175 先生、流石ですわ
深い森の深淵を三日間も彷徨い続け、ようやく見知った診療所へと辿り着いた異国の行商人ユエフー。
彼女は入り口の長椅子に倒れ込み、空腹と疲労の限界を迎えていた。
コルネリアは素早くグラスに水を注いでユエフーに手渡し、急いでキッチンへと向かおうとした。
すると、水を一気に飲み干してわずかに生気を取り戻したユエフーが、背負っていた巨大な荷袋を下ろしながら声を上げた。
「待つヨ、お姉ちゃん! タダでご飯をもらうわけにはいかないアル。私がお礼に、故郷の最高に美味しい料理の作り方を教えてあげるネ。その代わり、食材はそっちのものを使わせてほしいヨロシ!」
彼女の提案に、コルネリアはペリドットの瞳を輝かせて頷いた。
異国の未知なる料理を学べる機会など、そう滅多にあるものではない。
二人はすぐさまキッチンに並び立ち、ユエフーの指示のもとで食材の調達に取り掛かった。
コルネリアはまず、地下の貯蔵庫へ向かった。
そこには、先日街の精肉店を営むアルバーノから買い付け、コルネリアが得意とする氷の魔法をかけて新鮮な状態のまま凍らせておいた上質な豚肉の塊が眠っている。
さらに、長期保存が効く玉ねぎとにんじんを幾つか取り出し、キッチンへ戻る途中で裏庭の菜園に寄り、太陽の光を浴びて艶やかに育ったピーマンを収穫した。
「完璧な品揃えアル! これなら最高の酢豚が作れるヨ!」
魔法で適度に解凍した豚肉を大きめの一口大に切り分け、ユエフーが荷袋から取り出した醤油と酒でしっかりと下味を揉み込む。
そこに粉をたっぷりと纏わせ、熱した油の中へと滑り込ませた。
表面の衣が固まり、油の中で細かな気泡が弾けるパチパチという音がキッチンに響き渡る。
豚肉の表面が美しいきつね色に揚がったところで、一度網の上へと引き上げた。
続いて別の鉄鍋を熱し、乱切りにした玉ねぎ、にんじん、ピーマンを炒める。
油が回って野菜の色が鮮やかになったところへ、先ほど揚げたばかりの豚肉を戻し入れた。
そこへ、ユエフーが幾つかの調味料を合わせて作っておいた特製の甘酢餡を一気に流し込む。
酢の強烈な酸味と砂糖の甘さが熱によって鍋肌で焦げ、むせ返るほどに濃厚で食欲を掻き立てる香りが爆発的に広がった。
とろみのある餡が具材のすべてに隙間なく絡みつき、照り輝くような見事な艶を放ち始める。
「さあ、完成アル! 熱いうちに食べるヨロシ!」
大皿にたっぷりと盛り付けられた酢豚を円卓の中央に置き、三人の席を整える。
コルネリアは自分たちが席につく前に、味付けをせずに茹でておいた豚肉と柔らかい野菜を冷まし、いつもの木製の器に入れてコユキの前に置いてやった。
彼は嬉しそうに「ワフン!」と短い声を上げ、尻尾をぶんぶん振りながら夢中になって自身の昼食を食べ始めた。
小さな家族が食事を始めたのを見届けてから、コルネリアは自身の席につき、胸の前で静かに両手を合わせた。
「この森がもたらしてくれた、すべてのお恵みに感謝して。いただきます」
カエラムとユエフーもそれに倣い、食事の開始を告げる。
カエラムが大皿から豚肉を一つ取り分けて口に運んだ瞬間――そのアンバーの瞳に明らかな驚きと称賛の色が浮かんだ。
「……素晴らしい味わいです。甘酢の強烈な酸味が、砂糖の甘さを見事に引き締めていますね。豚肉の豊かな脂と、素揚げされた夏野菜の歯ごたえが完璧な調和を生み出している。これならば、いくらでも美味しく食べ進めることができますよ」
「本当ですわ。ピーマンのわずかな苦味が、濃厚な餡の味に深い奥行きを与えています。ユエフーさんの故郷の料理は、いつも驚きに満ちていますわね」
恩人たちからの心からの賛辞を受け、ユエフーは誇らしげに胸を張り、自身もまた凄まじい勢いで酢豚と白米を平らげていった。
空腹の限界だった彼女の胃袋に、温かく活力に満ちた食事が次々と収まっていく。
充実した昼食を終え、コルネリアが食後に淹れた温かい緑茶を飲みながら、すっかり体力を回復させたユエフーが次の商売の目的地について語り始めた。
「実はお腹がいっぱいになったら、すぐに出発する予定アル。ここから少し離れた場所にあるブランシュ村というところへ向かうヨ!」
「ブランシュ村、ですか。あそこは、見渡す限りの広大な麦畑が広がる、上質な小麦粉の特産地ですね」
カエラムの言葉に、ユエフーは力強く頷いた。
「そうアル! 私の故郷には、餃子という最高に美味しい料理があるヨ。薄く伸ばした小麦粉の皮で、細かく刻んだお肉と野菜を包んで焼き上げる料理ネ。その餃子をこの国の人たちにも食べてもらうために、まずはブランシュ村で最高品質の小麦を大量に仕入れてくるヨロシ!」
新しい商売への情熱を燃やすユエフー。
彼女は緑茶を飲み干すと、再び自身の背丈ほどもある巨大な荷袋を背負い上げ、診療所の扉の前へと立った。
「美味しいご飯、本当にありがとうネ! 小麦をたくさん仕入れたら、また絶対にここへ寄って、二人にも美味しい餃子をご馳走するアル!」
満面の笑みを浮かべるユエフーに対し、カエラムは静かに立ち上がり、彼女の前へと歩み出た。
カエラムの脳裏には、過去に彼女を見送った際の記憶が鮮明に蘇っていた。
彼女の持つ、教えられた道とは必ず真逆へと進んでしまうという――呪いのような方向音痴の法則。
カエラムは丸メガネの位置を指で押し上げ、静かに決断を下した。
「ユエフーさん。ここからブランシュ村へ向かうのであれば、森を抜けて、太陽が昇る方向……つまり東へ向かって真っ直ぐ進んでください。途中にある大きな二股の道は右です。決して間違えないように」
「東へ真っ直ぐ行って、右ネ! 完璧アル! 私の商人の勘も、同じ道を指し示しているヨ。任せるヨロシ!」
ユエフーは自信に満ちた声で返事をし、診療所の外へと飛び出した。
そして彼女は、カエラムが指差した東とは全く正反対の西の方角へと身体を向けた。
さらに、道なき道ではなく、しっかりと踏み固められた西へ続く道を選び取り、これ以上ないほど力強い足取りで進み出したのである。
「あ、先生! ユエフーさんがまた逆の方向へ……!」
コルネリアが慌てて追いかけ、彼女を引き留めようと声を張り上げた。
しかし、カエラムはコルネリアの肩を優しく抑え、静かに首を横に振った。
「……いや、引き留めなくていいのです、ネリー。あちらがブランシュ村への正しい道ですからね」
「え……?」
コルネリアが目を丸くしてカエラムを見上げると、彼は遠ざかっていくユエフーの背中を見つめながら、温かい苦笑いを漏らした。
「彼女は必ず、教えられた道とは反対の方向へ進む。ならば最初から、目的地とは完全に逆の道を教えればいいだけの話だったのです。なるほど……ようやく、わかってきましたよ」
カエラムの放った言葉の意味を理解し、コルネリアは思わず口元を手で覆い、肩を震わせて笑い声をこぼした。
「ふふっ……あははっ! 先生、流石ですわ。それなら彼女も、今度こそ迷わずに村へ辿り着けますわね」
夏の午後の明るい日差しの中、小さな行商人の背中は、木々の隙間を縫って確かな足取りで遠ざかっていく。
あえて逆の道標を与えることで成立する、不思議な道案内。
二人は互いに顔を見合わせて微笑み合い、平和で騒がしい日常の余韻に浸りながら、森の奥へと続くその正しい軌跡をいつまでも見守り続けていた。




