176 大地の生命力がそのまま形になったような、圧倒的な力強さを感じます
賑やかで危なっかしいユエフーを見送り、診療所の周囲には再び夏の夕暮れ特有の穏やかな静寂が戻ってきていた。
木々の隙間から差し込む陽光は昼間の強烈な白さから、次第に濃い琥珀色へとその色彩を変化させている。
森を渡る風も昼間の熱を少しずつ手放し、微かに冷たさを孕んでいた。
カエラムは手元にある医療器具の片付けをすべて終えると、窓の木枠を静かに閉め、診療所の入り口にある看板を内側へと向けた。
明日は、診療所の休診日であった。
日々の張り詰めた医療の現場から離れ、二人が心身を休めるための大切な時間である。
「ネリー。本日の業務はすべて完了しました。夕食の準備に取り掛かる前に、少し外の空気を吸いに歩きませんか。あなたを連れていきたい場所があるのです」
カエラムがアンバーの瞳を優しく和らげ、片手を差し出す。
コルネリアは嬉しそうにペリドットの瞳を輝かせ、その大きな手のひらの上へと自身の手を重ねた。
彼らの足元では、誰よりも早く散歩の気配を察知したコユキが、短い尻尾を千切れんばかりに左右に振りながら、嬉しそうな声を上げた。
「ワフン!」
カエラムは白衣から少しゆったりとした普段着へと着替え、コルネリアの手を引いて診療所の扉を開け放った。
二人は繋いだ手を離すことなく、並んで夏の小道を歩き出した。
コユキは二人の少し前を、真っ白な毛並みを躍動させながら元気に駆け回っている。
時折、珍しい匂いを見つけては足を止め、短い鼻先を熱心に動かす姿がひどく愛らしい。
夏の夕暮れの森は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っており、遠くから届く蝉の規則的な合唱だけが、穏やかな背景の音楽のように響いていた。
獣道をしばらく進むと、次第に周囲の視界が開け森の木々が途切れる境界へと辿り着いた。
そこから一歩足を踏み出した瞬間、コルネリアの視界のすべてが、圧倒的な黄金の色彩によって埋め尽くされた。
「まあ……! なんて、美しいのでしょう……」
コルネリアは感嘆の声を漏らし、そのまま足を止めて目の前の情景に目を奪われた。
そこに広がっていたのは、見渡す限りの広大な土地を埋め尽くす、無数のヒマワリの畑だった。
太陽の光を限界まで浴びて成長した背の高いヒマワリたちは、どれも東の方角へとその大輪の花を一斉に向けて並んでいる。
ちょうど沈みゆく激しい夕日の光を受けて、黄色い花びらのすべてが鮮やかなオレンジ色へと染め上げられ、まるで大地そのものが燃え立っているかのような錯覚を覚えさせるほどに美しく輝いていた。
柔らかな夏の夕風が畑を通り抜けるたびに、大輪のヒマワリたちが波のように優しく揺れ動き、心地よい葉の擦れ合う音が周囲に満ちていく。
「ネリーに、この景色をどうしても見せたかったのです。夏のこの一瞬の時期にしか見られない、特別な風景ですからね」
カエラムは繋いだままの手のひらに少しだけ力を込め、愛おしそうに彼女の横顔を見つめた。
夕焼けの光を反射して、コルネリアのホワイトブロンドの髪が、まるで白金と黄金が混ざり合ったかのような神秘的な美しさを放っている。
「本当に、素晴らしいですわ。王都の人工的に整えられた庭園とは異なり、大地の生命力がそのまま形になったような、圧倒的な力強さを感じます。先生と一緒にこの景色を見ることができて、私、本当に幸せですわ」
コルネリアはカエラムの広い胸に寄り添うようにして、その絶景をいつまでも瞳に焼き付けた。
足元では、コユキもまたヒマワリの大きな葉の影に隠れたり飛び出したりしながら、楽しそうにあちこちを走り回っている。
静かに時間が流れ、大地の半分が夜の帳に包まれようとする頃――カエラムが静かに口を開いた。
「ネリー。明日はせっかくの休診日です。以前、ウラカさんにせっかく素晴らしい贈り物をいただいたのですから……明日は少し足を伸ばして、海へ遊びにいきませんか?」
海、という言葉を聞いた瞬間――。
コルネリアの脳裏に以前ウラカから手渡された、あの衣服の記憶が鮮明に蘇った。
上品な白色の生地に細やかなフリルがあしらわれた、ひどく愛らしい――しかし、布の面積が圧倒的に少ない、南国の一番流行りの水着。
ウラカから「出るところはしっかり出ていて、腰は細い」と自身の隠れたプロポーションを絶賛され、カエラムの理性を限界まで脅かしたあの水着を、ついに身に纏う時が来たのだ。
コルネリアは想像しただけで顔の中心から火が噴き出しそうなほどの羞恥に襲われ、一瞬にして頬を真っ赤に染め上げた。
衣服の隙間から自身の肌がカエラムの視線に晒されることを考えると、心臓が破裂しそうなほどに激しく脈打ち始める。
しかしそれと同時に、大好きな彼と共にお揃いの水着を着て美しい夏の海辺を歩くというデートの約束は、彼女の胸をこれ以上ないほどに甘く弾ませた。
コルネリアは恥ずかしさのあまり、カエラムの瞳を真っ直ぐに見つめることができず、自身の視線を足元の草地へと彷徨わせた。
そして、衣服の裾をもう片方の手で小さく握りしめながら、照れ隠しのように、こくり、と小さく深く首を縦に振って頷いた。
そのあまりにも初々しく、可憐に恥じらう恋人の反応を目の当たりにし、カエラムは瞳を揺らめかせた。
まだ見ぬ明日の水着姿の彼女を想像しただけで、自身の理性の壁が音を立てて崩壊していく予感がし、彼は顔を片手で覆って生唾を飲み込んだ。
「……明日は、私の理性がどこまで持ち堪えられるか、今から恐ろしいほどですが……最高の休日にしましょうね」
「はい……先生。よろしくお願いいたしますわ」
二人はさらに深く手を繋ぎ直し、すっかり紫色の夜霧が立ち込め始めたヒマワリ畑に別れを告げ、診療所への帰路についた。
足元を先導するコユキの真っ白な毛並みが、夜の森の中で唯一の道標のように優しく浮かび上がっていた。
――すっかり日の落ちた診療所へと戻ると、周囲は心地よい夜の静寂に支配されていた。
居住区画のランプに温かな火を灯し、コルネリアは休診日の前夜という、特別な時間を彩るための晩酌の準備に取り掛かることにした。
今夜は、明日の海デートへの期待を語り合いながら、ゆったりとお酒を嗜むための特別な夜である。
彼女はキッチンに立ち、まずは菜園で収穫しておいた完熟のトマトを取り出した。
氷の魔法を使って、キンと冷やしておいた真っ赤なトマトである。
コルネリアは小刀を握り、張りのある表面に刃を当てた。
水分を多く含んだトマトの果肉を、形が崩れないように一定の厚みを持たせて丁寧に薄切りにしていく。
切り分けたトマトを陶器の皿へと美しく並べ、仕上げにほんの少しの塩を振りかける。
これだけで、トマトが持つ本来の圧倒的な甘みと酸味が引き立つ、極上の冷やしトマトの準備が完了した。
続いて、今夜の主菜となる料理の下拵えである。
メニューは、旬の夏野菜をふんだんに練り込んだ、ジューシーな夏野菜のメンチカツに決めていた。
コルネリアは貯蔵庫から、先日アルバーノの店で購入して適切に保存しておいた上質な挽き肉を取り出し、大きな木製のボウルへと移した。
そこへ、菜園から収穫したばかりの柔らかなズッキーニと、甘みの強い玉ねぎを微細なみじん切りにして加えていく。
野菜の水分が肉の旨味を吸い込み、揚げる時に驚くほどのジューシーさを生み出すための大切な工程である。
ボウルの中に少量の塩と香草の粉末を加え、コルネリアは両手を使って、肉の粘り気が出るまできつく、力強くこね合わせ始めた。
キッチンからは、新鮮な肉と香草の混ざり合った、食欲を強く刺激する匂いが漂い始める。
足元では、コユキがその美味しそうな匂いに鼻をひくつかせ、「ワフン」と物欲しそうな声を上げながら彼女の足元をおねだりするように見上げていた。
「コユキ、あなたにも後でちゃんと美味しいお肉を用意しますからね。少しだけ待っていてくださいな」
コルネリアが微笑みながら手を止め、明日の海への約束と、これからの贅沢な調理への期待を胸に抱きながら、手際よくメンチカツの種を丸めていく。
ランプの温かな光に包まれたキッチンで、明日という最高の休日を迎えるための幸福な晩酌の支度は、どこまでも穏やかに進んでいくのであった。




