好の温床となってしまった。天敵である鳥たちも、この急激な気候の変化で南への移動を早めたのかもしれません。生態系の均衡が、完全に崩れているのです」


 カエラムは窓際に立ち、枯れ葉の舞う森の奥を極めて険しい表情で見据えた。


「放置すれば、この一帯が人間にとって極めて危険な場所になる……ですが、防ぐ手立てはあります。彼らが産卵する泥地に、特定の香草を極限まで煮出した液を大量に散布すれば、その年の繁殖を完全に抑え込むことができる。私にはその知識と、薬を調合する準備があります」


 その広い背中からは、村に迫る危機を自らの手で退けようとする、医師としての強い意志が立ち昇っていた。

 カエラムはゆっくりと振り返り、夕日に照らされるコルネリアへと真っ直ぐに向き直った。


「コルネリアさん。先ほどの処置の間、私は強く実感していました。あなたが私の隣にいて、私の求めるものを先回りして完璧に用意してくれる。その存在が、どれほど私の医術を助け、私の精神を強固に支えてくれているかということを」


 彼は言葉を区切り、彼女の姿を自らの視界に深く焼き付けるように見つめた。


「あの毒虫の問題は、私が解決します。ですが、その過程で、私はこれまで以上に大量の薬草を調合し、散布の準備を進めなければならない……私の力だけでは、到底足りません。これからも、私の助手として、隣で支えていただけますか?」


 それは、雇い主からの業務命令でもなく、過剰な庇護欲からくる言葉でもない。

 ――同じ目的のために並び立つ、対等な相手への切実な願いだった。


 コルネリアは、胸の奥で再び熱い鼓動が高鳴るのを感じた。

 彼が自分を必要としてくれているという事実が、何よりも彼女の心を満たし、確かな居場所を与えてくれている。


「もちろんです、カエラム先生。私がこの森に辿り着いたあの日から、私の居場所は、先生の隣だけですもの」


 コルネリアは決意を込め、真っ直ぐに彼を見返した。


 迫り来る毒虫の脅威と、間もなく訪れる厳しい冬の寒さ。

 これから二人が立ち向かうべき困難は、決して小さなものではない。


 しかし、一つの命を共に救い、互いの存在を真に必要とし合う彼らの間にある絆は、森を包む冷気など一切寄せ付けないほどに、深く強固なものへと確かな成長を遂げていた。

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