17 私、なんだか、胸が苦しいです……
森の冷たい空気を切り裂くように、カエラムはコルネリアの身体を抱きかかえたまま診療所へと急いだ。
扉を蹴るようにして開け放ち室内に駆け込むと、彼はコルネリアを窓際の寝台へと極めて慎重に横たわらせた。
「そのまま動かないでください」
短い言葉を残し、カエラムは部屋の奥にある薬品棚へと向かった。
彼の肩くらいの長さがある翡翠色の髪は風に煽られて激しい寝癖のような乱れを作っていたが、それを直す余裕すら今の彼にはなかった。
くしゃくしゃの白衣を翻し、重い木箱を抱えてすぐに寝台の傍へ戻ってくる。
「少し、しみますよ」
カエラムはコルネリアの右手を自らの大きな手で包み込むように固定し、強い度数の酒を惜しみなく傷口へとかけた。
アルコールの刺激が神経を焼き、コルネリアは短い悲鳴を上げて身体を跳ねさせた。
しかしカエラムは手を離さず、清潔な布で傷口の周囲を強く拭い、毒を完全に拭き取っていく。
続いて、木箱から取り出した解毒と消炎の効能を持つ緑色の軟膏を、赤く腫れ上がった人差し指に厚く塗り込んだ。
最後に、真っ白な包帯を傷口に巻きつけ、血流を阻害しない程度の絶妙な力加減で固定する。
一連の処置は、熟練の医師でなければ不可能なほどの神業であり、瞬く間に完了した。
カエラムは深く息を吐き出し、丸メガネを外して自らの顔を両手で覆った。
「……これで、本当に安心です。毒が全身に回ることは、もうありません」
指の隙間から漏れた声は、疲労と安堵が入り混じっていた。
コルネリアは寝台に横たわったまま、自らの右手に巻かれた白い包帯を見つめた。
傷口の痛みは、軟膏の冷感によって急速に引いてきている。
しかし、彼女の身体には、別の種類の激しい熱が渦巻いていた。
顔面には火を近づけられたような熱が集まり、呼吸は不規則になっている。
それは決して、毒の作用などではない。
森の中で起きた出来事が、彼女の思考を完全に支配していたのだ。
自分の指先が、無精髭の生えた彼の唇の間に含まれた時の、あの生々しい熱量。
彼が自分のために理性を投げ打ち、なりふり構わず毒を吸い出してくれたあの必死な姿。
その記憶が蘇るたびに、コルネリアの心臓は胸郭を突き破りそうなほど激しく脈打つのだ。
「コルネリアさん? 顔が赤いです。まだどこか痛みますか?」
カエラムが再び丸メガネをかけ、心配そうな表情で顔を近づけてきた。
彼のアンバーの瞳が、至近距離で自分を見つめている。
彼が呼吸をするたびに、その胸の厚みや体温が伝わってくるような錯覚を覚える。
視界が滲み、呼吸が苦しくなる。
彼女は自身の胸元に左手を当て、無意識のうちにその言葉を口から零してしまった。
「私、なんだか、胸が苦しいです……」
その弱々しい呟きは、静かな診療所の中に決定的な波紋を広げた。
カエラムの顔から、一瞬にしてすべての血の気が引いた。
「胸が苦しい……!? 馬鹿な、処置は間に合ったはずだ。まさか、毒がすでに心臓へ……!」
カエラムは悲痛な叫び声を上げ、コルネリアの左手首を強引に掴み取った。
彼自身の心臓もまた、恐怖によって激しい早鐘を打っている。
太い血管に三本の指を押し当て、脈拍の速さと強さを確認する。
同時に彼女の胸元の動きを見て、呼吸の深さを測る。
数秒の静寂。
カエラムは己の指先から伝わってくる情報に、わずかな混乱を覚えた。
脈は確かに速い。
しかし、それは毒による生命活動の低下を示す不規則なものではなく、極めて力強く、健康的な早鐘であった。
呼吸も浅いが、気道が塞がっているわけではない。
何より、彼の視線がコルネリアの顔に向いた時、彼はすべての真実を理解してしまった。
彼女のペリドットの瞳には、痛みや苦しみによる涙は欠片もなかった。
そこにあったのは、熱を帯びた――あまりにも純粋で無防備な感情の揺らぎである。
彼女の視線はカエラムの瞳を捕らえて離さず、潤んだ瞳から今にも大粒の涙が零れ落ちそうになっている。
その涙の理由が、肉体的な苦痛などではなく、処理しきれないほどの熱烈な好意の表れであることは、長年人間を観察してきた彼にとってあまりにも明白であった。
胸の苦しみの正体は、毒ではない。
自分に向けられた、抗いようのない感情の奔流なのだ――。
その事実に気づいた瞬間、カエラムの胸の奥で、恐怖とは全く異なる種類の激しい動悸が爆発した。
彼女の潤んだ瞳が、自分だけを求めている。
その事実がもたらす甘美な悦びは、彼の理性を根底から焼き尽くしそうになるほど強烈であった。
しかし、カエラムはすんでのところで自らの感情に強靭な鎖をかけた。
目の前に横たわるのは、美しいホワイトブロンドの髪と宝石のような瞳を持つ、未来に満ちた若き令嬢である。
対する自分は、過去の絶望から逃げ出し、この薄暗い森の端に隠れ住む、無精髭を蓄えた冴えない中年男だ。
彼女の生来の不運体質がもたらした奇禍によって共に暮らしているが、本来であれば交わるはずのない身分と年齢の差がある。
彼女のこの純粋で無垢な感情を自分が受け入れてしまえば、彼女の輝かしい未来を――この辺境の診療所に永遠に縛り付けることになってしまうのではないか。
自分のような過去に囚われた男が、彼女の光を奪う資格などあるはずがない。
カエラムは奥歯を強く噛み締め、自らの胸に渦巻く熱情を冷たい意志の力で奥底へ押し込めた。
しかし、彼女を突き放すことなど、彼には絶対に不可能だった。
彼はただ、臆病な男として、不器用な嘘をつくことしかできなかった。
「……強い毒でしたから、身体が驚いて動悸がしているのでしょう。心配はいりません。すぐに治まりますよ」
カエラムは彼女の手首から指を離すと、自身の空いた右手をコルネリアの頭へと伸ばした。
ホワイトブロンドの柔らかな髪の上に、彼の手のひらが置かれる。
「今日はもう、何も考えずに眠りなさい。私がついていますから」
無骨で温かな掌が、彼女の髪を何度か撫でた。
それは彼女を安心させるための行動であると同時に、触れずにはいられないカエラム自身の感情の限界を示す行動でもあった。
コルネリアは、頭を撫でられる感触に身を委ねた。
彼の言葉が医学的な説明にすり替えられたことに、はぐらかされたような切なさを感じる。
しかし、彼の手から伝わる確かな温もりと、決して自分から離れようとしない彼の存在が、彼女の心に深い安堵をもたらした。
毒の疲労と激しい感情の波に揺さぶられた彼女の意識は、その温かな掌の感触とともに、抗いようのない眠りへと引きずり込まれていく――。
コルネリアの規則正しい寝息が聞こえ始めるまで、カエラムは彼女の髪を撫で続けた。
彼女が完全に眠りに落ちたことを確認すると、彼はゆっくりと手を離し、寝台の傍らの椅子に深く腰を下ろした。
窓の外では秋の深まりを告げる風が木々を揺らし、葉の擦れ合う乾いた音を響かせている。
カエラムは丸メガネを外し、再び両手で自らの顔を覆った。
指の隙間から見える彼女の寝顔は、あまりにも無防備で、美しかった。
自らがついた嘘の卑怯さに、胸が痛む。
しかし、彼女を愛おしいと思う感情は、理性の防壁を飛び越えて確実に彼の魂を浸食していた。
彼女の未来を奪うことを恐れながらも、彼女を誰かに渡すことなど絶対に耐えられないという――相反する醜い独占欲。
「私は……どうすればいいのでしょうね」
誰に問うでもない答えのない呟きが、静寂の診療所に溶けていく。
不器用な男の葛藤は、秋の夜長とともに果てしなく深く続いていった。




