149 ジェドさんが少しだけ忘れてしまうのなら
西の空が、茜色から深い藍色へと完全に塗り替えられた頃。
ジェドを笑顔で見送った二人は、ランプの柔らかな灯りがともるキッチンスペースに立ち、今日収穫したばかりの夏野菜を使った夕食の準備に取り掛かっていた。
まずは、足元で期待に満ちたマリンブルーの瞳を見上げてくるコユキのご飯である。
コルネリアは、小鍋で柔らかく茹で上げたお肉に、細かく刻んでしっかりと火を通した夏野菜をたっぷりと混ぜ合わせた。
トマトやピーマンの端の部分など、コユキの小さな身体でも消化しやすいように細心の注意を払って調理した特製のご飯である。
器を床に置くと、コユキは短い尻尾を左右に激しく揺らし、顔を器に突っ込んで夢中になって中身を平らげていった。
コユキが満足したのを見届け、二人は自分たちの夕食作りへと移る。
今夜の主役は、採れたての夏野菜と旨味の詰まった厚切りベーコンを合わせたナポリタンだ。
カエラムが大きな鍋で太めのパスタを茹でている間、コルネリアは具材の準備を進める。
真っ赤に熟した自家製トマトは湯むきして細かく刻み、一晩で巨大化したズッキーニは食べやすい半月切りに。
ピーマンも種を丁寧に取り除いて細切りにした。
厚手の平鍋にたっぷりの油を引き、厚切りのベーコンをじっくりと炒めていく。
脂が溶け出し、香ばしい匂いがキッチンスペースを満たしたところで、ズッキーニとピーマンを投入する。
野菜の表面が艶やかに光り、火が通った絶妙な瞬間に、刻んだトマトをたっぷりと加えた。
トマトが熱で崩れ、水分が飛んで濃厚なソースへと変わっていく。
そこへ、絶妙な硬さに茹で上がったパスタを加え、全体にソースがしっかりと絡むように大きく混ぜ合わせた。
「夏野菜とベーコンのナポリタンですわ。熱いうちにいただきましょう」
円卓に鮮やかな朱色のパスタが並べられ、二人は手を合わせてからフォークを手にした。
太めのパスタを巻き取って口へと運ぶ。
その瞬間――自家製トマトを丁寧に煮詰めたソースの濃厚な甘みと酸味が、ベーコンの力強い塩気と脂の旨味に見事に溶け合い、口の中いっぱいに広がった。
さらに、ズッキーニの瑞々しい食感と、ピーマンの微かな苦味が全体の味を立体的に引き締め、いくらでも食べられそうなほどの完成度を誇っていた。
「……素晴らしい美味しさです。自分たちの手で土から育てた野菜が、これほどまでに濃厚で深い味わいを持っているとは。ベーコンの旨味にも全く負けていません」
「本当ですわね。太陽の光をたっぷりと浴びたお野菜の生命力を、そのままいただいているような気がしますわ」
自分たちの労働の結晶である夏野菜の美味しさに感動しながら、二人は色鮮やかな夕食を心ゆくまで堪能した。
――食後の片付けを終えた後、コルネリアは昼間に残しておいたジェドのスイカを手に取った。
「先生、お風呂上がりのために、冷たいデザートを仕込んでおきましょう」
彼女は赤い果肉を丁寧に取り出し、すり鉢を使って細かくすりつぶして果汁の状態にした。
そして、大きなボウルに移すと、両手をかざして魔力を静かに練り上げる。
彼女の得意とする氷の魔法だ。
ただ凍らせるだけではない。
魔力を繊細にコントロールし、果汁全体を急激に冷やしながら木の匙で絶え間なくかき混ぜていく。
こうすることで氷の結晶が細かく砕かれ、舌触りの滑らかなスイカのシャーベットが完成するのだ。
出来上がったシャーベットを器に盛り、冷たい水を張った桶の中でさらにしっかりと冷やしておく。
甘い準備を終えた二人は、一日の農作業でかいた汗と土の匂いを洗い流すため、順番に診療所の奥にある温泉へと向かった。
地中から湧き出す温かな温泉は、労働で凝り固まった筋肉を芯から解きほぐし、心地よい疲労感だけを残して身体をさっぱりと清めてくれた。
火照った身体を寝間着で包み、キッチンスペースで合流した二人は、冷やしておいたスイカのシャーベットを円卓へと運んだ。
匙ですくい上げ、口へと運ぶ。
冷たく滑らかな氷の結晶が、舌の上で心地よく溶けていく。
スイカの青く爽やかな甘みが、温泉で温まった身体の熱を優しく奪い去り、喉の渇きを極上の潤いで満たしていった。
「……お風呂上がりの火照った身体に、この冷たさと甘さが最高に染み渡りますね。あなたの魔法は、本当に万能です」
「ふふっ、ありがとうございます。ジェドさんの愛情が詰まったスイカですから、最後まで美味しくいただかなくては」
冷たいデザートに身も心も癒され、静かな夜の時間がゆっくりと流れていく――。
デザートの器を片付け、ランプの火を小さく落とした後、二人は居住区画へと足を踏み入れた。
すき間なくぴったりとくっつけられた大きな寝台。
そこへ並んで横たわり、肌触りの良いシーツを引き上げる。
窓の外からは、夏の森を吹き抜ける涼やかな夜風の音だけが聞こえていた。
互いの肩が触れ合うほどの距離で、カエラムは静かに息を吐き出し、天井を見つめながら口を開いた。
「……ネリー。少し、ジェドさんの話をしてもよろしいですか?」
彼のいつもより少しだけ低く、真剣な響きを帯びた声に、コルネリアは不思議そうに彼の方へ顔を向けた。
「ええ。何かありましたの?」
「実は……今日の午後、彼が菜園の肥料を見た時のことです。あなたは少し不思議に思ったはずです。彼が、自分自身で感心して褒めたばかりの肥料の作り方を、まるで初めて教えるかのように繰り返したことを」
コルネリアはペリドットの瞳を瞬かせ、小さく頷いた。
「はい。あの時、先生がすぐにお話を合わせていらっしゃいましたけれど……少しだけ、違和感がありました」
カエラムは丸メガネの奥のアンバーの瞳に、静かな悲哀と、医師としての覚悟を滲ませてゆっくりと語り始めた。
「あれは、年齢を重ねた者が避けては通れない、認知機能の低下……初期の症状特有の、短期記憶の欠落です。過去の記憶や、長年培ってきた知識はしっかりと残っていても、つい数分前に話したこと、見たことだけが抜け落ちてしまう。彼の身体には、確実に老いの影が忍び寄っています」
その真実を聞き、コルネリアの胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
彼女は悲しそうに長い睫毛を伏せ、シーツを握る手に力を込めた。
「そんな……ジェドさん、あんなにお元気そうなのに」
「ええ。肉体は健康そのものです。ですが、寿命に向かって少しずつ機能を落としていく自然の摂理だけは、どれほど医療技術を尽くしても止めることはできません……ですが、ネリー」
カエラムは彼女の小さな手を、自身の大きな手でそっと包み込み、安心させるように優しく握りしめた。
「病であれば戦いますが、老いは誰もが通る道であり、決して恥ずべきものではありません。今の彼から、土に触れる喜びや、畑を耕す生きがいを奪う必要はどこにもないのです。医師として、彼自身が事実を突きつけられて混乱するようなことは避けたい。私は、彼が笑顔で畑に立てる時間を、あの誇らしげな笑顔を、最後まで守り抜きたいのです」
カエラムの言葉には、抗えない自然の摂理に対する静かな受容と、それを前にしてもなお、一人の人間の尊厳を守り抜こうとする深い愛情が込められていた。
コルネリアは顔を上げ、彼の真っ直ぐな瞳を見つめ返した。
悲しみを乗り越え、彼女の瞳にもまた、確かな決意の光が宿る。
「……はい。私も、先生と同じ気持ちです。ジェドさんが少しだけ忘れてしまうのなら、私たちが何度でも、笑顔でお話を合わせれば良いだけですものね。私も先生と一緒に、ジェドさんの穏やかな日常と笑顔を守りますわ」
「ありがとうございます、ネリー。あなたなら、そう言ってくれると信じていました」
カエラムは安堵の微笑みを浮かべ、繋いだ彼女の指先を自身の胸元へと引き寄せた。
互いの確かな体温と、鼓動のリズム。
それらが、命の尊さと、今ここにある穏やかな時間がどれほど得難いものであるかを、静かに教えてくれている。
窓の外では、夜の闇に包まれた森が深く静まり返っている。
少しだけ切なく――けれど、どこまでも温かく力強い決意を胸に秘めながら。
二人はぴったりと身を寄せ合い、深い愛情の温もりに包まれて、穏やかな眠りの中へと静かに落ちていくのだった。




