158 グリンダさんの牧場の、サンディーですわ
天頂から降り注ぐ夏の太陽が、森の木々の輪郭を鋭く浮かび上がらせる昼下がり。
肌を焦がすような強烈な熱気を避けるため、診療所の裏庭に広がる草地には、古い大樹が濃く涼やかな影を落としていた。
その心地よい木陰の中心で、ファノーネが時折心地よさそうに短い呼気を漏らしながら、豊かに茂った夏の牧草を食んでいる。
大きな麦わら帽子を目深に被ったコルネリアは、少し離れた場所からその穏やかな風景をペリドットの瞳で見守っていた。
風が吹き抜けるたびに、周囲に満ちた緑の匂いと、大地の乾いた香りが彼女の鼻腔をくすぐっていく。
――その時。
コルネリアの足元で自身の影を追いかけて遊んでいたコユキが、不意にその短い足の動きを止め、前方へ向けて緊張を孕んだ姿勢をとった。
まだ幼いながらも家族を守ろうとする本能からか、喉の奥を低く震わせて明らかな警戒の声を上げる。
彼のマリンブルーの瞳は、ファノーネがいる木陰のさらに奥、鬱蒼と茂る茂みの方向を鋭く射抜いていた。
「コユキ? どうしましたの……?」
普段は無邪気なコユキの異変に気づき、コルネリアが彼と同じ方向へと視線を巡らせる。
次の瞬間――彼女は信じられないものを見たというように、小さく息を呑んでその場に立ち尽くした。
ファノーネのすぐ隣に、いつの間にかもう一つの見上げるほどに巨大な影が並び立っていたのである。
黒と白の斑模様を持つその巨体と、何も考えていないようなのんびりとした瞳。
間違いない。
以前もこの裏庭に侵入し、コルネリアが大切に育てていた薬草を食い荒らそうとした、グリンダの牧場の食いしん坊な牛――サンディーであった。
サンディーはコルネリアの視線に気づく様子もなく、ファノーネの隣で分厚い口元をゆっくりと動かし、我が物顔で反芻を繰り返している。
さらにコルネリアを驚かせたのは、サンディーの足元で動く二つの小さな影だった。
丸々と太った見事な体躯に、立派な赤いとさかを持つ二羽のニワトリが、コユキの警戒の声など全く意に介する様子もなく、地面の虫を探して気ままに歩き回っていたのである。
予期せぬ珍客たちの来訪にコルネリアが呆気にとられていると、背後の扉が開く音が聞こえた。
コユキの放つただならぬ気配を察知したカエラムが、医学書を置いて外へと出てきたのである。
彼は状況を瞬時に理解すると、丸メガネの位置を直し、コルネリアの隣へと歩み寄った。
「これは……また随分と賑やかなお客様がいらっしゃいましたね。あの牛は、たしか以前にもお見えになった……」
「はい。グリンダさんの牧場の、サンディーですわ。それに、足元には立派な鳥まで連れ立っておりますの」
二人が顔を見合わせていると、森の奥へと続く小道の方から、息を激しく切らせた足音と、互いに声を掛け合う男女の切羽詰まった声が近づいてきた。
「ほら、言った通りだろう! 足跡は完全に診療所の方角へ向かっていたからな!」
「本当だわ、助かった! あなたの追跡の技術がなかったら、森の奥深くで迷子になって見失うところだったわよ!」
茂みを掻き分けて裏庭へと飛び出してきたのは、牧場で働くグリンダと、肩に狩猟用の道具を提げたタツィオだった。
二人は額に滲む汗を拭いながら、木陰で涼む巨大な牛と二羽の鳥の姿を視界に捉え、同時に深い安堵の息を吐き出した。
「先生、コルネリアさん! またウチの牛が勝手にお邪魔して本当にごめんなさい!」
グリンダが両手を合わせて深く頭を下げると、隣に立つタツィオも申し訳なさそうに苦笑を浮かべて会釈をした。
タツィオは森の恵みを狩る猟師であり、グリンダは家畜を育てる牧場の働き手である。
職業は違えど、互いの専門的な技術を頼りにし合い、生活の中で生じる様々な苦労を当然のように助け合って生きている。
今回もまた、頑丈な柵を破壊して逃走したサンディーの行方を追うため、グリンダが森を知り尽くしたタツィオの追跡能力を頼ったのであろう。
彼らの間にある遠慮のない言葉のやり取りからは、深い信頼関係と日常的な連帯がはっきりと見て取れた。
「お二方とも、暑い中を走り回って大変でしたね。サンディーはファノーネの隣で、とても大人しくしておりますよ」
カエラムが穏やかな声で労うと、グリンダは大きなため息をつき、恨めしそうにサンディーを睨みつけた。
「大人しいのは食べている時だけよ! また一番太い柵を体当たりで壊して逃げ出したの。しかも今回は……足元を見てよ。キビとアワまで一緒に連れ出していたなんて、本当に信じられないわ!」
グリンダが指差した先では、キビとアワと呼ばれた二羽のニワトリが、やはり何も気にしていない様子で地面をつついている。
「さあ、帰るわよサンディー! おやつの時間はとっくに終わり!」
グリンダは気を取り直し、サンディーの首に巻かれた太い革の綱を力強く引いた。
しかし――サンディーは、ファノーネの隣の居心地の良い草地がよほど気に入ってしまったのか――あるいは、単に動くのが面倒になったのか。
四つの巨大な蹄を地面に深く踏ん張ったまま、全く動こうとする気配を見せなかった。
グリンダが体重をかけて綱を引いても、巨大な岩のように微動だにしない。
「ちょっと! いい加減にしなさいよ、この頑固牛!」
見かねたタツィオが、首に巻いていた手拭いで汗を拭い、グリンダの隣へと進み出た。
「牛は後で俺も手伝って引っ張るから、まずはそっちの鳥たちを捕まえてしまおう。俺がやるよ」
タツィオは腰を低く落とし、長年の狩猟生活で鍛え上げられたしなやかな筋肉を研ぎ澄ませた。
標的は、地面を呑気に歩き回る丸々と太った二羽の鳥。
彼にとって、これほど容易い獲物はないはずだった。
タツィオが一瞬の隙を突き、目にも留まらぬ速さでキビとアワに向けて飛びかかる。
しかし――驚くべきことに、キビとアワはタツィオの指先が触れる寸前で、その丸い身体からは想像もつかないほどの圧倒的な瞬発力を発揮した。
二羽は同時に羽を大きく広げて見事に宙を舞い、空中で優雅に軌道を変えてタツィオの腕を完全に回避したのである。
勢い余ったタツィオは目標を見失い、そのまま前方の草地へと鈍い音を立てて突っ伏してしまった。
「あははっ! タツィオ、見事に避けられてるじゃない! 猟師の腕が泣くわよ!」
地面に倒れ込んだ彼を見て、グリンダが腹を抱えて遠慮のない笑い声を上げる。
タツィオは草まみれになった顔を上げ、「あいつら、ただのニワトリじゃないだろ……」と不満げに文句を言いながらも、その表情には怒りではなく、どこか可笑しそうな笑みが浮かんでいた。
一向に帰ろうとしない脱走兵たち。
それどころか、サンディーは綱を引くグリンダを無視してのっそりと歩き出し、なぜかコルネリアの足元へと顔を近づけて、彼女の着ているエプロンの匂いを嗅ぎ始めた。
宙を舞って着地したキビとアワもまた、吸い寄せられるようにしてコルネリアの足元へと集まり、コユキのすぐ横に陣取ってくつろぎの姿勢を見せている。
動物たちに愛され、懐かれてしまっているコルネリアの姿――。
その信じられない光景を目の当たりにしたグリンダの顔から、先ほどまでの笑いが消え、代わりに深い思考の波が押し寄せてきた。
数秒間の沈黙の後。
彼女は一つ大きな息を吐き出すと、かつてこの場所でファノーネの購入を持ちかけた時と全く同じ、抜け目のない商売人としての鋭い光をエメラルドの瞳に宿した。
「ねえ、先生。それにコルネリアさん。こんなお話はどうかな?」
グリンダは居住まいを正し、二人の顔を交互に見つめて魅力的な提案を口にした。
「このサンディーと、キビとアワのこと……診療所で買い取ってみない? 見ての通り、この子たちはすっかりコルネリアさんに懐いてしまっているわ。ここで暮らす方が、きっとこの子たちにとっても幸せだと思うの。それに、牛がいれば毎日絞りたての濃厚なミルクが手に入るし、新鮮な卵も毎日食べ放題になるわよ!」
毎日、絞りたてのミルクと、新鮮な卵。
その魅力的な言葉の響きに、コルネリアの脳裏には様々な光景が瞬時に浮かび上がった。
ミルクから作る滑らかな乳酪や、風味豊かな黄金色のバター。
そして、産みたての卵をたっぷりと使ったふんわりとした菓子や、色鮮やかな朝食の数々。
想像するだけで、彼女のペリドットの瞳は期待と喜びに満ちた強い輝きを放ち始めていた。
隣に立つカエラムが、コルネリアのその反応を見逃すはずがなかった。
彼は愛する女性が新しい生活の広がりに胸を躍らせている事実だけで十分すぎる対価であると判断し、いつもの穏やかな微笑みを浮かべて即座に頷いた。
「ええ、喜んで迎え入れましょう。コルネリアさんの料理の幅が広がることは、私にとってもこの上ない幸福ですからね。代金は金庫からまたいつでも用意いたしますよ」
「交渉成立ね! ありがとう、先生! これで牧場の柵の修理代も浮くわ!」
グリンダが歓喜の声を上げて両手で万歳をした直後、彼女は草を払って立ち上がったばかりのタツィオへと振り返り、ちゃっかりとした依頼を投げかけた。
「というわけだからタツィオ! 大急ぎで、ここに新しく立派な牛小屋と、鳥たちが快適に過ごせる小屋を作るお仕事、今からお願いできるわよね?」
突然の建築作業の丸投げに、タツィオは一瞬だけ目を丸くしたものの、すぐに呆れたような、それでいて頼りにされたことが嬉しそうな笑みを浮かべて肩をすくめた。
「人使いが荒いな、お前は。まあいいさ、先生たちにはいつも世話になっているし、森から最高の木材を切り出して、冬の寒さにも耐えられる特製の小屋を建ててやるよ。明日からすぐに取り掛かる」
猟師でありながら見事な大工仕事もこなすタツィオの心強い言葉に、診療所の未来は一気に活気と騒がしさを伴って動き始めた。
足元ではコユキが新しい同居人たちを不思議そうに見上げ、ファノーネは木陰で静かに尻尾を揺らしている。
思いがけない脱走劇から始まった、巨大な牛と二羽の鳥という新しい家族の加入――。
さらに賑やかさを増していくことになりそうな森の診療所の未来を前に、カエラムとコルネリアは顔を見合わせ、夏の青空の下でどこまでも楽しげな笑い声を響かせるのだった。




