154 先生と過ごす時間は、私のすべてですわ
夕闇が森の木々を深い紺青へと染め上げていく頃。
ファノーネを馬小屋へと戻し、荷物を抱えた二人が居住区画の扉を開けると、待ちわびていた小さな家族が弾かれたように飛び出してきた。
今日はコルネリアの足元に柔らかな身体をすり寄せるだけでは飽き足らないのか、短い前足を懸命に伸ばしてカエラムの靴にすがりつき、顔を擦り付けて全身で帰宅の喜びを表現している。
「ただいま、コユキ。長い時間、一人でお留守番をしてくれてありがとう」
コルネリアが荷物を置き、足元で甘えるコユキを抱き上げると、その小さな身体から微かな温もりが伝わってきた。
彼女は早速、ユーズヴェンドの革用品店で買ってきた袋を開け、中から水色の首輪を取り出した。
「ほら、コユキ。あなたへの贈り物ですわ」
厚みがありながらも滑らかに鞣された良質な革の首輪を、コユキの首元にそっと巻き付け、金属の留め具を通す。
急激な成長を見越して少しだけ余裕を持たせたその首輪は、雪のような毛並みによく映え、何より、コユキの持つマリンブルーの瞳の色と美しく調和していた。
「……素晴らしいですね。色合いが彼の瞳にぴったりと合っていますし、確かな革の質感が、彼をとても頼もしい存在に見せてくれます」
カエラムがアンバーの瞳を細めて感心すると、コユキもまた、自身の首元にある新しい装飾品が気に入ったのか、誇らしげに小さな胸を張って見せた。
首輪の装着を終え、二人は休日の疲れを癒す温泉へ向かう前に、夕食の下準備を済ませてしまうことにした。
コルネリアは、アルバーノの店で買ってきた新鮮な鶏もも肉を取り出す。
氷の魔法で凍らせていた表面を流水で素早く解凍し、大きめのひと口大に切り分けていく。
深い器に肉を入れ、すりおろした大量のニンニクと生姜、そして醤油を注ぎ込んだ。
肉の繊維の奥深くまで味がしっかりと染み込むよう、手で力強く揉み込んでから、味を馴染ませるためにしばし静置する。
「お肉に味が染み込むまでの間、私たちは温泉で一日の汗を流してまいりましょうか」
「ええ。さっぱりと身を清めてからいただく夕食は格別ですからね」
診療所の奥に湧き出る温泉は、休日の街歩きで疲労した筋肉の強張りを芯から解きほぐし、肌に付着した夏の熱気を心地よく洗い流してくれた。
肌触りの良い寝間着に着替え、キッチンスペースで合流した二人は、まずお腹を空かせているコユキの夕食を用意した。
小鍋で柔らかく茹でたお肉と刻んだ野菜を混ぜ合わせたご飯を器に盛って床に置くと、コユキは新しい水色の首輪を見せつけるようにしながら、夢中になって中身を平らげていった。
小さな家族が満足したのを見届け、いよいよ二人の夕食作りである。
コルネリアは、しっかりと下味が染み込んだ鶏もも肉に、衣となる粉を薄く、隙間なくまぶしていく。
平鍋にたっぷりの油を引き、高温になるまで熱する。
そこへ衣を纏った鶏肉を静かに落とし入れた。
油の表面で激しい気泡が立ち、ニンニクと醤油の焦げる食欲を刺激する匂いが、一気にキッチンスペース全体を支配する。
表面の衣が硬くなり、きつね色に色づいたところで一度引き上げ、余熱で中まで火を通す。
こうすることで、外側は硬く香ばしく、中は肉汁を蓄えたジューシーな唐揚げに仕上がるのだ。
鶏肉を揚げている間に、カエラムは上に掛ける野菜のソース作りを担当した。
ミザリィの店で買った肉厚で色鮮やかなパプリカと、菜園で今朝収穫したばかりの赤い完熟トマト、そして瑞々しいズッキーニを、刃先で細かく均等な大きさに刻んでいく。
それらを深い鉢に入れ、たっぷりの酢、少量の砂糖、そして風味付けの香草の油を混ぜ合わせる。
彩り豊かで、見ているだけで口の中に酸味が広がるような特製ソースの完成である。
「先生、唐揚げも揚がりましたわ。それと、お酒の準備もいたしましょう」
コルネリアは、街から帰る途中に酒屋で買っておいたエールの瓶を桶に入れ、その中に冷たい湧き水を張った。
そして、水の中に両手を入れて静かに魔力を練り上げる。
指先から放たれた氷の魔法が桶の水を瞬く間に冷やし、エールの瓶を急激に冷却していった。
大皿に山のように盛り付けられた熱々の大きな唐揚げ。
その上から、カエラムが作った彩り豊かな野菜と酢のソースがたっぷりと掛けられる。
「さあ、いただきましょう」
魔法で冷え切ったエールをグラスに注ぎ、二人は円卓に向かい合って座った。
グラスを軽く打ち鳴らして、充実した休日に乾杯を交わす。
喉の奥へと流れ込む冷たいエールが、温泉で温まった身体に極上の爽快感をもたらした。
続いて、大きな唐揚げを一つ箸で掴み、口へと運ぶ。
カリッとした衣を噛み破った瞬間――中からニンニクと生姜の風味が強烈に効いた熱々の肉汁が溢れ出した。
アルバーノが太鼓判を押しただけあって、鶏肉の脂の甘みと旨味は凄まじい。
しかし、その強い脂の主張を、上から掛けられた特製ソースが見事に中和していた。
トマトの自然な酸味、パプリカの微かな苦味、ズッキーニの心地よい食感、そして何より酢の強い酸味が、口の中をその都度さっぱりと洗い流してくれる。
「……これは、見事な調和です。鶏肉の濃厚な旨味を、お酢の酸味と夏野菜の瑞々しさが完全に受け止めている。これなら、夏の疲れた胃袋でもいくらでも食べ進めることができそうです」
カエラムが感嘆の息を漏らすと、コルネリアも嬉しそうに微笑みながら唐揚げを味わった。
「本当ですわね。菜園のトマトとズッキーニが、お肉の味を見事に引き立ててくれています。冷たいエールとの相性も抜群ですわ」
最高の料理と冷たい酒、そして今日一日の楽しかった記憶が、二人の食事の時間をどこまでも鮮やかに彩っていく。
食事が進むにつれ、美味しい料理への満足感とアルコールの熱が、二人の心と身体を心地よく解きほぐしていった。
夜が更け、森の静寂が診療所を包み込む頃――。
「……ネリー。今日は、あなたの笑顔を一日中見ていられて、私はとても幸福でしたよ」
カエラムの声は、普段の穏やかな響きよりも一段階低く、そして微かな熱を帯びていた。
丸メガネの奥にあるアンバーの瞳が、いつもよりもずっと真っ直ぐにコルネリアを見つめている。
アルコールのせいか、あるいは彼の視線のせいか。
コルネリアの頬はほんのりと赤く染まっていた。
しかし彼女は、その甘く危険な視線から逃げることなく、潤んだペリドットの瞳でしっかりと彼を見つめ返した。
「……私もです、先生。先生と過ごす時間は、私のすべてですわ」
円卓の上で、カエラムの大きな手が伸び、コルネリアの指先を優しく――けれど、逃さないようにしっかりと包み込んだ。
触れ合った肌から伝わる熱が、互いの鼓動を少しずつ早めていく。
窓の外では、夏の始まりを告げる夜風が木々の葉を静かに揺らしている。
ランプの火が小さく揺れる室内には、普段の穏やかな日常とは少し違う、甘く濃密な空気が漂い始めていた。
休日の終わりの満ち足りた夜。
二人の距離は限界まで近づき、この後の時間が普段よりも少しだけ大胆で、熱を帯びたものになりそうな予感を静かに匂わせていた。




