159 異国の料理、ガパオライスですわ
西の空が燃えるような深い茜色に染まり、森の木々が長い影を落とし始める夕暮れ時。
診療所の裏庭では、新しい家族を迎え入れるための準備に向けた話し合いが一段落し、カエラムとコルネリアが本日の訪問者たちを見送ろうとしていた。
「それじゃあ、私たちはこれで帰るわ。明日の朝一番で、タツィオと一緒に木材や飼育に必要な道具を一式全部持ってくるから待っていてね!」
「ああ。今日のうちに切り出せるだけの木材は準備しておく。立派な小屋を建てるから、楽しみにしていてくれ」
グリンダとタツィオは頼もしい言葉を残し、夕闇が迫る森の奥へと連れ立って帰っていった。
二人の姿が見えなくなった後、カエラムとコルネリアは残された動物たちを振り返った。
新しい小屋が完成するまでの今夜だけは、ファノーネの馬小屋にサンディーとキビ、アワを同居させる取り決めになっていたのだ。
カエラムが馬小屋の扉を開け、巨大な牛と二羽の鳥を中へと誘導する。
十分な広さがあったはずの馬小屋も、見上げるほどの巨体を持つサンディーが隣に陣取り、さらに足元を丸々と太ったニワトリが歩き回るとなれば、途端に空間の余裕が失われてしまった。
部屋の隅に追いやられる形となったファノーネは、長い首を巡らせてカエラムとコルネリアの方を見つめ、「いくら何でも、これは狭すぎるぞ」とでも言いたげな、明らかな無言の抗議の視線を向けてきた。
「……申し訳ありません、ファノーネ。明日には彼らの新しい家が完成しますから、今夜一晩だけの辛抱ですよ」
カエラムが苦笑を浮かべながらファノーネのたてがみを優しく撫でて宥めると、コルネリアもまた申し訳なさそうに手を合わせた。
ファノーネは諦めたように短い呼気を漏らし、干し草の山へと顔を突っ込んだ。
――動物たちを休ませた後、二人は一日の労働と騒動で掻いた汗を洗い流すため、診療所の奥にある温泉へと向かった。
地下から湧き出る温泉は、夏の強い日差しを浴びた肌を優しく包み込み、筋肉の奥底に溜まった疲労を芯から解きほぐしてくれる。
火照った身体をさっぱりと清め、寝間着に着替えた二人は、心身ともに深い安らぎを得てキッチンスペースへと戻ってきた。
部屋に入ると、お腹を空かせたコユキが短い尻尾を激しく左右に揺らしながら足元へと駆け寄ってきた。
コルネリアは夕食の準備に取り掛かる前に、まずはコユキのご飯を用意する。
小鍋でお肉と野菜を温め、良い匂いが漂い始めると、コユキは期待に満ちたマリンブルーの瞳で彼女を見上げた。
「コユキ、今日は新しいお勉強をしますわよ……伏せ!」
コルネリアが自身の平手を床の方へとゆっくり下げる動作を見せると、コユキはその指示の意図を正確に理解したのか、自身の柔らかいお腹を床にぴたりとつけ、前足を真っ直ぐに伸ばして見事な姿勢をとった。
「まあ! なんて賢いのでしょう。完璧ですわ、コユキ」
一度の指示で新しい芸を習得した賢い家族をたっぷりと褒めちぎり、ご褒美として器を床に置いてあげる。
コユキは夢中になって夕食を平らげていった。
小さな家族が満足したのを見届け、いよいよ二人の夕食作りである。
今夜の献立について、コルネリアは以前から密かに温めていた特別な料理を作る決意を固めていた。
「先生、今夜は少し変わったお料理に挑戦してみたいのです。私がまだ王都で暮らしていた頃、古い書物で読んだことのある異国の料理でして……ガパオライスという名前だったと記憶しておりますわ」
「ガパオライス、ですか。王都の書物に記された異国の味……それはとても楽しみですね。私が手伝えることはありますか?」
カエラムが興味深そうに尋ねると、コルネリアは彼に夏野菜の切り分けを頼んだ。
彼女はアルバーノの店で買った豚肉と鶏肉を細かく刻み、熱した厚手の鉄鍋に油を引いて炒め始める。
そこへ、カエラムが細かく均等に切り揃えた色鮮やかなパプリカと、刺激的な香りを持つ特製の調味料、そして清涼感のある香草をたっぷりと加えて一気に炒め合わせた。
強火で熱せられた具材から、これまでキッチンでは決して嗅ぐことのなかったような、甘辛く、そして食欲を激しく刺激する異国情緒あふれる香ばしい匂いが爆発的に立ち昇り、室内を満たしていく。
具材が完成すると、コルネリアは別の小さな平鍋を用意し、多めの油を熱した。
そこへ、卵を静かに割り入れる。
油の熱で白身の縁が茶色く焦げるほどに香ばしく焼き上げながらも、中心の黄身には絶妙な柔らかさを残した、完璧な状態の目玉焼きを作り上げた。
深さのある皿に炊き立ての白いご飯を盛り、その上から炒めた具材をたっぷりと乗せる。
そして最後に、頂上へと先ほどの目玉焼きを飾り付けた。
「完成いたしました。異国の料理、ガパオライスですわ」
円卓に向かい合って座り、二人は未知の料理へと匙を伸ばした。
一番上に乗った目玉焼きの黄身を匙の先で崩すと、濃厚な液体が滑らかに溢れ出し、下にある濃い味付けの具材と白いご飯に深く絡みついていく。
それらを一緒にすくい上げて口へと運ぶ。
「……これは、想像以上の美味しさです。香草の爽やかな香りと調味料の強い旨味を、卵の黄身のまろやかさが見事に包み込んでいます。それに、白身の縁の香ばしく硬い食感も素晴らしいアクセントになっていますね」
「本当ですわ。お肉の脂と夏野菜の甘みが、異国の香りと合わさって、いくらでも食べられてしまいそうです」
カエラムが感嘆の息を漏らし、コルネリアもまた自身の作った料理の成功に満面の笑みを浮かべた。
賑やかな一日の疲労を癒すように、二人は極上の異国の味わいを心ゆくまで堪能し、大満足で夕食の時間を終えた。
食器を片付け、静けさを取り戻した夜の診療所――。
二人はランプの穏やかな灯りが照らす寝室へと足を踏み入れた。
清潔なシーツが敷かれた寝台の端に腰を下ろしたコルネリアは、ふと、窓の外から聞こえてくる夜風の音を聞きながら、ある鮮明な記憶を脳裏に蘇らせていた。
それは以前、二人の関係がまだ明確な一線を引いていた頃に、カエラムが苦しげな声で彼女に告げた言葉であった。
――一度でもその境界線を越えてしまったら、私はもう二度と、あなたを手放して元の距離に戻ることはできないでしょうから……理性のタガが完全に外れてしまうのが、自分でも恐ろしいのです。
彼がどれほどの忍耐をもって自らを律し、コルネリアを大切に守ろうとしてくれていたかが痛いほどに伝わる言葉だった。
しかし――昨夜、二人はついにその境界線を越えてしまったのだ。
互いの体温を溶かし合い、後戻りのきかない深く甘い夜の底へと沈み込んだ記憶。
普段の穏やかな紳士としての姿からは到底想像もつかないほどに強気で、逃げ場を与えない支配的な熱を帯びていた彼の瞳。
その事実を改めて突きつけられ、コルネリアの頬に一気に熱が集まり、全身の体温が急激に上昇していくのがわかった。
すると、彼女の隣に静かに腰を下ろしたカエラムが、その内心の激しい動揺を完全に見透かしたように、小さな笑みをこぼした。
彼は自身の顔から丸メガネを外すと、寝台の脇にある小机の上のケースへと静かにしまった。
彼はゆっくりと、コルネリアの逃げ場を塞ぐような至近距離まで自身の身体を寄せてくる。
触れ合う肌から直接伝わってくる、彼の高い体温と、甘く危険な気配。
「……ネリー」
名前を呼ぶその声音は、昨日よりもさらに一段階低く、そして背筋が痺れるほどに甘い引力を孕んでいた。
カエラムの手が伸び、コルネリアの震える指先を絡め取るようにしてしっかりと握りしめる。
「以前、私がお話しした言葉……まさか、忘れてはいませんよね?」
耳元で囁かれたその問いかけに、コルネリアは弾かれたように彼を見上げた。
彼のアンバーの瞳には、理性という名の枷を完全に外した一人の男としての愛情が静かに燃え上がっていた。
夜の静寂の中、逃れられない支配に飲み込まれていく抗えない夜の始まりを確信し、コルネリアは彼がもたらす熱に自身のすべてを委ねるかのように、静かに目を閉じるのだった。




