167 先生のお薬と温かい言葉がありましたから
強面の神父サイモンを見送った後、森の木々の間にゆっくりと夕闇が降りてきた。
空が深い藍色に染まり、夜の静寂が診療所の周囲をすっぽりと包み込み始める頃――。
キッチンのランプに火を灯したコルネリアは、夕食の本格的な支度に取り掛かる前に、まずは足元で期待に満ちた視線を向けている小さな家族と向き合った。
「コユキ、お待たせいたしました。ご飯の前に、今までのお勉強の復習をいたしましょうね」
コルネリアが空の器を手に持ち、優しい声で呼びかけると、コユキは短い尻尾を大きく左右に揺らしてその言葉に応えた。
彼女が静かに「おすわり」と指示を出すと、コユキは後ろ足を器用に折り曲げて床に腰を下ろし、背筋を真っ直ぐに伸ばして待機する。
続けてコルネリアが自身の手のひらを差し出し「おて」と告げれば、真っ白で柔らかな前足を彼女の手の上に静かに乗せた。
ここまでは日常的に行っている基本的な動きである。
さらに彼女が手を床の方へ下げて「伏せ」を指示すると、コユキは滑らかな動作でお腹を床に完全に密着させる。
そこからコルネリアが両手で輪を作り「あご」と呼べば、彼はその手で作られた輪の中に自身の小さな顎を迷いなくすっぽりと収めた。
そして最後。
コルネリアが指先で円を描きながら「ごろん」と告げた瞬間、コユキは自身の背中を床へ滑らせて転がり、急所であるはずの無防備な腹部を完全に天井へと向けて仰向けの姿勢をとった。
これまで教え込んできた五つの指示を、一切の淀みなく、流れるような連続動作で見事に成功させたのである。
これほどまでに人間の言葉と指示を理解し、完全に服従の姿勢を見せるのは、彼がこの診療所の住人を心から信頼しきっている何よりの証拠だった。
「まあ……! なんて賢いのでしょう。すべて完璧ですわ、コユキ」
コルネリアはペリドットの瞳を細め、仰向けになって甘えるコユキのふわふわな腹部を両手でたっぷりと撫で回した。
存分に褒め称えられたコユキは満足げに鼻を鳴らし、ご褒美として与えられた肉と野菜の煮込み料理を夢中になって平らげていった。
小さな家族の食事を見届けた後、コルネリアは自分たちのための夕食の準備を開始した。
今夜の献立の主役は、午前中にグリンダが届けてくれた、タツィオとの共同作業の結晶とも言える特製のレモン風味ソーセージである。
しかしその火を使う調理に入る前に、彼女は入浴後の楽しみとなる冷たい甘味の下拵えに取り掛かることにした。
籠の中に入っていたのは、先日街へ出た際に八百屋のミザリィがおまけして譲ってくれた、よく熟れた立派な桃だった。
数日間、直射日光の当たらない涼しい場所で寝かせておいた桃は、今まさに食べ頃を迎えている。
コルネリアが刃先を当てて薄い皮を丁寧に剥いていくと、指を伝って零れ落ちそうになるほどに果汁がとめどなく溢れ出し、キッチン全体が甘い果実の香りで満たされた。
彼女はその柔らかな果肉を細かく刻み、深めの器の中で新鮮なミルクとたっぷりの砂糖と共に混ぜ合わせる。
そして、器を両手で包み込むように持ち、自身の内側から魔力を引き出した。
彼女の指先から極寒の冷気が放たれ、器の表面に瞬く間に白い霜を付着させていく。
内部の液体は彼女の魔力によって急速に温度を奪われ、微細な氷の結晶へと形を変えていった。
完全に凍りつく直前の、匙が辛うじて入る絶妙な硬さを持った氷菓に仕上がったところで、夕食と入浴が終わるまで地下の涼しい貯蔵庫へと安置しておく。
甘味の準備を完璧に終え、いよいよ火を使う調理である。
厚手の鉄鍋をかまどの強い火にかけ、少量の油を引く。
そこへ手作りのソーセージを並べ入れると、内部に閉じ込められていた脂が弾け香ばしい匂いが立ち上った。
さらに練り込まれたハーブの複雑な香りと、レモンの爽やかな酸味が熱に乗ってキッチン全体へ広がり、たまらないほどの食欲を喚起する。
ソーセージの隣の空いた空間には、裏庭の菜園で収穫したばかりの夏野菜を隙間なく敷き詰めた。
水分をたっぷり含んだ緑色のズッキーニ、黄色い粒が輝くとうもろこし、肉厚で真紅のパプリカ、そして星の形をした断面を持つオクラである。
野菜たちは肉から染み出した旨味たっぷりの脂を表面に纏いながら、野菜自身の持つ水分によって内側までふっくらと柔らかく蒸し焼きにされていく。
出来上がった料理を円卓へと運び、カエラムがよく冷えたエールの栓を抜いた。
琥珀色の液体をグラスに並々と注ぎ入れる。
「今日も一日、お疲れさまでした。乾杯」
二人は向かい合って、軽くグラスを打ち鳴らす。
冷たい麦酒の苦味が、一日の疲労を心地よく洗い流してくれた。
ナイフを使って分厚いソーセージを切り分けると、内側から透明な肉汁が溢れ出す。
獣の肉の力強い旨味を、レモンの清涼感が見事にまとめ上げており、脂の重さを全く感じさせない。
そこへ肉汁を吸って限界まで甘みを引き出された夏野菜を合わせ、再び冷たいエールで追いかける。
「これは素晴らしい味わいです。タツィオ君の仕留めた上質な肉と、グリンダさんの繊細な味付けが見事に調和している。お二人の絆の深さが、この一本のソーセージに凝縮されているかのようですね」
「ええ、本当に。お二人が夜遅くまでご一緒に作業をされていた姿を想像すると、余計に美味しく感じられますわ」
コルネリアが微笑みながらとうもろこしを頬張ると、カエラムもまたアンバーの瞳を和ませて頷いた。
「今日はサイモン神父という新しい出会いもあり、充実した一日でした。あの恐ろしい風貌の奥に、あれほどまでに深く温かい慈愛を隠し持っているとは。医師として、彼のような自己犠牲の精神を持つ人間には、どうしても元気でいてほしいと願ってしまいますよ」
「先生のお薬と温かい言葉がありましたから、きっと神父様もしっかりと休養をとってくださるはずですわ。私たちのこの診療所が、あのように森の外の人々のお役にも立てていることが、私はとても嬉しいのです」
自分たちの手で開拓した土地で育つ野菜と、親しい友人たちがもたらしてくれる山の恵み。
そして、助けを求めて訪れる人々を癒やすことができるという充実感。
完璧な調和をもたらす夕食と共に、二人の間には絶え間ない笑顔と、満ち足りた穏やかな会話が溢れ続けた。




