155 もう、後戻りはさせませんよ
涼やかな夜風が、森の木々を静かに揺らす真夜中。
昼間の熱気はすっかりと鳴りを潜め、診療所の周囲は深い静寂と、月明かりが落とす青白い影に包まれていた。
充実した休日の余韻がまだ色濃く残る室内では、柔らかなランプの灯りが居住区画を淡く照らしている。
真新しい水色の首輪を誇らしげに着けたコユキは、よほど今日という日が楽しく心地よいものだったのか――あるいは、二人の間に漂う普段とは違う甘い空気を敏感に察知して気を遣ったのか。
部屋の隅に敷かれた専用の柔らかな毛布の上で、早々に丸くなって深い眠りの淵へと沈んでいた。
規則正しく上下する小さな背中と、静かな寝息だけが、室内における微かな時の流れを刻んでいる。
寝台の上では、活気ある街の探索、そして美味しい料理と少しばかりの酒を堪能した二人が、心地よい疲労感とともに並んで腰を下ろしていた。
カエラムは自身の顔からトレードマークである丸メガネを外すと、手元にあるケースへと丁寧に収めた。
それは以前、コルネリアが彼の誕生日に丹精を込めて手作りしてくれた、世界に一つだけの特別な眼鏡入れである。
指先で布の柔らかな感触を撫でるように確かめ、彼女の愛情が形となったその品を、寝台脇の小机の上に静かに置く。
視界の端が裸眼特有の輪郭の曖昧さを帯びた状態で隣へ意識を向けると、そこには、普段の姿からは想像もつかないほど、無防備に全身の緊張を解き放ったコルネリアの姿があった。
美味しい料理に合わせてグラスを重ねた冷たいエールが、彼女の身体の奥底で甘い熱に変わり、皮膚のすぐ裏側を静かに巡り続けているのがわかる。
普段は澄み切っているペリドットの瞳は、とろけるような薄い水の膜に覆われており、焦点がどこか甘く揺らいでいた。
吐息のたびに、微かなアルコールの香りが甘い蜜のように大気を溶かし、彼女の全身から発散される高い体温が、触れずともカエラムの肌へと直接伝わってくるようだった。
寝間着から覗く白い首筋や、枕の上に無造作に散らばる髪の毛の一本一本にまで、抗いがたい色香が宿っている。
「……夜もすっかり更けましたね。ネリー、おやすみなさい」
カエラムは込み上げてくる愛おしさを込めて、その無防備に開かれた唇に触れるだけの優しい口づけを落とした。
穏やかな夜の挨拶。
互いの体温と吐息を共有し、彼は相手の負担にならないよう、そのまま自身の身体を離そうとした。
――しかし、次の瞬間。
コルネリアのしなやかな両腕が、彼の首元へ滑り込むようにして回され、決して逃がさないとばかりに首の後ろでしっかりと組み合わされたのである。
そのまま彼女の体重が後方の柔らかい敷布団へと傾き、カエラムは強い引力に引き寄せられるようにして、寝台の上へと倒れ込む彼女の上に完全に覆い被さる体勢を強いられた。
予期せぬ拘束と、全身で受け止めることになった彼女の柔らかさに、カエラムは僅かに目を見張った。
彼自身はアルコールに対する耐性が極めて高いため、頭の中は完全にしらふの状態である。
だからこそ、腕の中から直接伝わってくる彼女の熱量と、温泉で使った石鹸の香り、そして首に回された腕の確かな力が、ひどく鮮烈に理性を揺さぶった。
「……ネリー?」
戸惑うように名前を呼ぶが、彼女は腕を解くどころか、さらに力を込めて彼を引き寄せ、その身を密着させてくる。
吐息が直接肌に触れるほどの至近距離。
焦点の甘いペリドットの瞳が、下からカエラムの顔をじっと見つめ上げていた。
その瞳の奥にある、彼を求める欲求。
カエラムの胸の内で、これまで懸命に張り詰めてきた一本の太い理性の糸が、音を立てて断ち切られるのがわかった。
彼女は大切な恋人であり、自分が守るべき存在である。
だからこそ、いつだって余裕のある大人として振る舞ってきた。
しかし、彼女自身からこれほどまでに無防備な誘いを受けて――なお耐え続けられるほど、彼は聖人ではなかったのだ。
「……困りましたね」
紡がれた声音は、地を這うように低く――相手の逃げ場を完全に塞ぐような、強気な響きを含んでいた。
「こんな夜更けに、私を煽るような真似をして……私がいつまでも、理性を保った優しいだけの男でいられると、本気で思っているのですか?」
カエラムは彼女の首に回された腕を無理に引き剥がすことはせず、むしろその誘いに応えるように、自身の体重をゆっくりと彼女の上へと沈み込ませた。
視界のぼやけた彼が、さらに顔を近づける。
日々の多忙にかまけて手入れを怠っているわけではないが、彼の顎の輪郭には少しだけ無精髭が顔を出しており、それがコルネリアの首筋から柔らかな肌へと微かに擦れるように触れる。
その僅かにざらつく男らしい感触が、彼女の身体に抗えない痺れをもたらした。
さらにカエラムは彼女の首筋に顔を埋めたまま、その小さな耳たぶへと唇を寄せ、軽く歯を立てて甘噛みをした。
鋭敏な部分を突然刺激され、コルネリアの喉の奥から甘い声が漏れ出る。
彼女の身体が微かに跳ねるのを感じ取り、カエラムは満足したように低く笑うと、その耳元へ向けてさらに熱い吐息を吹き込んだ。
「もう、後戻りはさせませんよ」
その囁きは、鼓膜を直接震わせる甘い呪縛となってコルネリアの全身を雁字搦めにする。
二人の間の境界線は――この夜の闇の中に完全に溶け落ちて消え去っていた。
衣擦れの音が静かな室内に幾重にも重なり合い、二人の熱を帯びた吐息が深く混じり合っていく。
触れ合う肌と肌が互いの存在を確かめ合い、決して離れられない引力となって二人を夜の底へと引きずり込んでいく。
彼女の髪が枕の上に波のように広がり、二人の影が月明かりに照らされて一つに溶け合う。
何もかもを委ね合い、理性の枠を越えて貪り合う深く濃密な時間。
果てしなく続く甘美な夜の深淵へと沈んでいく二人を、森の静寂だけが優しく見守っていた。




