171 お母様を大切にする深い愛情がたっぷりと詰まっていますもの
夏の強烈な太陽が容赦なく照りつける森の小道を、カエラムは背中にトリナを背負ったまま、全く速度を落とすことなく駆け抜けていく。
巨大な魔物との遭遇という致命的な危機は脱したものの、トリナの体内に残された毒素を一刻も早く完全に中和しなければならない。
彼の広い背中を、コルネリアと三人の子供たち、そしてコユキが必死の足取りで追いかける。
子供たちの短い足では大人に追いつくのは容易ではないが、トリナを助けたいという一心で、誰一人として足を止めることはなかった。
分厚い木の扉を大きく開け放ち、カエラムは窓際に設置された寝台の上へトリナの身体を慎重に横たえた。
彼女の呼吸は先ほどよりもさらに浅くなっており、額からは大量の汗が滲み出している。
応急処置によって毒の進行を大幅に遅らせることには成功したものの、体内に残存する強力な毒素が、未だに彼女の神経を激しい痛みと共に侵し続けているのだ。
「ネリー、子供たちを少し離れた椅子に座らせて休ませてあげてください。すぐに解毒の処置に入ります」
カエラムは静かな声でそう告げると、壁際に並べられた無数の薬品棚へと向かった。
彼は幾つかの乾燥した薬草と木の根を抽き出し、乳鉢の中へ放り込む。
腕から繰り出される力強い動きによって、固い薬草は瞬く間に微細な粉末へとすり潰されていく。
そこへ水と特殊な効能を持つ樹液を数滴垂らし、素早くかき混ぜて液状の解毒薬を完成させた。
「トリナさん、少し苦いですが、一滴も残さずに飲み込んでください。これで楽になりますから」
カエラムが彼女の上半身を静かに支え起こし、木の器を口元へと運ぶ。
トリナは苦痛に顔を歪めながらも、生きようとする強い意志を持って、処方された解毒薬を喉の奥へと流し込んだ。
強力な薬効が、彼女の血液に乗って全身へと巡り始める。
数分も経たないうちに、彼女を苦しめていた激しい痙攣が静まり、荒々しかった呼吸が規則的なものへと落ち着いていった。
傷口の周囲に広がっていたどす黒い変色も徐々に薄らぎ、本来の健康的な肌の色を取り戻し始めている。
「……峠は越えました。体内に残っていた毒素は完全に中和され、もう命の危険はありません」
カエラムが大きく安堵の息を吐き出して告げると、部屋の隅で身を寄せ合って祈っていたニコ、ラケル、ルーシーの三人の子供たちから、一斉に歓声と安堵の吐息が漏れた。
コルネリアは子供たちの元へ歩み寄り、彼らの震える肩を両手で優しく包み込むように撫でた。
ニコたちの衣服は森の土や枯れ葉で汚れ、巨大な魔物と遭遇した恐怖と緊張によって、その小さな手は未だに微かに震え続けていた。
大人でさえ足がすくむような惨劇を目の当たりにしたのだ、無理もない。
「皆様、本当によく頑張りましたね。お母様はもう大丈夫ですよ。少し、冷たくて甘いものを飲みましょうね」
コルネリアはキッチンへ向かい、地下の貯蔵庫から一つのガラス瓶を取り出した。
中に入っているのは、初夏に彼女が時間をかけて仕込んでおいた、琥珀色に輝く特製の梅シロップである。
グラスにそのシロップをたっぷりと注ぎ、水で割っていく。
そこへ、魔力を使って作り出した小さな氷の欠片を浮かべれば、夏の暑さと疲労を吹き飛ばす、爽やかな梅ネードの完成である。
「さあ、どうぞ。梅の果汁がたっぷり入っていますから、元気が出ますわよ」
コルネリアがそれぞれの子供たちの手にグラスを渡していく。
ニコたちは両手で冷たいグラスを包み込み、ゆっくりと梅ネードを口に運んだ。
口内に広がる梅の自然な甘みと、少しだけ鼻に抜ける爽やかな酸味が、渇ききった喉を潤していく。
冷たい液体が胃の腑に落ちていくごとに、彼らの強張っていた神経が優しく解きほぐされ、震えていた肩からすっと力が抜けていくのが分かった。
そんな彼らの足元へ、小さな白い影がすり寄ってきた。
コユキはニコの足元で短い尻尾をぶんぶんと大きく揺らし、見上げるような仕草をした。
「ワフン!」
その愛らしい鳴き声を聞いた瞬間――子供たちの表情にようやく本来の明るい光が戻った。
「コユキ……! お前、すっごくかっこよかったぞ!」
「あんなに大きくて怖い魔物を、大きな声で追い払っちゃうなんて……コユキは本当に強いんだね!」
ニコとラケルがグラスを置き、床にしゃがみ込んでコユキの雪のように白い柔らかな身体を抱きしめる。
ルーシーもまた、彼の背中を何度も撫でながら、尊敬の眼差しを向けていた。
子供たちからの惜しみない賞賛を浴びたコユキは、嬉しそうに「キュン」と甘えた声を漏らし、そのまま仰向けに転がって自身のお腹を無防備に見せつけた。
「ふふっ。あのような巨大な毒蛇が、どうしてコユキの声を聞いて逃げ出してしまったのか、未だに不思議でなりませんわ。でも、コユキが勇敢に前に出てくれなければ、どうなっていたか……」
コルネリアが微笑みながらその光景を見守っていると、隣に立ったカエラムが静かに頷いた。
「ええ。魔物というものは、時に自分よりも遥かに小さな存在の勇敢な態度に直面し、戦意を削がれて退散することがあると言われています。トリナさんの深い母の愛と、コユキの勇気が、我々の理解を超えた奇跡を起こしてくれたのでしょう」
――やがて、寝台の方から衣擦れの微かな音が響いた。
深く眠っていたトリナが、ゆっくりと身を起こしたのである。
「お母さんっ!」
ニコが即座に立ち上がり、寝台の傍へと駆け寄った。
トリナは自身の右足の感覚を確かめ、痛みが完全に消え去っている事実に驚愕の表情を浮かべた後、我が子を力強く抱きしめた。
「ニコ……ああ、無事でよかった。本当に、どこにも怪我はないのね……?」
「俺はどこも痛くないよ。先生のお薬を飲んで、お母さんの痛いのも消えたんだね。よかった……本当によかった……っ」
ニコの空色の瞳から再び大粒の涙が零れ落ち、トリナの衣服を濡らしていく。
トリナもまた、我が子の温もりを両腕で確かめながら、とめどなく涙を流し続けた。
親子の愛情の深さを確認し合った後、トリナは寝台から降り、カエラムとコルネリアの前に立って深々と頭を下げた。
「カエラム先生、コルネリアさん……そして、コユキちゃん。皆様がいなければ、私はあの恐ろしい魔物の毒で命を落とし、ニコを一人ぼっちにさせてしまうところでした。この御恩は、言葉では到底言い尽くせません」
「頭を上げてください、トリナさん。我々は当然のことをしたまでです。それに、子供たちの命を守り抜いたのは、危険を顧みずに前に立ち塞がったあなた自身の愛情の力ですよ」
カエラムが穏やかな声で労うと、トリナは涙を拭い、何度となく感謝の言葉を繰り返した。
――すっかり身体の調子を取り戻した彼女は、子供たちを連れて帰路につく準備を始めた。
その時、ニコがカエラムとコルネリアの目の前へと一歩進み出た。
彼は自身の粗末な衣服の小さなポケットに手を入れると、そこから何かを取り出し、両手で包み込むようにして二人の前へと差し出した。
「これ……先生と、コルネリアお姉ちゃんに」
ニコの小さな手のひらに乗せられていたのは、二つの熟れた果実だった。
それは、彼らが森の奥で収穫しようとしていた、夏の恵みであるイチジクである。
魔物に襲われた際、収穫したばかりの籠は地面に落としてすべて台無しにしてしまったが、この二つだけは彼のポケットの中に大切にしまわれていたため、奇跡的に難を逃れていたのだ。
「籠の果物は全部落としちゃったけど、この二つだけはポケットに入れてたから無事だったんだ……少し潰れちゃってるけど、すごく甘くて美味しいんだよ。俺たちのお母さんを助けてくれて、本当にありがとう」
ニコから手渡されたそのイチジクは、ポケットの中で押し潰されて少し不格好に変形してしまっていたが、果皮の裂け目からは蜜が滲み出し、息を呑むほどに甘く芳醇な香りを漂わせていた。
コルネリアはニコの目の前でしゃがみ込み、両手を添えてその二つの果実を大切に受け取った。
少年の体温が残るその果実の重みは、どのような高価な宝石よりも遥かに尊く、心を満たす温かさを持っていた。
「ニコ君……こんなに素晴らしい贈り物を、本当にありがとうございます。先生と一緒に、大切にいただきますわ」
コルネリアが微笑みを向けると、ニコは少し照れくさそうに顔を赤くして、力強く頷いた。
ラケルとルーシーもまた、足元にいるコユキの頭をもう一度だけ撫でて別れを惜しみ、トリナの手に引かれて入り口の扉へと向かう。
「それでは、我々はこれで失礼いたします。先生、コルネリアさん、本当にありがとうございました」
「どうかお気をつけて。森の浅い場所であっても、周囲の警戒は怠らないようにしてくださいね」
カエラムが気遣いの言葉をかけ、分厚い扉を開け放つ。
外はすでに夏の激しい日差しが和らぎ始め、森の木々を通り抜ける風が心地よい涼しさを帯びていた。
トリナと三人の子供たちは、小道を歩き出しながら何度も何度も後ろを振り返り、その度に大きく手を振って別れの挨拶を繰り返した。
「ワフン!」
コユキもまた、彼らの姿が見えなくなるまで、入り口の前に座り込んで元気な声で応え続けていた。
やがて彼らの賑やかな声が森の奥へと吸い込まれ、診療所の周囲に再び穏やかな静けさが戻ってきた。
カエラムは傍らに立つコルネリアの肩を大きな手で優しく抱き寄せ、彼女の両手の中にある二つのイチジクを見下ろした。
「……少し形は崩れてしまいましたが、これほどまでに美しく、甘い香りを放つ果実を、私は他に知りませんよ」
「ええ。ニコ君の優しい想いと、お母様を大切にする深い愛情がたっぷりと詰まっていますもの。今夜の夕食の後に、二人で分け合いましょうね」
夏の終わりを予感させる柔らかな風が、木々の葉を優しく揺らしている。
過酷な森の自然の脅威と隣り合わせにありながらも、互いを助け合い、思いやる人々の深い絆の温もり――。
手のひらに残る果実の甘い香りに包まれながら、カエラムとコルネリアは寄り添い合い、平和を取り戻した森の景色をいつまでも穏やかな眼差しで見つめ続けていた。




