170 トリナさん、もう大丈夫ですよ
夏の空気を鋭く引き裂くような、女性の悲痛な絶叫。
庭先に美しく並べられた琥珀色の梅を満足げに眺めていた平和な時間は、その声によって一瞬にして打ち砕かれた。
――ただ事ではない。
カエラムは瞬時に事態の深刻さを悟り、居住区画の入り口へと身体を翻した。
「ネリー、急患です! 入り口に置いている往診用の鞄を!」
カエラムの鋭い指示に、コルネリアは弾かれたように駆け出し、常に緊急時のために薬草や治療器具を詰め込んで準備されている分厚い鞄を掴み取った。
それを自らの肩に掛け、彼と共に悲鳴の上がった深い森の奥の方角へと全力で走り出す。
彼らの足元では、コユキが小さな身体を躍動させ、短い足でありながらも信じられないほどの速度で並走していた。
鬱蒼と茂る夏の木々を抜け、獣道を突き進む。
やがて、風に乗って微かに甘い果実の香りが漂ってきた。
森の住人たちが好んで集まる、自生のイチジクの木が群生している開けた場所である。
しかし現在、その甘い香りは鼻を突くような酷い獣の臭気と、血の匂いによって汚染されていた。
視界が開けた先でコルネリアは息を呑み、足の動きを完全に止めてしまった。
そこには、三人の子供たち――ニコ、ラケル、ルーシーが、極度の恐怖に顔を引き攣らせて固まっていた。
彼らの手元には、採れたばかりの熟したイチジクが入った籠が転がっている。
そして子供たちのすぐ目の前には、ニコの母親であるトリナが、自身の右足を強く抱え込むようにして地面にうずくまっていた。
彼女の足元からは、赤黒く濁った異常な色の血がとめどなく流れ出している。
彼女たちをそのような惨状に追いやった元凶は、すぐ目の前で鎌首をもたげていた――。
古い大樹の幹ほどもある太い胴体。
全身を覆うのは、毒々しい紫と緑が混ざり合った、見るからに禍々しい鱗。
それは森のさらに奥深く、決して人が近づかない深淵の領域にのみ生息しているはずの巨大な毒蛇の魔物――ヨルムンガンドであった。
なぜこのような森の中腹にまで高位の魔物が迷い込んできているのか。
疑問を抱く暇はない。
トリナは、子供たちとイチジクを採りに来て運悪くこの怪物と遭遇してしまい、我が子やその友人たちを守るために自ら身を挺して前に立ち塞がり、結果としてその鋭い毒牙の餌食となってしまったのだ。
ヨルムンガンドは、一度噛み付いて毒を注入した獲物が完全に動かなくなるのを待っているのか、赤い舌を不気味に出し入れしながら、這いずるような動きでトリナと子供たちへの距離をじりじりと詰めていく。
ニコが震える手で折れた木の枝を構え、「お母さんに、近づくな……!」と泣き叫びながら立ち塞がろうとしているが、強大な魔物を前にしてはあまりにも無力であった。
「……下がってなさい、ネリー」
カエラムは静かに腰の短剣に手をかけ、巨大な毒蛇の魔物の意識を自身に向けさせるために前へと踏み出そうとした。
――しかし、それよりも早く動いた影があった。
カエラムの足元から、雪のように白い小さな毛玉が弾丸のような速度で飛び出したのである。
コユキは一直線にトリナと子供たちの前へ躍り出ると、自身の何十倍もの体積を持つ巨大な毒蛇の魔物を見据え、尻尾をピンと立てて立ち塞がったのである。
「コユキ……! 危ないですわ!」
コルネリアが悲鳴のような声を上げた。
ラケルやルーシーも、小さな子犬が身の毛もよだつ怪物に食べられてしまうと思い、両手で顔を覆い隠す。
圧倒的な質量差。
誰もが最悪の光景を予感した――その瞬間。
コユキは巨大なヨルムンガンドの目を真っ直ぐに見つめ返し、大きく口を開けて吠えた。
「ワフン!」
それは、普段コルネリアに撫でてほしい時や、ご飯をねだる時に発するような、極めて可愛らしく、全く威圧感のない小さな鳴き声であった。
しかし、その一声が響き渡った直後――。
信じられないような光景が、その場にいる全員の目の前で繰り広げられた。
先ほどまで恐ろしい威圧感を放っていた巨大なヨルムンガンドが、まるで目に見えない巨大な雷に打たれたかのように、全身の鱗を逆立てて激しく震え上がったのである。
怪物は鎌首を地面に擦り付けるようにして低く下げ、完全に敵意を消失させた態度を示した。
そして、目の前にいる小さな白い犬から必死に視線を逸らしながら、自身の長い身体を器用に反転させると、凄まじい速度で藪を薙ぎ倒し、森の深淵へと逃げるように姿を消してしまった。
「……え……?」
あまりの出来事に、ニコの手から木の枝が滑り落ちる。
コルネリアも状況が理解できず、呆然と立ち尽くした。
ただの可愛らしい子犬のひと鳴きで、あのような恐ろしい魔物が平伏するように逃げ去っていくなど、到底あり得ない事象である。
「……なぜ、あれほどの魔物が……」
カエラムもまた、アンバーの瞳に深い驚愕の色を浮かべていた。
しかし、魔物が去った理由を考察している時間はない。
彼はすぐさま思考を治療へと切り替え、地面に倒れ伏しているトリナの元へと駆け寄った。
「ネリー、鞄を! コユキは子供たちを落ち着かせてあげてください」
カエラムが声を張り上げると、コルネリアは我に返り、背負っていた重い往診鞄を彼の手元へと滑り込ませた。
コユキもまた、先ほどの不可解な威厳を完全に消し去り、「キュン」と愛らしい鳴き声を漏らしながら、恐怖に震える子供たちの足元へすり寄って彼らを慰め始める。
カエラムはトリナの右足の患部を確認した。
深い二つの牙の痕からは黒く濁った血が滲み出し、周囲の皮膚がすでにどす黒く変色し始めている。
それは、強力な神経毒が体内に侵入している証拠だった。
「トリナさん、意識はありますか? 今から痛みを伴う処置をしますが、耐えてください!」
返事を待つ間も惜しみ、カエラムは鞄の中から清潔な布を取り出すと、噛まれた傷口よりも心臓に近い太ももの部分にきつく巻き付け、容赦のない力で縛り上げた。
これによって毒が全身へ巡る速度を物理的に遅延させる。
続いて、消毒液に浸してある鋭い刃物を取り出した。
「ネリー、彼女の身体を押さえていてください」
コルネリアが背後からトリナの肩をしっかりと抱えて固定する。
カエラムは躊躇うことなく、牙の痕に合わせて皮膚を僅かに切り広げた。
トリナの口から苦悶の声が漏れるが、手を止めることはない。
彼は両手の親指を傷口の周囲に強く押し当て、傷の奥深くに入り込んでいる毒素と汚染された血を、力任せに外部へと絞り出し始めた。
赤黒い血が次々と地面へ零れ落ちていく。
コルネリアが傍らから清浄な水を静かに注ぎ、毒素を洗い流す作業を手伝う。
十分に毒血を絞り出したと判断したところで、カエラムは再び鞄へ手を伸ばし、小さな陶器の壺を取り出した。
中に入っているのは、彼が日頃から調合して常備している、あらゆる毒の進行を中和するための強力な薬草ペーストである。
彼はその独特の匂いを放つ軟膏を指先にたっぷりとすくい取り、切り開いた傷口の奥深くまで直接刷り込むようにして塗りたくった。
「ああぁっ……!」
傷口を焼かれるような激痛に、トリナの身体が大きく跳ねる。
しかし、薬草の成分が血液に浸透し始めたのか、彼女の浅く早かった呼吸が、次第に規則的なものへと落ち着きを取り戻し始めた。
「応急処置は完了しました。毒の大部分は排出できましたが、まだ微量が体内に残っています」
カエラムが傷口を包帯で手早く巻き上げ、額に浮かんだ汗を拭う。
コルネリアの腕の中で、トリナがゆっくりと重い瞼を開いた。
毒の熱に浮かされ、ひどく霞んだ瞳。
強烈な痛みが全身を支配しているはずであるのに、彼女の青ざめた唇から紡ぎ出された最初の言葉は、自身の心配ではなかった。
「……ニコ……ラケル君……ルーシーちゃん……」
震える声で周囲を探るように視線を彷徨わせる。
「……怪我は、ありませんか……? みんな、無事……?」
「お母さんっ……!」
その声を聞いた瞬間、堪えていたニコの感情が決壊した。
彼はトリナの元へ転がり込むようにしてしがみつき、母親の衣服を強く握りしめて大粒の涙を零し始めた。
「俺のせいだ……俺が、イチジクを採りに行きたいなんて言ったから……っ! お母さん、死なないで……ごめんなさい、ごめんなさいっ……!」
「泣かないで、ニコ……あなたが、無事なら……それで……」
トリナは痛みに顔を歪めながらも、我が子の無事を確かめるように、震える手でニコの背中を優しく撫でた。
ラケルとルーシーもまた、彼女の深い愛情と自己犠牲の姿に胸を打たれ、ニコの隣でしゃがみ込んで声を上げて泣きじゃくっている。
以前、過労で倒れた時もそうだった。
彼女はいつでも、自身の命よりも先に子供の安全を願い、己を犠牲にすることを全く厭わない。
その果てしなく深い母の愛に、コルネリアは自身のペリドットの瞳を熱く潤ませた。
「トリナさん、もう大丈夫ですよ。お子様たちは皆、無傷で安全です。先生の処置が早かったおかげで、あなたの命も決して失われることはありません」
コルネリアが優しく語りかけ、トリナの汗ばんだ額を布で丁寧に拭う。
しかし、完全に安心できる状況ではない。
カエラムが立ち上がり、往診鞄を再び手にした。
「応急処置で毒の回りは抑え込みましたが、完全な解毒を行うためには、一刻も早く診療所の寝台へ運んで専用の薬を投与する必要があります。トリナさん、少し揺れますが我慢してくださいね」
カエラムはトリナの背中と膝の裏に腕を差し入れると、彼女の身体を軽々と持ち上げ、自身の広い背中へと背負い上げた。
そして、子供たちへ向けて力強い声で呼びかける。
「ニコ君たち、お母様は私が必ず助けます。君たちはネリーと手を繋いで、コユキと一緒にしっかりと私の後ろについてきなさい」
「……はいっ……!」
ニコが涙を乱暴に拭い、ラケルとルーシーの手を強く握る。
コルネリアもまた子供たちの背中を押し、先導するように走り出したカエラムの大きな背中を追いかけた。
一行の足元ではコユキが「キュン、キュン」と子供たちを励ますような可愛い声を出しながら、彼らの歩みを守るように寄り添って走っている。
あの巨大な毒蛇がなぜ小さな犬を恐れて逃げ出したのか――その理由は未だに誰にも分からない。
しかし今はただ、目の前の尊い命を繋ぎ止めることだけがすべてであった。
夏の強い日差しが差し込む森の小道を、重い足音を響かせながら、カエラムたちは診療所へ向けて一目散に駆け抜けていくのだった。
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