160 とても幸せで、愛おしい痛みでしたわ
すべての灯りが落とされ、森の深い静寂が満ちる夜の居住区画。
部屋の隅に敷かれた柔らかな毛布の上では、今日もコユキが小さな背中を丸め、二人の世界には一切立ち入らないとばかりに、規則正しい寝息を立てていた。
その健気で賢い配慮に守られるように、寝台の上には外の涼しい夜風とは無縁の、甘く濃密な空気が漂っている。
カエラムは、自身の腕の中にすっぽりと収まっているコルネリアの柔らかな髪を、優しい手つきで繰り返し撫でていた。
昨夜、身体の境界線を完全に消し去り、戻ることのできない夜の底へと共に沈んだ二人。
その余韻は冷めるどころか、触れ合う肌を通じて互いの体温をさらに高く引き上げ続けている。
「……ネリー。少し、お聞きしてもよろしいですか?」
静かな暗闇の中、カエラムの声がコルネリアの耳元に低く落ちた。
その声音には、愛する女性を想う一人の男としての熱情と同時に、彼女の身体を何よりも大切に思う医師としての真摯な気遣いがはっきりと滲んでいた。
「昨夜の、初めての交わりの後……あなたの身体に、過度な負担や痛みは残りませんでしたか?」
その率直で――しかし、どこまでも優しい問いかけに、コルネリアは自身の顔の中心から、一気にカッと熱が込み上げてくるのを感じた。
昨夜の彼がどれほど自分を求め、そして同時にどれほど細心の注意を払って愛してくれたかを思い出し、全身の血が激しく巡り始める。
彼女は羞恥に耐えきれず、カエラムの広い胸に顔を深く埋めたまま、小さな声で言葉を紡いだ。
「……少しだけ、違和感のようなものはありました。けれど……先生の愛情を私の内側に確かに感じられる、とても幸せで、愛おしい痛みでしたわ」
それは、彼女の純粋な心からの本音だった。
彼が与えてくれるものなら、それがどのような熱であれ、痛みであれ、すべてが幸福の証なのだと。
その健気で、あまりにも愛らしい答えを聞いた瞬間――。
カエラムの中で、彼女を大切に守ろうとしていた自制心が音を立てて崩れ去るのがわかった。
もはや自身の中に、彼女への激しい渇望を抑え込めるだけの鎖は一つも残されていない。
彼はコルネリアの肩を抱く腕の力を強め、その柔らかな身体を寝台へと深く沈み込ませた。
「……今夜は、決してあなたの負担にならないように……あなたという存在のすべてを、ひたすらに甘やかしますよ」
その宣言とともに、カエラムの顔が近づく。
最初は触れるだけの優しい口づけ。
しかしそれは数秒と経たないうちに、互いの吐息を深く絡め合う、熱を帯びた濃厚な交わりへと急激に形を変えていった。
暗闇の中で、衣擦れの微かな音だけが甘く響く。
寝間着越しに伝わってくる、尋常ではない互いの高い体温。
コルネリアの首筋を滑るカエラムの指先が、肌の表面に火傷のような甘い痺れを残していく。
彼の大きな手が彼女の背中を撫で上げ、耳元に落とされる熱い吐息が、コルネリアの思考を完全に溶かしていく。
「先生……」
熱に浮かされたように彼の名前を呼ぶ声は、甘く掠れていた。
二人の間にあったわずかな隙間は完全に失われ、密着した身体からは互いの早鐘のような鼓動が直接伝わってくる。
まさに今、このまま互いのすべてを委ね合い、昨夜よりもさらに深い愛の淵へと足を踏み入れようとした――その瞬間。
カエラムの肩越しに、ふと窓際へと視線を向けたコルネリアの全身が、恐ろしいまでの硬直に支配された。
月明かりにうっすらと照らされた窓。
完全に閉め切られていなかったカーテンの数センチの隙間から、漆黒の闇の中に浮かび上がるぎょろりとした奇妙な目玉が、無言のまま、こちらをじっと覗き込んでいたのである。
人間のものとは到底思えないその異様な大きさと、不気味なほどの静けさ。
甘く煮詰まっていた空気は一瞬にして凍りつき、コルネリアの喉の奥から、恐怖に引き攣った短い悲鳴が漏れた。
「ひっ……!」
コルネリアが恐怖のあまりカエラムの胸にしがみついた瞬間、彼女のただならぬ異変を察知したカエラムの反応は神速であった。
彼は即座に自身を盾にするようにしてコルネリアを背後に庇い、鋭い視線を窓の隙間へと向ける。
そして全くためらうことなく立ち上がり、窓辺のカーテンを勢いよく左右に引き開けた。
月明かりが室内に差し込み、窓の外に立つ存在の全貌が露わになる。
そこには、恐ろしい魔物でも、夜の侵入者でもなく――。
分厚い口元をモチャモチャと動かしながら、夜の冷気の中で呑気に草を反芻している巨大な牛、サンディーが立っていた。
「……っ」
カエラムは大きく息を吸い込み、そのまま言葉を失って立ち尽くした。
コルネリアもまた、カエラムの背中越しにその黒と白の斑模様の巨体を確認し、先ほどまでの恐怖と甘い熱が一気に足元から抜け落ちていくのを感じた。
ファノーネと同室にされた馬小屋がよほど狭く感じたのか――あるいは、単に夜風に当たりたくなったのか。
サンディーはまたしても自らの力で扉を押し開け、見事な脱走劇を演じてみせたらしい。
そして、何故かこの診療所の窓際を散歩の経由地に選んだのだ。
「……いくら何でも、人の領域に足を踏み入れすぎですよ。ムードを完全に粉砕するにも程があります」
カエラムが、疲労と呆れが入り混じった深いため息を吐き出す。
彼の中に渦巻いていた男としての熱情は、窓の外で呑気に口を動かす巨大な牛の姿によって、見事に消火されてしまっていた。
コルネリアもまた、ホッとした安堵の後にやってきた強烈な可笑しさに耐えきれず、両手で顔を覆って小さく肩を震わせ始めた。
「さあ、着替えて外へ出ましょう。あの脱走兵を、もう一度馬小屋へ連れ戻さなければなりませんからね」
カエラムは苦笑を浮かべながら寝間着の上に羽織りものを纏い、コルネリアも慌てて身支度を整えた。
扉を開けて外に出ると、夏の夜風が火照った二人の頬を心地よく撫でていく。
サンディーは逃げる様子もなく、近づいてきた二人の姿を見て「ああ、こんばんは」とでも言いたげに、ゆっくりと瞬きをした。
「まったく……あなたは本当に、自由な魂を持った牛ですね」
カエラムが呆れたようにサンディーの太い首に巻かれた綱を握り、コルネリアもその後ろから優しく背中を押す。
「サンディー。明日の朝には、タツィオさんがあなたのために広くて立派な小屋を作ってくださいますから。今夜だけは、ファノーネに迷惑をかけずに、どうか大人しくしていてくださいね」
コルネリアが語りかけながら宥めると、サンディーは納得したのかしていないのか、のっそりとした足取りで再び馬小屋の方へ歩き始めた。
月明かりの下、巨大な牛を二人で懸命に押し戻す奇妙な夜の散歩。
先ほどまでの甘く濃密な空気はどこへやら――。
しかし、呆れと可笑しさが混じり合うこの騒がしくも平和な夜の騒動もまた、新しい家族たちと過ごすこれからの未来が、どれほど温かく笑顔に満ちたものになるかを確信させる、幸せな兆しに他ならなかった。
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