168 私、聞いておりませんわ……っ!
夕食を終え、食器の片付けをすべて済ませた後。
二人は一日の汗と調理の匂いを洗い流すため、順番に裏庭の温泉へと向かった。
夜の冷気が心地よく肌を撫でる中、コルネリアは脱衣所で衣服を脱ぎ、地下から絶え間なく湧き出し続ける大地の熱を含んだ湯の中へと静かに身体を沈めた。
一日の労働で強張っていた筋肉の奥底まで、温かい湯の効能が優しく染み渡っていく。
彼女は湯船の縁に寄りかかり、夏の夜空を見上げた。
今夜は雲が少なく、無数の星々が静かな光を瞬かせている。
遠くの茂みからは、夏を報せる虫たちの微かな音色が、心地よい夜の調べとなって耳に届いていた。
この森の診療所に身を寄せてから、彼女の生活は過去のどの時間よりも豊かで色鮮やかなものへと変わった。
自身の生まれ持った不運体質によって王都の貴族社会から疎まれ、孤独な令嬢として息を潜めるように生きていた日々は、今となっては遠い幻のようである。
土に触れ、作物を育て、新しい命の世話をする。
その一つ一つの手触りのある営みが、彼女の心を本来の健やかな形へと戻してくれている。
そして何より、この穏やかな生活の中心には、常に自分を深く愛し、すべてを温かく包み込んでくれるカエラムがいるのだ。
湯の表面を漂う白い蒸気の向こう側に、今も自身の帰りを待っているであろう彼の顔を思い浮かべる。
湯上がりには、二人で一緒に冷たい果実の氷菓を味わう約束がある。
さらにその先には、今朝、窓の外に現れたサンディーという予期せぬ来訪者によって不本意な形で中断されてしまった、あの甘い時間の続きが待っているはずだった。
十分に身体を温め、寝間着に身を包んで居住区画へと戻る。
ランプの灯りが優しく照らす寝室では、すでに湯浴みを終えたカエラムが、静かに読書をしながら彼女の帰りを待っていた。
「お帰りなさい、ネリー。身体は十分に温まりましたか?」
「はい。夜風がとても心地よくて……いつまでも浸かっていたいくらいでしたわ」
コルネリアが微笑んで寝台の端に腰を下ろすと、カエラムは手元に用意していた小さな木の盆を彼女の前に差し出した。
そこには、夕食の前に下拵えをしておいた桃とミルクのアイスが、二つの器に分けられて乗っていた。
匙を手に取り、二人は揃って冷たい氷菓を口へと運んだ。
微細な氷の粒が舌の上で滑らかに溶け出し、濃厚なミルクの甘みと桃の芳醇さが口いっぱいに広がる。
温泉の熱を蓄えていた身体の奥深くに、冷たい果実の恵みが心地よく染み渡った。
「とても美味しくできましたわ。ミザリィさんがくださった桃の甘みが本当に強くて……」
コルネリアが器を置き、満足げな笑みを彼に向けた――その時。
カエラムのアンバーの瞳が、ふと彼女の顔の一部をじっと見つめて静止した。
彼女の柔らかな唇の端に、溶けかけたミルクの滴が僅かに残っていたのだ。
カエラムは自身の器を傍らの机に置くと、自身の顔を覆っていた丸メガネを外し、ケースへと静かにしまった。
彼は何も言わず、コルネリアの顔へとゆっくりと自身の顔を近づけていく。
そして、彼女が言葉を発するよりも早く、その唇の端に残った甘い滴を、自らの唇で優しく掬い取るようにして直接口づけた。
「……っ」
突然の柔らかな接触に、コルネリアの肩が微かに跳ねる。
ミルクの甘さと桃の香りが混じり合う、ごく僅かな時間の触れ合い。
カエラムは唇を離すと、そのまま彼女の頬に大きな手を添え、逃げ場を塞ぐような至近距離で低い声を落とした。
「……今朝の、続きでしたね」
その言葉と共に、コルネリアの身体はカエラムの腕によって寝台の柔らかなシーツの上へと静かに押し倒された。
彼が軽く手を振ると、部屋を照らしていたランプの灯りが消え、寝室は窓から差し込む月明かりだけの薄闇に包まれる。
カエラムの唇が再びコルネリアの唇を塞ぎ、互いの熱を貪り合うような深く濃密な口づけへと変化していく。
普段の彼は、どこまでも穏やかで紳士的だった。
彼女の身体を気遣い、触れる手つきは常に壊れ物を扱うように優しく、少しの触れ合いを楽しんだ後は満足そうに彼女を抱きしめて、静かに眠りにつくのが常だった。
コルネリアもまた、今夜もそのように甘く満ち足りた時間の果てに、穏やかな眠りが訪れるものだと信じて疑っていなかった。
――しかし、彼女は一つだけ重要な事実を忘れていた。
彼女を今まさに腕の中に閉じ込めているこの男性は、巨大な丸太を一人で軽々と担ぎ上げ、必要なら数日間の徹夜の看病や薬草の調合もこなす、常軌を逸した無尽蔵の体力を誇る存在なのである。
そしてその底なしのスタミナは、愛する女性を求める夜の寝台においても、決して例外ではなかった。
「先生……もう、息が……っ」
幾度目かの口づけからようやく解放され、コルネリアが疲労感と共に息を継ごうとした矢先――。
カエラムは呼吸を乱す様子すら全く見せず、再びコルネリアの柔らかな首筋へと熱を帯びた唇を這わせ始めた。
彼の大きな手が彼女の背中をしっかりと引き寄せ、全く衰えることのない情熱で、少しの休息も許さないほどに彼女を強く抱きしめ続ける。
「ちょ、お待ちくださいませ……! 私、もう頭が……っ」
予想外の展開に、コルネリアのペリドットの瞳が驚きと戸惑いに大きく見開かれる。
これまでの彼女の経験では、少し甘くじゃれ合えば、あとは穏やかな余韻が残るだけであった。
しかし目の前の彼は、まるで何日も水を飲んでいない旅人が幻の泉を見つけたかのように、貪欲に――そして、執拗に彼女への愛情表現を止めようとしない。
「お待ちしませんよ、ネリー。今朝……私がどれほど必死に己の理性を押さえ込んでいたか、あなたには分からないでしょう」
カエラムの声は恐ろしいほどに甘く、そして逃げ場のない支配的な熱を帯びていた。
「そ、それはサンディーがお腹を空かせていたから仕方なく……! でも、先生の体力が、こんなに底なしだなんて、私、聞いておりませんわ……っ!」
涙目で抗議の声を上げるコルネリアであったが、その声すらも、カエラムの愛情深い口づけによって容易く飲み込まれてしまう。
普段の彼からは想像もつかないほどの野生的な雄の顔。
圧倒的な体力と腕力で彼女を完全に腕の中に閉じ込め、何度でも、どこまでも深く彼女を自らの熱で染め上げようとするその姿に、コルネリアの思考は完全に白く焼き切れていった。
「まだ、夜は始まったばかりです。明日の朝まで、私から逃げられるとは思わないでくださいね」
耳元で囁かれたその甘く危険な宣告に、コルネリアは全身の血が沸騰するような激しい羞恥と、彼にどこまでも求められる圧倒的な歓喜に挟まれながら、ただただ彼の広い肩に細い腕を回してすがりつくことしかできなかった。
部屋の隅では、コユキが小さな背中を丸め、この世の何事にも動じないという様子で静かな寝息を立てている。
窓の外の星空がゆっくりと位置を変え、東の空が白み始めるその時まで――。
底なしの体力を持つカエラムの貪欲な愛情に、一晩中甘く溶かされるほどに翻弄され続ける、過酷で幸福な夜は終わることなく続いていくのだった。




