146 お酢を混ぜたご飯とお魚を、この海苔で巻いて巻き寿司というお料理にするのです!
西の空が燃えるような茜色から、夏の始め特有の熱を帯びた深い藍色へと静かに移り変わろうとしていた夕暮れ時。
カエラムとコルネリアが本日の業務を終え、診療所の後片付けをしていた時のこと――。
森の奥へと続く小道から、重い蹄の音が規則正しく近づいてきた。
二人が不思議に思って表へ出ると、そこには見慣れた逞しい馬の手綱を握る、燃えるような赤い髪を後ろで一つに束ねた女漁師――モゼの姿があった。
「カエラム先生、コルネリアちゃん! こんばんは!」
日焼けした肌に快活な笑みを浮かべ、モゼは馬の背に積まれた木箱や麻袋を次々と地面に下ろしていく。
裏庭の馬小屋からは、友人の来訪を喜ぶファノーネの穏やかな呼気が聞こえてきた。
「モゼさん、ようこそいらっしゃいました。また遠くから、海の恵みを運んできてくださったのですね」
カエラムが労いの言葉をかけると、モゼは得意げに胸を張った。
「ええ! 今日はとびきり脂の乗った穴子が手に入ったのよ。それから、道中で農家から新鮮なきゅうりも分けてもらったわ。でもね、今日の目玉はこれよ」
モゼが麻袋の奥から取り出したのは、見たこともない薄く四角い、深い墨色をした紙のような食材だった。
「……これは、東の海で採れる海苔という海草を干したものだわ。珍しい商人が港に来ていてね、どうやって食べるのかも分からないけれど、面白いから買ってみたのよ」
カエラムが不思議そうにその真っ黒な紙を見つめる中、コルネリアはふと、かつて王都の書物庫で読んだ知識を思い出し、ペリドットの瞳を輝かせた。
「まぁ! これ、書物で読んだことがありますわ。東の国では、お酢を混ぜたご飯とお魚を、この海苔で巻いて巻き寿司というお料理にするのです!」
――コルネリアの提案に、三人はすぐさまキッチンスペースへと移動し、調理に取り掛かった。
まずはモゼが持参した旬の穴子である。
カエラムが正確な手つきで素早く骨を外し、開いていく。
それをコルネリアが醤油と砂糖を合わせた特製の汁で、身がふっくらと柔らかくなるまでじっくりと煮含めた。
焦げた醤油の香ばしく甘い匂いが、キッチンスペースを満たしていく。
さらに、卵を何層にも重ねて分厚い卵焼きを作り、モゼが持ってきてくれた新鮮なきゅうりを細長く切り揃える。
炊きたてのご飯に合わせ酢を混ぜ込んでうちわで風を送り、艶やかな酢飯を完成させた。
「書物には、竹で編んだすだれという道具を使って巻くとありましたが……診療所にはそのような道具はありませんわね。ですが、代用品で工夫してみますわ」
コルネリアは機転を利かせ、厚手の麻布を木の板の上に広げ、その上に海苔を置いた。
海苔の上に酢飯を均等に広げ、中央に煮穴子、きゅうり、卵焼きを真っ直ぐに並べる。
そして、麻布ごと具材を包み込むようにして、両手で均等に力をかけながら、くるくると形を整えて巻き上げていった。
麻布を外すと、海苔に包まれた見事な太巻きが完成していた。
刃を少しだけ濡らした包丁で切り分けると、断面には具材が美しい模様となって現れ、モゼとカエラムから感嘆の吐息が漏れた。
太巻きを大皿に並べ、モゼが用意していたよく冷えた東方の酒をグラスに注ぐ。
「さあ、夏の始めの夜に乾杯しましょ!」
モゼの快活な声に合わせてグラスを打ち鳴らし、冷たい酒を喉へと流し込む。
キリッとした辛口の酒が、一日の疲れを清らかに洗い流していく。
続いて、完成したばかりの巻き寿司を口へと運んだ。
「……これは、驚きました。海苔が持つ豊かな磯の香りが、穴子の濃厚な甘みと見事に調和しています。きゅうりの瑞々しい歯ごたえと卵焼きの優しさが、酢飯の酸味によって見事に一つにまとまっている。海苔という食材が、これほどまでにご飯の旨味を引き立てるとは」
カエラムが絶賛すると、モゼも大きく頷きながら次々と太巻きを口へ運んでいく。
「本当ね! 穴子の脂の乗りも最高だし、何よりコルネリアちゃんの味付けが絶妙よ。お酒にもぴったりだわ」
海の恵みと東の知恵が詰まった料理に舌鼓を打ち、賑やかな夕食の時間はあっという間に過ぎていった。
――食後、空がすっかり暗闇に包まれた頃。
コルネリアは、昼間に花火職人のレブジから受け取っていた細長い筒の束を取り出し、三人で裏庭へと出た。
足元にはコユキが嬉しそうについて回り、馬小屋からはファノーネが長い首を伸ばしてこちらの様子を窺っている。
ろうそくの火を筒の先端にそっと近づける。
すると、火薬が勢いよく燃え上がり、暗闇の中に鮮烈な光の粒子が真っ直ぐに噴き出した。
ルビーのような赤、エメラルドのような緑、そして鮮やかな黄色と、瞬く間に色彩を変えながら弾ける光の華。
その圧倒的な美しさに、三人の顔が鮮やかに照らし出される。
コユキは初めて見る小さな光の魔法に目を丸くし、不思議そうに首を傾げながら、弾ける火花を捕まえようと短い前足を宙に向けて伸ばしている。
ファノーネもまた、静かに目を細めてその美しい光の瞬きを見つめていた。
「……本当に、美しいですわ」
コルネリアが手元で静かに燃える光を見つめながら恍惚と呟くと、隣に立つカエラムが、花火ではなく彼女の横顔を真っ直ぐに見つめ返した。
「ええ。ですが私には、その光に照らされているあなたの笑顔の方が、何よりも美しく見えますよ」
「もう、先生ったら……」
カエラムの熱を帯びた言葉に、コルネリアは頬を熱く染め、ペリドットの瞳を潤ませて彼を見上げた。
二人の視線が交差した瞬間――周囲の空気は花火の熱とは違う、甘く濃密なものへと変わっていく。
互いの距離が引力に導かれるように自然と近づき、カエラムの手がコルネリアの腰へとそっと添えられた、まさにその時――。
「……あらあら。なんだか私、思いっきりお邪魔だったかしら?」
背後から、わざとらしくからかうようなモゼの明るい声が響いた。
ハッとして振り返ると、モゼが自身の花火を揺らしながら、ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべて二人を見つめていたのである。
「モ、モゼさん! そ、そのようなことは……!」
コルネリアが慌てて身を離し、耳まで真っ赤にして俯くと、カエラムも少しだけ気まずそうに視線を逸らし、小さく咳払いをした。
モゼはそんな初々しい二人の様子を見て、夜の森に響き渡るような大きな声で楽しそうに笑った。
束の間の美しい光を心ゆくまで堪能し、本格的な夏の始まりを三人で共有した後――。
診療所内に戻ると、美味しいお酒と花火の興奮ですっかり満足したモゼが、大きく伸びをした。
「あー、今日も最高に楽しかったわ……ごめん、少しだけ寝かせてもらうわね」
彼女はそう言うなり長椅子にごろんと横たわり、あっという間に豪快で規則正しい寝息を立て始めた。
嵐のようにやってきて、海辺の活気と賑やかな風を残し、心地よい眠りにつく。
その裏表のない自由奔放な姿に、カエラムとコルネリアは顔を見合わせて静かに微笑み合った。
「風邪を引いてはいけませんね」
カエラムがそっと厚手の毛布を彼女の身体に掛けてやる。
窓の外からは、夏の訪れを告げる夜風が涼やかに吹き込んでいる。
新しい食材の発見と、小さな光の魔法。
そして、愛すべき友人との賑やかな夜の余韻は、互いを深く思いやる二人の穏やかな時間の流れの中に、どこまでも優しく溶け込んでいくのだった。




