147 果樹を植えてみるのはいかがでしょうか?
爽やかな夏の朝日が、窓の隙間から居住区画へと差し込んでいた。
心地よい鳥のさえずりとともに目を覚ましたコルネリアは、隣で寝息を立てているカエラムの顔を見て、ふわりと微笑んだ。
――しかし、身体を起こそうと足元へ意識を向けた時、ある異変に気がついた。
毎朝必ず、足元で丸くなって眠っているはずのコユキの姿がどこにも見当たらないのだ。
不思議に思って寝台から降りようとした――その時。
「ちょっと、なによこれーっ!?」
待合室の方から、モゼの悲鳴にも似た大きな叫び声が響き渡った。
その声にカエラムも弾かれたように目を覚まし、二人は急いで上着を羽織ると待合室へと駆けつけた。
――そこに広がっていたのは、なんとも微笑ましい光景だった。
長椅子の上で毛布に包まって寝ていたはずのモゼの胸の上に、コユキがどっしりと陣取っていた。
そして、コユキはまだ寝ぼけ眼のモゼの顔中を、舌で熱心に舐め回して強烈な朝の挨拶を見舞っていたのである。
「こらっ、くすぐったいってば! わかった、わかったから顔を舐めるのはやめて頂戴!」
モゼが腕で顔をガードしながら身をよじっているが、コユキは尻尾をぶんぶんと振り回し、全くやめる気配がない。
その様子を見たコルネリアは、コユキが朝食を待ちきれずに、昨日からいる珍しい客人を起こして食べ物を催促しているのだと察した。
「モゼさん、申し訳ありません! コユキったら、すっかりお腹を空かせているみたいで……ほら、コユキ、お客様の邪魔をしてはいけませんよ」
コルネリアが抱き上げると、コユキは名残惜しそうにしながらも、今度はコルネリアの顔を見上げて期待に満ちた視線を送ってきた。
「あはは、すっかり目が覚めたわ。この子、見かけによらず結構力が強いのね」
モゼが乱れた赤い髪を掻き上げながら苦笑する。
コルネリアは急いでキッチンスペースへと向かい、コユキの朝ごはんの準備に取り掛かった。
茹でたお肉と野菜を刻んで混ぜ合わせた特製のご飯を器に盛ると、足元でコユキが待ちきれない様子で短い足踏みをしている。
「コユキ、ご飯の前にご挨拶ですわよ。おすわり」
コルネリアが静かに命じると、コユキはすぐさま姿勢を正し、行儀よく後ろ足を折りたたんで座った。
「上手ですわ。次は……おて」
コルネリアが手のひらを差し出すと、コユキは小さな白い前足をふわりと持ち上げ、彼女の手の上にちょこんと乗せた。
彼の完璧な所作に、コルネリアは目を細めて頭を優しく撫でた後、器を床へと置いた。
コユキは歓喜の声を短く上げると、夢中になって朝ごはんを平らげていった。
「さて、私たちの朝食も作りましょう」
コルネリアは昨日モゼが持ってきてくれた新鮮なきゅうりを手に取った。
薄く輪切りにしてから少量の塩を振り、丁寧に揉み込んで余分な水分を抜いていく。
こうすることで、きゅうり特有の青臭さが消え、心地よい歯ごたえとさっぱりとした味わいが引き出されるのだ。
続いて、かまどに火を熾し、特製の出汁を小鍋で温める。
炊きたての白いご飯を深い器に盛りつけ、その上には昨日の夕食で残しておいた、甘辛く煮付けた穴子の切り身を乗せる。
さらに、東の珍しい食材である海苔を、手で細かくちぎってたっぷりと散らした。
そこへ、熱々に煮立った出汁を静かに注ぎかける。
出汁の熱によって海苔の磯の香りが一気に立ち昇り、穴子の煮汁がご飯へと優しく溶け出していった。
「穴子と海苔のお茶漬け、そしてきゅうりの塩もみですわ。モゼさんも、先生も、冷めないうちにどうぞ」
円卓に並べられた湯気を立てる朝食。
三人は席につき、静かに手を合わせてから匙を手にした。
お茶漬けを一口すすると、温かい出汁の旨味とともに、海苔の豊かな風味と穴子の濃厚な甘みが口いっぱいに広がる。
昨晩の宴でお酒をたくさん飲んだ胃袋に、その優しい温度と味わいがじんわりと染み渡っていくのが分かった。
「……これは素晴らしい。海苔の風味が、出汁の香りをさらに一段階引き上げていますね。朝の身体に、これほど優しく沁み渡る食事はありません」
「本当ね! 少しお酒が残っていたけれど、このお茶漬けのおかげですっかり胃が落ち着いたわ。きゅうりの塩もみも、さっぱりとしていて最高の箸休めになるわね」
カエラムもモゼも、感嘆の息を漏らしながら匙を進める。
朝の澄んだ空気の中、三人は穏やかな朝食の時間を心ゆくまで堪能した。
――食後、モゼは帰り支度を整え、自身の馬へとまたがった。
「先生、コルネリアちゃん。今回もごちそうさま。海苔もあんなに美味しく料理してもらえるなんて思わなかったわ。また近いうちに、珍しい海の幸を持ってくるから楽しみにしていてね!」
「ええ、気をつけてお帰りください。いつでもお待ちしておりますよ」
「モゼさん、ありがとうございました。またお会いできる日を楽しみにしておりますわ」
高く昇り始めた太陽を背に受けて、モゼは大きく手を振ると、森の小道を颯爽と駆け抜けていった。
彼女の明るい後ろ姿が見えなくなるまで見送った後、二人は日課である朝の仕事へと取り掛かった。
カエラムは裏庭の馬小屋へ向かい、ファノーネに新鮮な水と牧草を与え、ブラッシングをしてから小屋の掃除を行う。
一方のコルネリアは、すっかり夏野菜が勢いづいた菜園の畝に立ち、丁寧に水やりをしながら雑草を抜いていた。
赤い実をつけ始めたトマトや、紫色の花を咲かせるナスを愛おしそうに見つめた後、彼女の視線は、菜園の端にあるまだ何も植えられていない空いた土の空間へと向けられた。
作業を終えて手を洗いにきたカエラムに、コルネリアはペリドットの瞳を輝かせて提案した。
「先生。あちらの余っている少し広い空間に、お野菜ではなく果樹を植えてみるのはいかがでしょうか?」
「果物の木、ですか?」
カエラムが丸メガネの位置を直して聞き返すと、コルネリアは力強く頷いた。
「ええ。木を育てるのには、お野菜よりもずっと長い時間がかかるかもしれません。でも……何年か先、このお庭で私たち自身の手で育てた甘い果物を収穫できるようになれば、私たちのこの生活はもっと、豊かで素晴らしいものになると思うのです」
時間がかかるからこそ、共に過ごす長い未来を信じていなければ出ない言葉。
彼女が自分とここで生きていく未来を、何年先までも思い描いてくれているという事実に、カエラムの胸の奥が温かい感情で満たされていく。
彼はアンバーの瞳をこの上なく優しく和ませ、彼女の細い肩にそっと手を置いた。
「それは、とても素晴らしい提案ですね。あなたが思い描く未来の果樹園を想像するだけで、私も心が躍ります。今度の休日にエルマー氏のところへ足を運んで、この森の気候に合う果樹の苗がないか、二人で相談しに行きましょうか」
「はいっ! とっても楽しみですわ」
コルネリアが満面の笑みを咲かせると、足元でコユキも嬉しそうに尻尾を揺らした。
森の木々を揺らす風が、これからの季節への期待と、二人が共に歩む長い未来への希望を運ぶように、どこまでも爽やかに吹き抜けていくのだった。




